終戦特集番組」欄を開設しました。投稿をお待ちします。

各放送予定は投稿の下段に表示しています。(判明分のみ)

 


◎2023.10.06 今井  潤

                      

 マスコミ市民10月号【放送を語る会・談話室】~放送を語る会・大阪ホームページ「終戦番組特集」から~  平恵數(放送を語る会・大阪)

読み、高く評価したいと思います
 平さんの感想は、NHK・民放の終戦番組特集を総合的に見て書いていますが、話題になったNHKの「アナウンサーたちの戦争」について、

和田信賢アナの「大本営発表」で国民を戦争に煽り立てた罪の重さに絶句するシーンと、この番組がラジオを悪魔の拡声器にしたドラマと評価

できるが、アナ個人の葛藤と反省にとどまっていると大阪HPへの投稿も紹介されています。
 私がしっかり見たのは「もしも核兵器が使われたら」(8月21日)で、とてもリアルに描かれていて、秀作だったと思います。
他にも平さんが書いているように、ドラマやドキュメンタリーに注目作品が多く、見れなかったのが残念でした。

                            


「こころの時代」
『はだしのゲン』と父 翻訳者・坂東弘美
8月20日(日)午前5時~6時 Eテレ

 

服部邦彦(放送を語る会・大阪)

 

【番組内容】

 「はだしのゲン」は、6歳の時、広島で被爆し家族を失った中沢啓治さんが自らの体験をもとに描いた漫画である。

中沢さんは自分が目の当たりにした 広島の惨状だけでなく軍国主義に覆われた日本社会の問題も鋭く描き出した。

単行本10冊に及ぶ長編漫画 「はだしのゲン」は 現在24の言語に翻訳され世界に広がっている。

番組では、中国語に翻訳した坂東弘美さんへの密着取材を通して、その「思い」や行動、「はだしのゲン」を読むことの意味などを聞いた。

 坂東さんはなぜ中国に「はだしのゲン」を届けたいと思ったのか。

その背景には 日中戦争で出征した自分の父親が 現地で(おこな)ったことを知った衝撃があった。

坂東さんが「はだしのゲン」で最も引き込まれた登場人物は中沢啓治さんの父親がモデルであるゲンの父親・大吉であった。

大吉は 1945年86日の原爆で命を落とす前から日本の軍国主義や朝鮮人などへの差別に徹底して反対する姿勢を貫いていた。

坂東さんにとって、ゲンの父の姿は、国家の命ずるまま日中戦争に出征した自分の父親とは真逆の存在に見えた。

坂東さんの父・要三さんは戦地で撮った数多くの写真を自宅に持ち帰っていた。坂東さんは小学生の頃、偶然見たその中の一枚に大きな不安を抱く。

ひょっとして「お父さんは人殺したことあるの?」って 聞いたら、父が黙ってしまい、しばらくしてから「殺さなかったら俺が殺された」。

初めて浮かんだ父への疑念。

しかし、目の前にいる父親は人を殺したことがあるとはどうしても思えない いつも「優しい父親」そのものだった。

坂東さんには、父の戦争体験についての沈黙が心にのしかかり続けていた。

 20年以上が過ぎた頃、坂東さんに 父がどんな記憶を抱えてきたか知る機会が訪れた。

73歳になった父が 自分と孫に宛てた手紙で、胸に秘めてきた戦争体験を伝え始めた。父からの手紙は3か月間続き便箋にして343枚にも上った。

そこには中国の戦場で自分は何をしてきたのか娘にも語れず胸に秘めてきた記憶が克明に記されていた。

坂東さんの胸に刺さったのは 父の次のような告白だった。

子どもを抱き締めて、「殺さないで」って言う 泣き叫ぶお母さんの顔。まさか、父が寝首をかかれるといけないので先に殺したんだということを書いていて。更に狙われるといけないから 殺すんだという人間のおぞましさ。どういう顔をして人を殺したんだろう。

日本へ帰ってきて どういう顔をして家族をつくって命を育んでくれたんだっていう… 。私の体って、そういうものでできてるんだなって思った。

殺した人の命から生まれた命ということになる。だからこれは無駄に使っちゃいけない命じゃないかということ。社会へ返すこと。

私が受けたものを社会へ返すこと。父の過去を知ったことで坂東さんはその後の自らの生き方を大きく変えてゆく。

 坂東さんが求めた人生の新天地は中国だった。

父・要三さんが亡くなった3年後、1996年に 坂東さんは単身中国に渡る。

坂東さんは 中国の人々の暮らしの中に入り一つ一つ中国語を身につけて行った。

「同じ人間同士つながることはできるのか」。まず本当の言葉で語り合うこと。

日本軍がやったとういう抗日戦争記念館が 中国中にできいる

いかに日本人が残虐なことをしたかというのが記念館になっていて 生徒たちの重点教育地点になっている。

『私たちが行くことによって交流が初めて生まれて、「あっ、日本人も悪いやつばっかりじゃ ないんだな」っていうふうに、実際に交流することで、戦争の話になると、そういうことは 打ち解けていくような気がした』

坂東さんは、「はだしのゲン」が 広島の被爆のみならず、民族差別や中国への加害の問題について描かれていることに注目し、この本こそが本当の関係を築く道を開くのではないかと考えるようになっていく。

 中国語の翻訳を決意した坂東さんに 手を差し伸べたのは 、親族が日本兵による悲惨な体験を持つ職場の仲間 王さんだった。

「はだしのゲン」を通じて戦争の実相をお互いに語り合い、核の問題についても共に考えた。およそ7年をかけた翻訳は2014年に完成。

坂東さんが次に出版社を探す。1年余り後、坂東さんの思いをくみ取ってくれる台湾の出版コーディネーターと出会った。

坂東さんたちが心血を注いだ 中国語の「はだしのゲン」は2016年台湾で出版された。

1巻の表紙となったのは、坂東さんが「はだしのゲン」で 強く惹かれたゲンのお父さんが 特高警察に連行される姿だった。

全10巻の表紙の色の変化には血で染まった焦土と化した広島が時代とともに平和を築く光となってゆく願いが込められていた。

坂東さんは 中沢啓治さんの妻・ミサヨさんと共に中沢さんの墓前に台湾で出版した 「はだしのゲン」を供えた。

墓碑には『人類にとって最高のタカラは平和です はだしのげん 中沢啓二』と刻まれている。「生きてらっしゃる間に 見せたかったね。」

中沢さんの妻は、『主人は「はだしのゲン」に出てる「踏まれても踏まれても麦になれ」ってあるでしょ?あれはね、父親の本当の言葉なんです。

それを思い出して、やっぱり人間愛ですよね。弱い人の味方になってね 頑張れっていう人間愛ですよ。』

 文化も歴史も異なる世界の人々に「はだしのゲン」のメッセージはどのように伝わっているのか。

坂東さんは自分のみならず、世界の翻訳者たちがそれぞれどんな思いを抱いて「はだしのゲン」に向き合ってきたのか  映像に記録し若い世代に知ってもらおうと考えた。

翻訳者たちのメッセージを集めた動画サイトを3か月前に立ち上げた。これまでに話を聞いた翻訳者は10人を超える。

坂東さんがぜひ話を聞こうと考えた 翻訳者がいる。浅妻南海江さん。「はだしのゲン」全巻を最初の外国語版としてロシア語に翻訳した人だ。

ソビエト連邦崩壊後、翻訳に取り組んできた浅妻さんはウクライナで新たな戦争が続いている今、何を思うのか。

「ゲンと今後、その世界に望むこと? どういう思いですか?」

『9.11以降 たくさんの戦争が起きてますけれど、結局戦争は駄目だって思っている人たちの向こう側に戦争をしてもお金がもうかったり権力、利権、石油とかそんなものが入ると思ってるような人たちもいるということ。きれいな人たちばっかりで伝えれば分かってくれる---、そんなに やさしいもんでないっていうことが--ずっとこの間の戦争、きれいごとでは済まない現実を前に「はだしのゲン」はどう伝えるべきか。やっぱり人間の善意を信じてるというか、 そういうようなところも 残していかないと。ゲンの果たす役割というのはあると思う。やっぱり偏見とか 差別とかっていうことは非常に憎しみを生む。 憎しみを生んだら何かの拍子で戦争になったりするもので、そういうことだから、やっぱり相互理解っていうのですかね、お互いに理解し合うということをこれ教育の問題だと思うのですけど。想像力を養ったり人を理解したりするような、そういうような教育が各国できていればいい世界ができると思いますけど。』

 そんな中で、坂東さんは 父の形見となった着物をほどき 自分のシャツや帽子に 仕立て直している。なぜそれを身に着けて暮らそうとするのか。

それは父が戦争体験の手紙に添えて送ってきた最後の言葉が自分に突きつけられた課題だと考えているからだ。

 今年8月6日。 原爆投下から78年目の夏を迎えた広島。坂東さんは平和記念公園の近くに建つ 一つの碑を訪ねた。「無名戦士之碑」。

名も知れず軍国主義やあらゆる差別に抗い続ける苦難の道を歩み、亡くなっていった人たちなどを追悼する碑だ。

中沢啓治さんが「はだしのゲン」で描いたゲンの父のモデル、中沢さん自身の父・晴美さんもまたそうした人の一人として登録されている。

『ちょっとつらいですね。父は平和運動をして捕まった人でも何でもなくて、戦地へ出かけていった方です。でも父が書き残さなかったら、黙ったまま口をつぐんだまま死んでいたら私が知りえなかったことばっかりだからね。 教えておいてくれてよかったなって。

戦争へ行った人、戦争に行かないと言って平和のために戦った人、全部知って自分は、じゃあ何をなすべきか今をね、ちゃんと考えたいと思う。』

過酷な戦争の時代に生きた人々、その存在を忘れることなく。坂東さんは自分が今という時代に生きる意味を考えてきた。

「今も現実に戦争が起きていて、ほんとに日々、その苦しみでうちひしがれている人がいるわけで、そのことを思うと、何でこんな苦しみを再生産してるんだろうって。鬼でも何でもない普通の民でしょ? もっと言えば善良な民が、権力者、強欲な人のために駆り出されてしまう。だからそうしないで、こう生きるには 何が必要かということは常に考えさせられる。しかたがなかったで済まされることかというのが今の問いですね。」

番組の最後は次のような中沢さんの言葉で締めくくっている。

2012年12月19日  中沢啓治さんは 73歳でこの世を去った。中沢さんは「はだしのゲン」に込めた思いを記した一冊の本を残している。

『わたしの遺書』、その中で、中沢さんは 次のような言葉でしめくくっている。

『つらいことがあっても明るく前向きに生きる強い男の子にゲンを描きました。「はだしのゲン」の漫画の中には、ゲンの父親が語る「ふまれてもふまれてもたくましく芽を出す麦のようになれ」というセリフが何度も出てきます。僕たちには、きっと負けない「麦の精神」があるのです。

「はだしのゲン」がこれからも読み継がれていって、何かを感じてほしい。それだけが私の願いです。』

 

 8月の番組にふさわしい、戦争、原爆を許さない思いを「はだしのゲン」を取り上げて考えさせられる優れた番組だと思った。

最近、広島市が「はだしのゲン」を平和教材から削除したり、松江市が 学校図書館での「はだしのゲン」の貸出、閲覧を制限する動きが出ており、

これらに抗議、撤回を求める動きが広がっている。

「はだしのゲン」は今の時代にこそ多くの人々、子供たちに読んでほしい本だと思う。

 

                  

                                            

 髙野春廣(放送を語る会・名古屋)

 「ヒューマニズム」という言葉を久々に思い起こした。
 『はだしのゲン』の作者・中沢啓治さんのお墓の前で、妻のミサヨさんが「人間愛ですよね。弱い人の味方になってね。がんばれっていう人間愛ですよ。」と坂東さんに話しかける。「踏まれても、踏まれても元気を出せ、というのがゲンのテーマです」とも言う。
人類にとって最高の宝は平和です。と刻まれている丸みをおびた横長の墓碑の映像が良い。
「資源のない小さな国の日本は平和を守って世界中と仲よくして貿易で生きるしか道はないんだ」「お前らは戦争の熱病にかかりだまされているんだ」「いまに戦争のばからしさがわかる!冷静な正しい目でみることをおぼえろっ」漫画の一コマ一コマがテレビ画面いっぱいに写し出される。ゲンの父親のこのセリフは、今の日本の状況の中で、一層かみしめたい。
坂東さんの父親は、日本軍の一員として中国の上海・南京に行く。「殺さなかったら、俺が殺される」という体験もする。大人になってはじめてこのことを知り、坂東さんはショックを受ける。その後、中国の中学、高校の日本語教師募集のポスターを見て応募
し、訪中。折を見て、父親の足跡をたどる。「すいません、すいません」と言いながら、中国の人たちとの交流を深める。こうして中国のくらしの中に入り、中国語を身につけていく。さらに、中国国際放送局で働くことになり、何でも話せる親友を得る。その親友らと『はだしのゲン』の中国語訳に取り組み、7年間かけて、全10巻を完訳。
  台湾での出版は、2,016年に実現したが、中国大陸では、10社に及ぶ出版社に掛け合ったが、未だ成功していない。でもあきらめず交渉を続けていくという。
『はだしのゲン』は、世界24の言語に翻訳されている。
坂東さんは、翻訳者たちのメッセージを伝える動画サイト『ゲンの翼』を3か月前にたちあげた。その中で、モンゴルのキム-ソンイさんは「普通の人の人生を描いた、それがすごくいいんですよ。普通の人がどんな人生を送っていたか、戦争についてどう思っていたか、モンゴル人に伝えたいんですよ」と言っている。


番組を見逃した方、『ゲンの翼』はいつでもYou Tubuでご覧いただけますので是非どうぞ。

 

 

 

 渋沢理絵(放送を語る会)

 

 『はだしのゲン』中国語翻訳者である坂東弘美さんは坂東さんのお父様が生前に体験された戦争に兵隊として闘っていた戦争の話を聞いたことがなかったそうです。しかしお子さんの戦争についての宿題に手紙で応える形で知らなかったお父様の戦時中のことを知ることになります。番組では坂東さんのお父様の戦時中の思いと『はだしのゲン』作者の中澤啓治さんの思い、坂東さんの『はだしのゲン』を中国語翻訳し、発行するまでの思い、取り組みについて描かれています。
坂東さんのお父様による手紙には、初めて語る戦争の記憶、自分が戦時中してきたことに対しての後悔が綴られています。戦時中、母親が必死に泣きながら子供を抱きかかえ殺さないでくれと懇願したのに銃殺したことや隠れていた人々を全員殺したことなどが手紙にあり、殺さなかったらこちらが殺されていたと綴ります。子煩悩で子供達のためにブランコを手作りしてくれる優しいお父様だったそうで、坂東さんの記憶にある父とはかけ離れていた父の戦時中の姿であったそうです。坂東さんが戦争のことを聞こうとしたらけして話さなかったそうなのですが、それは思い出すとつらくてできれば思い出したくない記憶だったのだろうと私は思います。坂東さんのお父様も『はだしのゲン』作者の中澤啓治氏も戦後、戦争を漫画にし戦争の怖さを伝えるとともに反戦を訴えた中澤氏と坂東さんのお父様は対照的なようで戦争を二度と繰り返してはいけないとの反戦の部分では共通していると私は思います。『はだしのゲン』作者の中澤氏は番組の中で『はだしのゲン』の描写が怖すぎるという投書があったそうだが、それに対して中澤氏は「恐ろしい漫画に映ってよかった。にたにた笑いながらあの漫画を読んでいたらおかしい。怖いなと思われることに感謝したい。」と述べています。私はあの漫画をちゃんと読まなければいけないと思います。怖いだろうがそれが戦争の姿、事実なのだから事実を知らないといけないと思います。『はだしのゲン』は24ヵ国語に翻訳され世界に広がっています。読まれなきゃいけない漫画だと思います。目をそらしてはいけない、きれいごとだけじゃない、反戦のメッセージや戦争の姿が描かれています。
坂東さんは『はだしのゲン』を翻訳するにあたり、わかりにくい、想像しにくい日本特有の風習が『はだしのゲンの』中に出てきます。例えば千人針は中国の人には伝わらない言葉です。中国の人には古着もよくわからず、戦後古着をなんで売ってるのだと疑問に思われたそうです。いろいろと工夫されて『はだしのゲン』中国語翻訳版が完成されているとのです。坂東さんの『はだしのゲン』に対する熱い想いが協力した皆様の心を揺さぶったのだと思います。

 

 



【映像の世紀バタフライエフェクト】
「太平洋戦争を“言葉”で戦った男たち」 8月23日午後11時50分~0時34分
                   五十嵐吉美(放送を語る会)

  番組は、ローマ字の「コウサンセヨ/コロサナイヨ/ブキヲステロ/テヲアガロ/ダマレ」から始まった。日本語を繰り返し教えている。1941年12月真珠湾攻撃で開始された太平洋戦争。当時アメリカには日本を知る人がほとんどいなかった。急きょ制作された映画「我々の敵 日本人」。駐日大使を10年務めたジョゼフ・グルーが解説を担当――天皇ヒロヒトは神で、国民は土地から人々まで天皇の所有物だ———と。日本との戦争に「言葉は武器」と考えたアメリカは、日本語堪能な士官の養成を極秘裏に進めた。
  暗号の解読や捕虜の尋問にあたった日本語情報士官、ボルダーボーイズと呼ばれた人――14歳まで日本で育ったオーティス・ケーリは専門をいかせると志願、敗戦後、昭和天皇の地方巡幸をアドバイスしたと言われる。「源氏物語」に惹かれていた友人のドナルド・キーンも日本語のわかるアメリカ人がいないことを知り、志願。日本人は狂信的な民族と思い込んでいたが軍人の残した日記を読み、同じ人間であることを理解。その後日本との交流、文化の紹介に貢献、日本国籍を取得して亡くなった。エドワード・サイデンステッカーもボルダーボーイズの一人で、復興に努力する日本人の働きぶりに目をみはり日本文化を研究。その後川端康成のノーベル文学賞受賞に貢献する。エール大学で法律を学び弁護士資格をもつテレファー・ムックは占領したテニアン島で、子どもたちの学校を開校、その後の交流も描いて、それぞれの日本とのかかわり、日本との懸け橋となった男たちのドキュメント。
  時間の制約にもかかわらず発掘映像を駆使して、私たちが知らない戦争を見せて
くれた。なかでも【映像の世紀】と銘打った番組ならではの、映像の持つ記録性、おのずと暴露されるリアルな真実、戦争そのもの残酷さが、テーマの外側にあふれ出した。
  1944年アッツ、サイパン、テニアン島を攻め落としたアメリカ軍は、その進軍の記録をカラーフィルムでしていた。島の洞窟めがけて真っ赤な圧倒的な火力で焼き払う。整備した島の飛行場を飛び立った爆撃機は日本の都市の上空から爆弾をバラバラ、バラバラと落とす。ひそかにテニアン島に持ち込まれた原子爆弾をエノラ・ゲイに登載、離陸、広島、長崎上空で炸裂するキノコ雲。その下で、焼き尽くされた街にあふれる虚ろな人々、道端で寝ているのか死んでいるのかわからない母と子、汚れた裸の姿、
はだしで検束されるやせ細った戦災孤児たち、ノウテンキな昭和天皇の地方巡幸など、記録された映像は、戦争の無意味さ、無残さを見せつけたのだ。  なかでもテニアン島を陥落させ上陸した米軍の映像記録を見るのは、私ははじめてであった。当時サトウキビの生産で1万人が暮らしていた島。9500人が捕虜となり2000人は子どもだった。列をなして投降してくるなかの幼い兄妹とみえる子どもがアメリカ兵士から何やらお菓子のようなものをもらいお辞儀をするシーンもとらえている。
  子どもたちのために学校をつくることにしたテレファー・ムック。廃材を活用して3カ月で開校した「テニアンスクール」。机を前に子どもたちの笑顔がはじけている。整列して体操、算数、理科を日本語で指導することが将来の子どもたちに大切だと考えたムック。校長の池田と対立したのは、男女共学をめぐってだった。池田校長は、女子は体力だけでなく知力も男子に劣ると主張。決着はすぐあきらかに。成績上位者は男女同数であった。ムックの希望は、戦争は嫌なもの、子どもたちが平和を願うような教育だった。  46年後の1991年、「テニアンキャンプ学校」同窓会が開かれ、妻と来日したムック。池田校長との対面。手には若かりしムックと池田校長の写真が握られていた。成績上位の女子の上岡さんは教師となって同窓会に出席した。「日本語はすっかり忘れたが、みなさんのことは忘れていない」とテレファー・ムックの晴れ晴れとした表情、2008年に死去。彼の言葉が残された——「戦争中であっても普通の暮らしの中にあっても、私たちはあらゆる機会を通じて関わり合うべきです。ともに歩み寄り、積極的に働きかけ、そして幸せや平和を目標にすべきなのです」。
 この番組のスタッフに感謝したい。

 



【映像】のもつ力 ~二つの作品(テレビ番組と映画)を視聴して~

2023.08.26 K.F(放送を語る会・大阪)  

 

◎ news23   「特集:106歳  戦争の記憶を絵に」

 

 栃木県に住む現役の理容師・箱石シツイさん(106歳)。

彼女は、東京オリンピックの聖火ランナーを務めた方で、ディレクターが聖火リレーの取材を重ねる中で箱石さんが何度も語ったのは戦争の記憶。

ディレクターは、写真にも映像にも残されていない箱石さんの戦争の記憶を絵にして伝えることができないかと考え、法廷画家の根本真一さんに依頼する。そして、出来上がった絵を見ながら改めて箱石さんの証言を聞くという内容だった。

 

 私の印象に残った絵と証言は・・・

 

【絵①】空襲警報下、座布団を背中に乗せて赤ちゃんに覆いかぶさる母親

「赤ちゃんだけは助けようと思った。赤ちゃんはあやしてくれているものと思って笑っていた。」

【絵②】窓越しに見る空襲

「遠くに見えた空襲、音と光が花火のようだった。」

【絵③】召集令状が届き、二人の子供を抱きしめる夫

「夫は、家の二階で顔中涙だらけにして二人の子どもを長い時間抱き続 けていた。」

【絵④】応召した夫との面会と農家のトマト

「面会時『水も飲ませてもらえない』という夫のために、農家を訪ね回 って、やっとトマトを譲ってもらった。

『子どもの顔を一目見たかった』という夫の言葉は本当に辛かった」

 

 箱石さんは子供2人を連れて、実家の栃木県那珂川町に疎開。

親戚の家に身を寄せながら1945年の終戦を迎え、御主人の戦死の知らせが届いたのは終戦から8年後の1953年。

 

【絵⑤】遺骨受領

「箱の中身は小さな位牌だけ。

 ただの板切れ、ずいぶんバカにしていると思った。

 何年も待ったのに板切れだった。悔しかった。

 指の爪でも何でもいい、本物が欲しかった。」

【絵⑥】雨戸を閉め切った暗い家の中の母子

「絶望の中、子供と一緒に死のうと考えた。

 親戚の人たちから涙ながらに説得され、子供たちのために生きようと決心した。」

 

 箱石さんは最後にこう言葉を結んだ

 

「私みたいな苦労した人はいっぱいいる。

  戦争ってやるもんじゃない。誰もがそう思っているでしょうね。

  それでもやるんだから。今のウクライナなんか本当にかわいそう。

  こういうの(再現した絵)を見ると胸が詰まる。

  思い出してぞくぞくする。

  こういう時代が来なけりゃいいね、これから戦争なんかなくて。」

 

 以前、展覧会で見た「高校生が描く原爆の絵」、講演会で見た「大東亜戦争・戦争画」。

写真と違い、絵には作者の主観が入ることになるが、伝えたいことは強く心に響く。

今回の番組でも、再現された絵が加わることで、戦争体験者の証言をよりリアルに感じることが出来た。

 

妻と母親としての戦争体験を埋もれさせない柏木ディレクターの企画に拍手を送りたい。

 

《 8/18放送(14分)》

             

◎ 映画「ひろしま」(1時間44分)

 

 以前、知人から「私、若いころに映画に出たことがある」と聞いた。その映画が『ひろしま』だった。

一度見てみたいと思っていたが、今年の8月、大阪の映画館で二週間の限定上映があると知った。

 もうひとつ《見なければならない》という気持になった出来事がある。最近、外国の方と話す機会があり、《外国の人たちは自分の国の近現代史を自分の言葉で説明する》ことを知った。

広島・長崎と二度の原爆被害を受けた国の人間として知っておくべきことだと思った。

 

 平日、25席ほどのミニシアターが満席だった。

1953年に公開された映画なので、終戦から8年後に作られた作品だ。

教職員組合が制作したもので、多くの市民や団体から延べ88000余人が協力したという。

 映画は、主に二人の教師(岡田英次・月丘夢路)とその生徒たちと家族を描いていく。

被爆シーンは時間をかけて克明に描写されていた。

終戦間もないころの撮影なので、スタッフやキャストにも実際に体験された方も多くいたであろうし、街にはまだ戦争の傷痕が残っていたと思う。

資料映像も挿入されているが、違和感は全く感じなかった。

がれきの中を我が子を探し回る母親(山田五十鈴)、家屋の下敷きになった妻を救えなかった夫(加藤嘉)などの鬼気迫る演技も胸を打つ。

 

 「新しい戦前」とも言われる現在に通じる場面もあった。

原爆で家族を失って戦争孤児となり、定まった職を持たない青年が工場に勤め始める。その青年が教師に訴える。

「僕は工場を辞めました。工場が急に大砲の弾丸を作り始めたんです。

 ぼくはそんなものは作りたくなかった。

 殺人狂時代という映画を見ました。

 戦争でたくさんの人を殺したら英雄になるのに、ほかの人殺しは死刑になるといっています。先生、戦争はまた始まるんですか?

また、女子学生が言います。

「戦後の広島には立派な教会がいっぱい建ちました。

 朝夕、平和を訴える鐘が広島の空に響いています。

 しかし、また誰かが戦争の準備をしているのではないでしょうか?」

戦後間もない時期に、現代に通ずる警告が込められているのに驚いた。

 

 広島市民たちの手により《被爆の実像を後世に残す》という一致した強い思いを感じさせる作品。

映画の中で原爆症について嘲笑する学友たちに「クラスのみんなや先生に知ってもらいたい。世界の人たちに知ってもらう前に、まず日本の人たちに知ってもらいたい。何より広島の人たちやクラスのみんなに知ってもらいたい。」と発言する男子学生。

 この映画で訴えたかったのはこの男子生徒の思いだったのではないか。

 

 

【追記】

この映画「ひろしま」はカラー化された全編が視聴できます。          

 ひろしま / Hiroshima (1953) [カラー化 映画 フル / Colorized, Full Movie] - YouTube  

                           



2023.08.24 安藤晴美(青森)
 NHKスペシャル「原子爆弾・秘録~謎の商人とウラン争奪戦~」
 【8月6日放送】
                   
 今年の夏も戦争にまつわる番組が多く放映され、知らないことがまだまだあるんだと思い知らされました。NHKスペシャル「原子爆弾・秘録―謎の商人とウラン争奪戦」は、一瞬のうちに21万人の命を奪った広島・長崎で使用された原子爆弾の原材料ウランをアメリカに売り込んだ商人が書き残した3万ページの資料に基づいて報じられたものでした。
 その商人エドガーサンジェはベルギーの最大の財閥ユニオンミンエール社の一人の商人としてベルギーの植民地だったコンゴで銅の生産を任されていました。そこで偶然出合ったのが純度の高いウラン鉱石で、当時ウランの活用方法はなかったが、いつか活用方法が見つかれば、市場を独占できると先行投資したものの、ウランの用途はみつからないまま1937年に閉山した。
 しかし、その後ドイツの科学者がウランの価値を発見し、その当時ヒットラーが台頭してきており、ドイツが核を手にすることを恐れ、1940年末にベルギー領のコンゴにあったウラン1200トンを秘密裏にニューヨークへ出荷し、スタテン島に保管された。1941年12月8日真珠湾攻撃でアメリカが日本に宣戦布告をしたことを受け、サンジェはアメリカに売り込みを開始し契約が成立。アメリカ、イギリス政府はコンゴの鉱山から99年間の専売権の契約も。
 アメリカは開発中だった原爆の研究を再開。原爆投下は戦争を早期に終わらせるために核の力を示すことが必要だったとする。そして、1945年7月16日ニューメキシコ州で最初の核実験に成功し、その3週間後8月6日の朝広島に、そして8月9日長崎に2発の原子爆弾を投下した。一商人が手渡したウランでつくられた原子爆弾によって広島で14万人、長崎で7万人の命を無差別に奪った。一命をとりとめた人々もやけどや放射線で苦しめ続けられることになる。
 サンジェは、戦争を終わらせることに著しく貢献したとして外国人には異例な大統領からの勲章を授与された。しかし、サンジェの手記には、核実験を繰り返し、欲望を加速する国家に対し恐怖がつづられている。
 コンゴでは終戦後7年間1万人が過酷な労働の下、ウラン採取を続けさせられた。ほとんどが肺の病気で亡くなっていったとも。コンゴがベルギーから独立する1960年まで広島型原爆の3500発に匹敵するウランを採掘し、核実験は194回繰り返された。ユニオンミニエール社の売り上げは年間2000億円に達しヨーロッパ有数の鉱山会社に成長し、サンジェは名誉会長まで上り詰めた。

              

 この番組を見てとてもやるせない気持ちになりました。戦争の裏で儲ける死の商人が暗躍する時代はなくしていかなくては…。


2023.08.20 大林清(放送を語る会・大阪)

 

 8月19日(土)は俳句の日・バイクの日。エッセイストの吉永みち子さんが スポーツ紙のコラムで、「八月は 六日九日 十五日」という俳句を(故)永六輔さんがラジオで紹介していた記事を知り、録画していたNHK終戦特集番組を視聴しました。その感想です。

 

NHKスペシャル

「原子爆弾・秘録~謎の商人とウラン争奪戦」

・ウラン鉱石がアフリカ・コンゴ共和国から産出されていたとは知らなかった。

 番組では原子爆弾の仕組みは放送されなかったのでネットでから基礎知識を得る。改めてとてつもない殺りく兵器をアメリカが製造し広島と長崎に使用した。まさに戦争犯罪だと思う。

 

歴史探偵

「消えた原爆ニュース」

・コミック的な構成の番組ながら、今回の「消えた原爆ニュース」は的を射た内容だった。

 広島、長崎の原爆報道をGHQが禁止、検閲、統制まで。報道の扉を開いたのは京都大学生と

ノーベル賞の湯川博士だったとは知らなかった。

 

 戦後78年、第2次安倍政権下で当時の高市総務大臣が「行政指導に従わない放送局は電波停止に

する」との国会発言とNHK(元)籾井勝人会長が「政府が右と言うことを左とは言えない」発言

は記憶に新しい。このような動きから放送局側は「政権へ批判的なコメンテーターを降板させるこ

とに・・・」と推察する。 報道の統制や自主規制は形を変えて「新しい戦前」とも思える動きが

見え隠れする。 マスコミ人の更なるジャーナリスト精神に期待するものである。

 

 吉永さんは、今年もNHKが戦争特番を組んでいて、「制作現場の良心がまだ残っていることがうれしい」とも述べている。また、「戦争回避が理想と言うと笑われるようになったのが、2023年8月なのである」と結んでいる。

 



NHKスペシャル「アナウンサーたちの戦争」

    NHK総合 2023年8月14日(月)午後22時か 

 

太平洋戦争では、日本軍の戦いをもう一つの戦いが支えていた。ラジオ放送による「電波戦」。

ナチスのプロパガンダ戦に倣い「声の力」で戦意高揚・国威発揚を図り、偽情報で敵を混乱させた。

行ったのは日本放送協会とそのアナウンサーたち。

戦時中の彼らの活動を、事実を元にドラマ化して放送と戦争の知られざる関わりを描く。

(NHKホームページより) 

 


 渋沢理絵(放送を語る会)

 

当時の国民にとって太平洋戦争はラジオニュースから始まった。12月8日大本営からの第一報を和田信賢アナが書き取り、その原稿を館野守男アナが読み上げ国民は熱狂した。この和田信賢アナウンサーを軸に物語が展開する。

新人アナウンサーの研修の様子が描かれる。正しい情報で一人でも多くの人を助けることがアナウンサーの仕事だと語られる。亡くなった兵士の代わりに兵士の思いを代わりに和田アナウンサーがラジオで代読するのだが、そのシーンが胸にささる。ある時、内閣情報部からアナウンサー達の読み方が生ぬるい読み方だと注意され、原稿が破られる。中にはヒトラーを見習う読み方をすべきだなどと言う方もいて、私はヒトラーっぽい読み方なんて嫌だ、見習いたくないと思った。
 和田アナウンサーの仕事を勉強したいと実枝子アナウンサーが言い、街の様子をアナウンスする和田アナウンサーの様子を描くシーンがあるのだが、私はそのシーンが好きだ。街で暮らす人々の様子がいきいきと伝わる読み方だ。どのように人々が生活しているのかよくわかり、想像もできる。そこで住んでいる人々の景色、生活がひしひしと伝わってくる。和田アナウンサーの実枝子アナウンサーに対する「結婚しないか」とのプロポーズには驚いた。素敵なプロポーズだと思う。
 戦場へ向かうアナウンサーの仲間たちを祝うシーンがあるのだが、妻の実技子さんが外で嘆くシーンに共感する。実技子さんは和田アナウンサーのラジオからの声が好きだったけど、変わってきたと指摘した。和田アナウンサーは戦地に向かう人々を応援したり、戦況を細かく伝えていたつもりが戦争が悪化する中で自分の応援、情報は戦地に若者を人々をけしかけているだけなのではないかと思い悩むようになる。以前、野球を実況した青年たちは特攻隊となり命を落とす。フィリピンのマニラ放送局に行った仲間はたくさん死亡し日本に戻らなかった。
 和田アナウンサーのやるせない思いはよくわかる。確信のもてない情報がニュースになることも怖い。なにが真実でなにがうそかわからず伝えている。アナウンサーの仲間が「きれいごとはたくさんだ!」と叫ぶシーンで和田アナウンサーが「信用のない言葉ほど惨めなものはない」という。この言葉に同感する。和田アナウンサーは葛藤する。青年たちと語り合う中、将来の夢としてアナウンサーになりたかったという青年もいた。若くして死ななければならない運命、お国のために死ななければならない運命なんてつらすぎる。アナウンサーにだって、アナウンサーではなくてもなににだってなれる未来がないなんておかしい。未来ある青年たちが死ななきゃいけない世の中なんておかしい。青年たちでなくとも誰が死んでもよくない。ある青年に和田アナウンサーが「どうせあんたは戦地に行かないのだろう」といわれ、和田アナウンサーには僕らの気持ちなんてわかるのか、ふざけんなといわれる。そう言われても仕方がない。こっちは死ぬんだぞ、あなたは生きてアナウンサーとして生きるのだろうとのやるせない思いがでてる。確かにこちらは戦地に赴く人々のやるせない気持ちを代弁しているのだけだ。ただ頑張れ!と無責任に応援して、戦争のよい情報だけを伝えて、日本が勝っていると伝え続けてはいないか。自責の念が和田アナウンサーを責める。和田アナウンサーは「戦地に行きたくない」との青年たちの声を伝えていなかったのではないか。でもだからといって和田アナウンサーはどうすればよかったのか。マニラ放送局に行ったアナウンサーたちも懺悔の言葉を口にする。「言葉はなんの役にもたちませんでした」と嘆き、飢えとマラリアで死んだ兵士たちの話をする。アナウンサーたちは「日本は勝っている」と伝え続けた私達のせいだとした。「ラジオは夢の機械だったが私達が悪魔の拡声器にしてしまった」とのセリフもある。重いセリフだ。和田アナウンサーの「やめましょう、こんなことは」とのセリフが印象的だ。ラジオはいい面もあるが悪い面もある。実技子アナウンサーの友達のアナウンサーが空襲で幼い子どもと共に死んだことことがわかったとき、悲しかった。女性の社会進出を生前語っていてよい友人だった。

戦争はかけがえのない人を奪う。夢のある若者のかけがえのない命を奪う。一生懸命に生きていたたくさんの命を奪う。戦争をしていいことおこらない。戦地に向かう若者たちを送るアナウンサーの仕事はつらすぎる。アナウンサーとして戦争に加担してしまった責任は重い。重い責任を丁寧に描いているドラマだと思った。そんな中でも「虫眼鏡で調べ望遠鏡でわかりやすく」伝えようとした和田アナウンサーはすごいと思う。戦争を応援した責任はあるが、それに向き合い悩んでいた。自分ならどうしただろうと考えるドラマだった。またエンドロールから知ったのだが、和田アナウンサーの妻の実技子アナウンサーはアナウンサーに復帰したとのことだ。前向きな力強い素敵な方だと思った。他の方もそれぞれ頑張られていた。和田アナウンサーも頑張られていた。つらい嫌な思いをしてアナウンサーという仕事を辞めず続けている方もいらして素敵なことだな、アナウンサーという仕事はやはり素敵な仕事だなと思った。

 

 山村恵一(放送を語る会・大阪)

 

太平洋戦争の戦意高揚の旗振りとなったラジオ。携わったアナウンサーの群像ドラマだった。番組は当時の新人女性アナの独白から始まる

言葉には力がある」 「言葉で世界を変える魔法。それはラジオだった」しかし、ラジオの魔法は幸福ではなく、国民を戦争に駆り立てる兵器となった。

 

1941年12月8日 連合艦隊の真珠湾電撃作戦で太平洋戦争は始まった。日本国民がそれを知ったのはラジオの臨時ニュースだった。

臨時ニュースを申し上げます」「 大本営陸海軍部 12月8日 午前6時発表」「 帝国陸海軍は 本8日未明 西太平洋において アメリカ イギリス軍と戦闘状態に入れり」  大本営海軍部 午後1時発表  帝国海軍は ハワイ方面のアメリカ艦隊 ならびに航空兵力に対する決死的大空襲を敢行せり。シンガポールを爆撃し 大なる戦果を収めたり

 大本営からの第1報を書きとったのが和田信賢アナ、その原稿を高揚して読み上げたのは館野守男アナだった。バックには軍艦マーチが流され否が応でも戦意発揚と放送なった。長期にわたる日中戦争のなか、ラジオから流されるニュースに国民は熱狂し沸き立った。戦争に反対する声はこの大波に押し潰されて、悲惨な道を歩むこととなった。

ドラマは、テレビ実験放送に集まるアナウンサーたちのエピソードが紹介された。「カラスが12羽」(松内)、二・二六事件の「兵に告ぐ」(中村)「双葉山70連勝ならず」(志村)関東大震災で家族を亡くした今福アナは「正しい情報がないために10万人が犠牲になった」「正しい情報の伝達で一人でも多くのひとを助ける」そのために我々の仕事はある」と語ったが、そうはならなかった過酷な現実を見ることになった。

ドラマの主人公の和田信賢アナは「虫眼鏡で調べて 望遠鏡でしゃべる」と語る。

 日中戦争の慰霊・鎮魂放送で、和田アナの戦死者が憑依したような語りに、「これでは国民は戦意喪失だ!」との強い叱咤がされた。日独伊3国同盟が締結され、内閣情報部や陸海軍などの情報事務を一元化する情報局を設立。 新聞雑誌やラジオへの情報統制を強化した。

情報局はアナの読み方まで「なまぬるい・勢いがない」などと指示、女の声など無用だまで言わしめるようになる。ただ、アナウンサーは指示に従っただけだろうか。むしろ、自ら進んで戦勝に向けて高揚発揚の放送をしたのではないのだろうか?

開戦ニュースを読んだ館野アナに、一同が「米英の思い通りにさせるか」「日本人の心意気を感じた」につづけて、「万歳「万歳」をくりかえしている。あとは、挙国一致、家庭も先陣、国運を賭しての闘いなど敵への憎しみを煽る国威発揚放送の一本道をたどったのである。

この状況に疑問を呈したアナもいたが、「アナウンサーはいまや国家の宣伝者 アジテーターである」「マイクが運ぶのは国家の意思だ」にかき消されるのである。戦線が拡大するに伴い、南アジア各地に国策放送局が建てられアナウンサーも赴任し、現地での日本化やアメリカの戦意を挫く放送、いわゆる電波戦の戦士とされ、多くのアナウンサーや職員が還ることが無かった。

アッツ島の戦況で和田アナは「全力を挙げて壮烈なる攻撃~全員玉砕と認む」と。それまで使われていなかった「玉砕」に「玉のように砕け散る美しい言葉」と、続けて「あなたの言葉には力がある、その力が国民を歓喜させ安堵させ背に意を発揚させる」と評される

その後、確かめようのない「大本営発表」を繰り返し放送し、大人だけでなく子供たちまでもその戦果に狂気する事態に誘ってしまうのである。

無条件降伏の受諾に際し、行音放送の前に「あまりにも多くの国民が死んでいった。それは・・・私たちのせいだ。」「ラジオが現れた時、夢の機械と喜びんだ。知らない国の知らない人の様子が聞ける」「しかし私はそれを使って死ねと呼びかけた。我々は夢の機械を悪魔の拡声器にしてしまった」

戦後、巷で子供から「大本営発表」と声をかけられ、和田アナは大きな罪に絶句する。

名前になじみのあるアナウンサーが多く出てくる。彼らが戦争にどうかかわったのだろうか、抵抗はあったのか弾圧は?に興味があったが、アナ個々の群像劇に終始していてリアルさが足りない印象を受けた。戦争遂行に進んで関わっていったアナ集団の責任は重大と考える。個別の懺悔や反省が見られるが、日本放送協会の責任があいまいに終わっている弱さがあると感じた。

南方の放送局には、多数の技術職員も赴任、職場で先輩にその話を聞いた覚えがあります。

戦後のNHKの発展は平和の下でこそと思います。戦争に参加していれば願うべきこともなかったことでしょう。ゆえにNHKは平和を希求し国民に隠さず正確な情報提供をと思う。

 

  小滝一志(放送を語る会)

 

ラジオを「悪魔の拡声器」に変えた放送人の責任
 番組の冒頭、タイトルの下に小さく「これは事実に基づくドラマです」の表示が出る。
「言葉には力がある。言葉で世界を変える魔法、それはラジオだった」と新しく生まれたメディアに大きな期待を寄せて歩み出した戦前の放送人の苦い悔恨と自省のドラマである。
 番組は、型破りの名物アナウンサー和田信賢を主人公にストーリーが展開される。
時は、日中戦争から太平洋戦争へラジオが国民を戦争に駆り立て総動員する道具として最大限に利用された時、1939(昭和14)年から敗戦まで。
 「情報局」が設置され、新聞・雑誌・ラジオへの情報統制が強化され、放送担当課長は「放送局は、我々の指導の下、世界の熾烈な電波戦を戦う本拠地」と宣言する。放送局内には「読み方まで指示されるんですか」との反発もあるが、「情報局が正しい」「プロパガンダが戦況を左右する。ヒトラーを見習わなくちゃ」と同調するものも多い。
 新人アナウンサーに「虫メガネで調べて望遠鏡でしゃべる」と意味深なアドバイスする主人公和田信賢アナは靖国神社の招魂祭実況中継で「お母さん、嘆いてはいけないよ。俺は救国の英霊となって永遠にお国の為に生きるんだから」と語り、情報局の軍人から「これじゃ国民は戦意喪失だ!」と激怒される。そんな和田だが開戦の臨時ニュースに戦意を煽る軍艦マーチをかぶせるような一面も描かれる。
 開戦とともにアナウンサー仲間では、「歴史的決戦の時に俺たちは重要な役割が任されている」「敵を憎しむように読め、アメリカ、イギリスにはケモノ偏をつけて突撃ラッパのように読めと。国民に憎しみを植え付けるなんて恐ろしいことですよ」「それは違う。我々アナウンサーは、今や国家の宣伝者アジテーターなんです。マイクが運ぶのは国家の意思だ」などと激論が交わされる一方、軍部・情報局の方針で170名もの放送局員が電波戦の戦士として南方に派遣され各地に100を越える放送局が開設された。
 日々、戦況放送に携わる主人公和田だが、初めて使われる「玉砕」の言葉に疑問を感じ、国の秘密任務に使われている愛宕山の旧放送所の知人から「負け続けだ!」と悪化する戦況を知らされ、マニラ放送局帰りの同僚アナから「ウソのニュースを電波に載せてジャワのオランダ軍を混乱させるのが任務だった」と聞かされ、信用の無い言葉を伝え続けるみじめさに気付く。
 1943(昭和18)年10月21日神宮外苑の出陣学徒壮行会。実況放送を任された和田アナは事前に、「戦争は殺し合いをするところだ。君たちのホンネを聞きたい」と学生たちにインタビューを試み、彼らのホンネを実況放送にどう盛り込むか苦しむ。
 壮行会当日、学生のホンネを実況放送に盛り込むことのできない和田は、良心の呵責、無念さに耐え切れず現場から逃げ出す。
 スタジアム通路に逃げ込んだ和田の内心の絶叫が映像化される。「私が聞いた学徒の言葉であります。誰にも言えないこの思い。『正直、怖い』『死にたくない』『生きたい』この言葉を私はどのように聞けばよかったのでありましょうか。どうかお聞きください、国民のみなさま。彼らは二度とここには帰ってこないのであります
 1945(昭和20)年8月、終戦を知らせる臨時ニュースを和田に読ませようとする情報局総裁(元日本放送協会会長)下村宏と和田の対話に放送人の深い悔悟が吐露される。
下村「おそらく軍や民間人が決起して反発が起きる。まさに一億玉砕だ」
和田「それは私たちのせいだ」
下村「ラジオが表れた時、私は『夢の機械』だと喜んだ」
和田「しかし私はそれを使って『死ね』と呼びかけた」
下村「そうだ。我々は『夢の機械』を『悪魔の拡声器』してしまった。だからこそこれ以上犠牲を出したくない。国民も軍も納得できるよう陛下の言葉を砕いて説明して欲しい。それができるのは君しかない」
 ラストシーン、ナレーションでアナウンサー仲間の戦後が短く伝える。
 ラストカットは、戦後和田夫妻が街で出会った少年の「大本営発表・・」の一言、それを聞いて呆然とする和田のアップ。
それはどんなに悔いて改めても消すことのできない戦前の放送人の犯した過ちの責任を象徴するカットではないだろうか。幼気な少年に戦意を煽る大本営発表を刷り込んでしまった責任。出陣学徒へのインタビューで「これを聞いてどうしようってんだ。あんたは助けてくれるのか。どうせあんたは行かないんだろう」と詰め寄られながら送り出した責任・・・等々。
 私には、このラストカットは、戦前の放送人の犯した過ちを忘れず、その教訓を今日に活かそうとする制作者・今の放送人の決意とも受け取れた。
 NHKの政治報道が政権寄りと批判され、一時「アベチャンネル」などと揶揄された現状を思い起こす時、この番組は今日的な意義ある力作と評価したい。
 ドラマの中では、「放送は国の監督下に置かれていた」「情報局が置かれ情報統制が強まった」など、当時の状況がコメントでさらりと語られるが、軍の厳しい情報統制が具体的に描かれるシーンが少なく、情報局や軍に同調、迎合するアナウンサー仲間の背後の事情が今一つ伝わってこないことが惜しまれる。




特集ドラマ「軍港の子 よこすかクリーニング1946」 

   NHK総合 8月10日 22:00~

 

2023.08. 13 五十嵐吉美(放送を語る会)
 以前から私は日本という国が戦争責任を果たそうとしないこと、戦災孤児や空襲被害にあった国民への謝罪や保障がないことに対して怒りを感じていた。忍従を強いたこと、そのことをもっと取り上げてほしいと思っていた。8月10日朝、「しんぶん赤旗」を開いたら、NHK特集ドラマ「軍港の子」きょう放送との見出しで番組が大きく紹介されていた。企画・演出が34歳の若手であることに驚き、「今の子どもたちに生きる力を与える作品を作りたい」との田島彰洋さんの思いがどのようなドラマになったのか、夜の番組視聴を期待して待った。脚本は大森寿美男。
 米軍の巨大軍艦が停泊している横須賀港。よこすかクリーニング」の表示がある古びた建物、母娘が車でやってくる。この店の主の祖父がなくなったので店じまいをするためだ。孫娘が見上げる小川今日一の表彰状からドラマはスタート。
 小川今日一(13歳)は、横浜大空襲で母親を失い、引き取られた親戚のクリーニング屋で虐待に耐えかね逃げ出した。逃げ込んだ先では戦災で親も住む家もなくなった子どもたちが集団でスリやかっぱらいで命を繋いでいた。米兵相手の女性の援助で、進駐軍の洗濯をすることで何とか生き延びようとしたが、それも断たれた。どうするのか。
 手を差し伸べられるべき戦争被害者の幼い子どもたちを襲う困難、いわゆる“浮浪児狩り”など絶望に追い込む戦後の日本社会にあって、子どもたち自らが助け合って生きた。少年今日一は「学校に行きたい。もっと強くなりたい。自分の力で自分の好きなように生きられるようになりたいんだ!」と決意、施設に収容されることを選ぶ。
 主人公を演じた小林優仁が「“僕たちはこう生きた”と言っているようだった。逆に“君たちはどう生きるの”と問いかけられているように感じました」(「しんぶん赤旗」より)と、このドラマの核心を語っている。ドラマでも彼の演技は清々しく、涙を禁じえなかった。
 以前NHKのドキュメントで、東京大空襲で焼け出され、上野地下道にたむろしていた「浮浪児」と呼ばれた子どもたちのその後を追った番組があった。その番組で彼らの「戦争」を知った。1945年3月の大空襲は100万人の被災者をだし、1948年厚生省調査では沖縄を除き全国では12万余の子どもたちが孤児となった。当時は戦災孤児とは言わず「浮浪児」と呼んでいたように思う。犯罪をおかす悪ガキのような扱いで、まだ就学していなかった私自身もそう受け止めていたように思う。
 子どもたちに責任はない。当時の子どもだった被害者たちが空襲被害者への「謝罪と補償」を国に訴えたが2013年には敗訴が確定した。国の責任は問わない「国家無答責」という考え方をとるのだ。そして戦後78年となる。あ~あモヤモヤが…。
 「軍港の子」のラスト――海岸で、施設から逃げ生きられたが妹は施設で死んでしまった少女は「今日一といたい、だからあたしも」と決めるが揺らぐ心。「幸せになっても妹は許してくれるかな」と今日一に問いかける。「幸せにならなかったら怒るよ、きっと」と二人はしっかりと手をつなぎあう。やがて中学校を卒業した二人が「よこすかクリーニング」を営むのだ。(◆余談=このシーンは、「おしん」のラスト、海を見ながら自分たちが歩んできた過去を振り返るあのラストと重なって見えたのだが、意図していたのだろうか?)           
                   



[歴史探偵]  消えた原爆ニュース NHK総合  8月9日 午後10:00~10:45

 レギュラー出演者  佐藤二郎(探偵所長)、渡邉佐和子アナ(副所長)、近田雄一アナ(歴史探偵)

                                                    ( 同タイトルの番組に複数の投稿がありました。到着順に掲載しています ) 

 

 2023.8.10 五十嵐吉美放送を語る会)

   この番組は2021年春から全国放送されているNHK大阪制作の歴史教養番組。俳優・佐藤二朗が探偵として謎を解いてゆくという設定。原爆の被害は被爆者の証言や活動で現在世界に知られて、核兵器禁止条約に結実したが、なんと戦後日本では6年間も公にできなかったという。その真相と事件に迫った興味深い番組だった。
 「なぜ被爆の真相が明らかにされなかったのか」これが第一の謎。新聞報道では敗戦8月、9月には新型爆弾の脅威が報じられていたが、10月にはほとんど記事が消えている。「朝日」9月15日付が鳩山一郎の「原爆投下は国際法違反、戦争犯罪」発言を掲載。それが当時のGHQマッカーサーによって「業務停止」とされ、その後プレスコードができ原爆の熱戦や爆風、放射線の被害実態は「事前検閲」で報道されなくなった。
 当時アメリカが核兵器開発をするために米国民にも国際的にも残虐さを知らせたくない思惑があって、反対世論を起こさせないための情報コントロールがあった。実際被爆地には12月まで連合国の記者も足を踏み入れることができなかったという。
 敗戦後NHKは内幸町の放送会館をGHQから明け渡し命令。3階と5階を使用していたが。上下の4階、6階にGHQがいて一字一句検閲されたという。当時の検閲は、戦前日本政府がおこなった伏字ではなく完全削除され、どこを検閲したのかわからないものだという。1948年には検閲制度はなくなるが、プレスコードは残り禁止条項のマニュアル化①米軍人の個人名の報道②共産党を支持の報道③原爆の報道がそれであった。背後に発行停止処分や軍事裁判の恐怖が。関係者は臆病になって、ときが経過した
 それを打ち破った事件――ノーベル賞受賞の湯川秀樹博士も「立派」と評価した京都大学学生の取り組みだった。京都大学医学部病理の授業で、残存放射能の人体に及ぼす影響を知った小畑哲雄(96歳)さんは当時医学生。知らなかった原爆被害を知ったからには知らせる責任があると、「原爆展」を企画。ところが大学側が占領下のため資料の提供を拒み、被爆地広島に原爆の実態を求めて出かけた。予想もしなかったことに被爆者からは追い払われる始末。そのころ被爆者は病気が「うつる」などの差別を受けていた。学生たちの熱意にやけどの背中を撮影させた被爆者吉川(きっかわ)清さん。
 1951年7月京都大学の「原爆展」で1センチも盛り上がったやけどの生々しい実態をみて、当時の死んでいくもののうめきや痛み苦しみを感じ、原爆の恐ろしさを実感した3万人。学生たちの知らせなければの頑張りが大きな一歩を切り開いた。
 ではなぜ、学生たちが立ち上がったのか…。学生たちは当時、何らかの形で戦争を経験し、朝鮮戦争の勃発、自衛隊の発足へのきな臭い動きに、ふたたび戦争で核兵器が使用されるのではと危機感があったのではないか、ゲストのコメント。その後原爆展は各地で開かれ、1952年「アサヒグラフ」が7年前の被爆地の写真を「初公開」と特集するなど、原爆の恐ろしさが伝わっていった。
 スタジオで佐藤「探偵」は「ありのままを知る大切さ」を強調。「知ったからには未来のために伝えるべき責任がある」――強くくり返された言葉が残った。          

      

                          

2023.8.11  アーチャン(放送を語る会・大阪)

 「NHKスペシャル」でも連日、終戦特集番組の続く中、この歴史番組も終戦に視点を移し新聞記念館や、当該者を訪ね探偵。

 1945年8月、広島と長崎に原爆投下され被害者は20万人を超えた。今ではその実態をいつでも確認することが出来るが終戦後6年、その凄惨さをとらえた写真はGHQの検閲など巧妙な情報統制や、様々な自主規制によって真実の報道が大きく制約されていた。

 終戦を迎えた当初は残虐な被爆実態を報道していたが、朝日新聞の有力政治家・鳩山一郎(後の総理大臣)の「原爆投下は戦争犯罪だ」とした記事の掲載を機にGHQは2日間の発刊停止を命令、更に「プレスコード」をはじめ報道の規則を通達し事前検閲を徹底した。

 その後、核兵器の開発を進めていたアメリカは反対世論を抑える方向だったが、GHQは日本で民主化政策をも進めていたため軌道修正ともいえる事前検閲を僅か3年で終わらせた。こうした状況下、広島の作家が『屍の街』と題する被爆体験を綴ったルポルタージュを中央公論社から発刊したが、初版にあった被爆者の数や後遺症の惨状を表現した部分は編集者により削除され、また新聞社では共産党の支持報道や原爆に関する報道は差し止めされる事態が常態化。GHQによる検閲は終わったが占領は続いたため、発行停止処分を恐れた出版業界やメディア上層部では自己規制が蔓延、報道統制が続いた。

 終戦から6年、核廃絶を訴えていた湯川秀樹博士が高く評価していた出来事があった。京都大学の病理学部の講師が被爆の残酷さを研究し原子爆弾症と名付け講義、それに呼応した学生が「原爆展」を企画。大学側の資料提供などの支援拒否を受けるが、生徒自ら現地調査-被爆者のトラウマなど様々な困難に遭遇するが、生徒の趣旨に賛同した被爆者が現れ、凄惨な放射線被害の写真展開催に成功―3万人を超える見学者を迎えた。これが被爆の実態を伝える第一歩となり、「アサヒグラフ」に掲載されるなど原爆報道が進展した。

こうした使命感を伴った献身的な学生運動の背景を、隣国の朝鮮戦争や日本再軍備の警察予備隊の発足などに対する危機感からの反戦運動としてとらえようとしたコメントに共感。

題名からはGHQ占領下での報道規制問題と思われたが、視聴してみると反戦、体制からの表現の自由獲得闘争という今も続くテーマだった。

                                           


【 管理者の感想です】

 探偵所長である佐藤さんのリアクションコメントが、視聴者の共感を呼びいいですね。佐藤さんはおそらくは進行表だけ目にしていて、リポートビデオは初見でないかと思います。 用意されたコメントならば、ばれますもの。

「ブラタモリ」で「武器を持つと戦争したがる」のタモリさんもそうでしょうね。       

2023.8.12  平林光明(放送を語る会・大阪)

 1945年8月の終戦直前、広島と長崎に落とされた忌まわしい2発の原爆。いまだ被害は続いているが、何故か詳しい状況が伝えられない6年間の空白の時期がある。特に原爆の残虐さが伝わる写真、放射線の影響を伝える記事は全く姿を消していた。

 番組はこの謎を日本新聞博物館から調査を始めた。その結果9月半ばまでは「時が経っても影響が残る」記事などが掲載されていたが、GHQの体制が整う10月には見当たらなくなった。きっかけは9月5日に朝日新聞が報じた鳩山一郎氏のインタビューだった。 

 この中で鳩山氏は「原爆投下によるの国民殺傷は毒ガス以上の国際法違反、戦争犯罪」と糾弾していた。この記事に対してGHQは強硬に反応。朝日には2日間の発行停止処分、全メディアにプレスコードを出し事前検閲を通告した。NHKが入っているビルは3階と5階にNHKを押し込め、挟み込むように4階と6階にGHQが入居した。その検閲ぶりは「箸の上げ下ろしにまで」と当時の職員が回顧するほど徹底していた。

 この検閲は日本の民主化と矛盾するという批判から48年に終了するが、「原爆症は完全に消滅」など、記事の内容には全く変化が無かった。メディアによる自主検閲が続けられたのである。この現象について山本武利早大名誉教授は「江戸時代以前からお上に弱い日本人の国民性」と分析していたが、今にも続くメディアと権力の関係だけに、この一言で済ませていいのか釈然としなった。

 この閉塞状況を打破したのは京大の学生たちだった。講義で残存放射能の怖さを学び、「知った以上は伝えなければ同罪」と原爆展を企画する。大学からの協力を得られず、自ら現地に赴いて取材や聞き取りを重ねる。原爆展では原爆の実態を絵や写真を使って伝え、放射能の怖さをパネルを使って科学的に伝えることに徹した。この原爆展が多くの人に感銘を与え各地で同様の展覧会が開かれようになった。メディアの自主規制もこの中で溶けて行った。

 真実はどんな権力をも打ち破る力を持つことを教えてくれた番組だった。

 夏になると毎年戦争に関する特集が組まれる。大事なことだが特番やスペシャルでなくとも、レギュラー番組でも工夫すれば戦争に迫れることを証明した良い企画だった。欲を言えばせっかくNHKに対する検閲にも触れていたのに、「箸の上げ下げ」とも言われたGHQの検閲の実態を1例でもいいから紹介してほしかった。

  余談になるが、私も小学6年生の時夏休みで和歌山の親戚を訪れた際、近くの小学校で開かれていた原爆展を観に行った。展覧会といってもわずか十数枚の写真が展示されていただけだったが、初めて見る写真に大きなショックを受けた。中でもコートを引きずって歩いているように見えた人が、実はコートでなくただれた皮膚を引きずっていた1枚が、今でも脳裏から離れない。私を“軍国少年”から反核運動に向かわせたきっかけの1つであった。私も新聞記事から「原爆は普通の爆弾」と信じ込まされていただけに、真実を伝えることの重要性を実感している。 

                    



 

「終戦特集番組・2023年」の投稿 をお願いします。

 

 徳川幕府の下270年の間対外的な戦争をしなかった国が、明治維新後いつしか10年ごとに戦争をする国になっていました。

そして、太平洋戦争に突き進みアジアと日本国民に悲惨な戦渦を

もたらしました。その痛切な反省から平和憲法と国民の運動が78年間にわたり「平和」を守ってきました。

 しかし、いま、その「平和」の思いは崖っぷちに立たされていることを感じます。「新しい戦前」と言ったタモリさんは別の番組で「武器を持てば戦争をしたがる」とも感想を述べましたが、岸田政権の軍事費の大幅増強、武器輸出の緩和など戦争がすぐそこにとも思います。声高に叫ぶことはしないがタモリさんの鋭い感性に敬服しています。戦争の実体験をもつ人が少なくなるなか、その継承が「平和」に向けた課題であり、マスメディアの責務であるといえます。終戦特集番組を視聴すること、意見交換・発言をすることが、

メディアにその役割を果たさせ「平和」にむけて私たちができる行動の一つと言えます。以下のフォームからの投稿をお待ちします。

◆ドキュメント’23(日本テレビ系)

 8月 6日 深夜0:55~「伝承の期限消えゆく被爆者の声」

 8月13日 深夜0:55 「でくのぼう~戦争とPTSD」

 8月20日 深夜0:55~「あの日は消えない ヒロシマ被爆者は今」

 8月27日 深夜0:55~「変わりゆく自衛隊の実像」

テレメンタリー2023 (テレビ朝日系)

 8月 5日 前4:50~ 「彷徨い続ける同胞」

                (地域により放送日時が異なります)

 8月13日 後1:55~ 「僕たちは戦争を知らない 戦禍を生きた女性たち」

     (ABÇテレビ 15日放送(時間未定)

 ◆BSテレ東

 8月15日 後5:58~「池上彰の戦争を考える SP2023」 続報

 

 

 



以下は2022年分です

終戦77年を迎えます。

身をもって戦争を体験された世代も少なくなってきています。

ロシアのウクライナ侵攻で、世界が戦争に巻き込まれる恐れが現実味を帯びてきています。

「戦争」を伝え続けることで、平和を希求するのはマスメディアの責任でもあります。

昨年は「被曝・終戦76年関連番組」(旧ホームページ)には、NHK スペシャル、ETV特集、NNNドキュメントなど24件の投稿をいただきました中でも、終戦ドラマ(総合テレビ)には多くの方から感想が寄せられました。昨年の投稿の閲覧はこちら

今年も「終戦特集番組」を開設します。投稿をお待ちいたします。

 

注:みなさまからの投稿は「夏の特集番組一覧」の下段に表示!       

 

 「終戦特集番組」の放送情報は、判明次第掲載します。

 以下のPDFファイルをダウンロードしてください

 (放送局に都合により変更されることがあります) 

 

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  注:「2022年・夏の特集番組」一覧は最下段に移動しました。【HP管理者】


2022.09.15 平林光明(放送を語る会・大阪)

 24時間テレビ スペシャルドラマ『無言館』 読売テレビ(日テレ系列)827日放送

                  

 長野県上田市に1997年に開館した「無言館」(戦没学生慰霊美術館)は、先の戦争で亡くなった美術学校生の遺作を展示しようと作られた美術館で、当初は3780点余だったが、2010年には1081000点を超える作品が展示されている。

ドラマは開設に至る実話を描いたもので、劇団ひとりさんが脚本を書き、初めて監督したドラマとしても話題になった。

                  

 上田市で美術館を経営している画商の窪島(浅野忠信さん)は、懇意にしている画家の野見山(寺尾聰さん)から、画学生の出征前の絵を紹介する展示館の設立を提案されるが、素人の絵を集めてもと、今一つ気乗りがしない。ある日、野見山に同期だった学生の最後の絵を見せてもらおうと、無理やり実家に同行させられる。ところが家族から出征前の慌ただしい時間を縫って描いた1枚の絵を見せられ愕然とする。実家近くの何の変哲もない田舎のあぜ道を描いた風景画に、出征前の荒ぶった感情の戦争画か何かを想像していた窪島には、故郷を心に刻み込んだような余りにも普通な絵に彼らの真情を知りたくなる。

そしてこの日から、幾多のエピソードを織り込みながら2人の収集旅行が始まる。

                                  

 2人の訪問に感激したある家では、心づくしの夕食でもてなし一泊してもらうことになる。ところが夕食に箸をつけようとすると、兄(でんでんさん)が弟の思い出をとうとうと話し出し箸が進まない。家人の注意で止めるまで同じことの繰り返しに、兄のはけ口の無い弟への思いに引き込まれる。朝まで兄と飲み明かした窪島に、彼は「自慢の弟でいじめや親のびんたには必死で守ったが、戦争からは守ってやれなかった」と悔やんでいた言葉は胸を打たれた。

 絵を預かって欲しいという女性(由紀さおりさん)の依頼を受けた窪島は、ひとしきり夫の思い出話を聞いた後、ベッド脇の壁に飾られている2枚の絵をいざ外す段になって必死の拒否にあう。「50年一緒に生きてきたのに明日からどうすればいいの。やっぱり棺桶に入れてもらう」という訴えに手が止まる。同じ呼び出しを何度か繰りかえした後「私が持っているより、いつまでも生きていられる」と涙ながらに提供に同意する。

                            

 亡くなった人間の絵を巻き上げて商売するのかといった誹謗にも耐えなが ら開館式にこぎつけた窪島は、喜ぶ遺族を見ながら「結局俺は彼らから絵を奪ってしまったのかな」と弱音を吐く。それに対して「絵を奪ったのは戦争だよ」と励ます野見山の言葉に「無言館」の意義が集約されていた。

                   

私としてはここでドラマが終わっても十分良い作品になったと思う。

必然的に多くなるベテラン陣の好演で引き締まった画面になったし、無言館の持つ意義も伝わった。

しかしひとりさんは、無言館の構想から完成まで幾多の苦労を乗り越えて目標を達成するという、予定調和的なドラマになるのを嫌ったのか、この後にもう一つのエピソードをやや長めに付け加える。それは提供した遺族もモデルが誰か分からない一幅の「裸婦像」である。

その記事を偶然新聞で目にし、鹿児島から上田を訪れ50年ぶりに自分を描いた絵に対面する女性の物語である。

出征を予感した恋人の頼みでモデルを引き受けるが、結婚も出来ないまま召集され、ひたすら待ち続ける女性の人生を描き、戦争に壊された青春群像を表したのだと思う。ドラマの評価は人さまざまであり、このエピソード自体も戦争の犠牲を描いたものであるが、既に戦争の理不尽さは十分描かれており、屋上屋を重ねた感がしないでもなかった。

                       

                 


2022.08.28 渋沢理絵(放送を語る会)
 NHKスペシャル「ビルマ絶望の戦場」 8月15日(月)午後10時〜
                              
 番組では「インパール作戦」を伝えている。「インパール作戦」は地獄の作戦ともいわれる。インパール作戦での戦死者は16万人ともいわれる。
それでも戦いを止めなかったのはどうしてか。元兵士、当時を知るビルマの市民の証言、東條英機氏の演説、アウンサンスーチー氏の父親、高木俊朗記者などの言葉から考える。
「インパール作戦を続けろ」と上官から指示された部下たちは、明らかにインパール作戦をこれ以上続けていてもよくない、撤退すべきだと思っても、上官に言えなかったのではないか。言いにくい雰囲気があったのかと。いくら言いにくい雰囲気があったとしても勇気を持ち言わなくてはいけない。忖度してはいけない。言わなかったら、撤退せず戦いを続けるという意見になってしまう。上官に怒鳴られても言うべきことは言うべきで、戦いを続けるという上官と同じ意見だとされることが私ならば嫌だ。おかしいことはおかしいと言いたい。目上の人であっても言うべきことは言わないとだめだ。
 ビルマの首都ラングーンには日本語学校があり、日本語を学ぶ。どうして学ぶのかだが、大東亜共栄圏の建設のため、現地の人々に日本語を学んでもらい、日本語を話せるようになってもらいたいのだ。このあたりからも日本側の無謀さがみえる。
「インパール作戦」はたくさんの死者を出し、失敗に終わった。戦死した遺骨が道に並べられた「白骨街道」と呼ばれる街道もあった。これだけ現地が悲惨な状況にも関わらず、現状を見ず、日本軍を撤退させず戦い続けたことはやはりおかしなことだ。誰か気づいた人が撤退を言うべきだ。言わないことで被害が拡大する方が私は嫌だ。言わなかったと後悔することも嫌だ。
番組内で上官は「戦争を続ける辛い気持ちを察してほしい」とあったが、辛い気持ちを言ってくれないとわからない、はっきり言われないと察せない、気付かない人もいる。インパール作戦が続いたことで被害が大きくなった責任は上官にもあるし、指摘しなかった部下にもあるのではないか。
ビルマの被害の状況に目をそらした上官もよくないが、従った部下もよくない。よくないが従わざるしかない状況、やむにやまれぬ状況だったのかもしれないが、やはり言わなくてはいけないと思う。勇気を持って言わなくてはいけない。
 この番組が伝えたかったことは、私がこのモニターで書いていること以外にもあるだろう。
その全ては伝えきれないが、これだけは是非伝えておきたいと思う。
このビルマでの戦争では妊婦が亡くなった。この妊婦はビルマで普通に生活していただけである。戦争は普通に暮らしている人々を巻き込む。
平穏な日常を奪うのが戦争だ。新しく生まれる命とその母親の命を奪った。このような悲劇がたくさんあったのだ。
私は戦争の全てを知っているわけではないが、戦争は当たり前の日常を奪い、普通に暮らしている人々の命を奪うものだ。戦争はそういう一面もある。
戦争をはじめた人はよく考えて戦争をはじめたのか。戦争を回避することを考えてほしい。私も考え続けたい。
                            

2022.08.16 渋沢理絵(放送を語る会)
 関口宏のもう一度!近現代史SP 本土復帰50年沖縄の過去と今  BS-TBS 8月14日(日) 18時〜
                  
 番組の出演者は関口宏氏と近現代史研究家の保阪正康氏だ。

沖縄の戦前は「琉球王国」だったが大日本帝国のもとに「沖縄県」になったとした。真珠湾攻撃をきっかけとして太平洋戦争に突入する。本土決戦のために沖縄は捨て石になってもらおうとの「捨て石作戦」がとられた。

私は捨て石として沖縄のみなさんには犠牲になっていただこうというような考え方の「捨て石作戦」は沖縄の人達に失礼だと思う。沖縄の方々も本土の方々も等しく同じ命であり、そこに重い軽いもない。綺麗事だと言われるかもしれないが亡くなっていい命なんて一つもない。沖縄が犠牲になるのは仕方無くない。「捨て石作戦」に同意できない。
 ガマの中での惨劇に嫌気がさす。沖縄の言葉を話す者はスパイだと疑われ、子供が泣き叫ぶと殺せと日本兵に言われたという。日本兵はギリギリまで追い詰められ殺せと命令したのだろうが、それでも私は殺してはだめだったと思う。誰かが命をかけてでも止めないといけない。止めるのはとても勇気がいることだ。果たして私にそれができるかどうか。わからないがただそうですねと同意はできない。弱いかもしれないが闘うと思う。
 よく知られている「白旗の少女」の写真、降参する意志を示す白旗を持ち歩く少女の姿である。この少女は比嘉富子さんといい、番組の出演者が以前にインタビューした中で新たなことがわかった。まず比嘉さんの後ろにいた兵士は比嘉さん自身はいることを知らず歩いてたそうだ。白旗は降参するという意味だということを知っていて掲げたのではなく、ガマにいらした老人に白旗を掲げてガマを出ると降参を意味すると教わったらしい。出演者の保阪氏によると白旗が降伏を意味することを知る日本人は少ないそうで、そのことを知っていたご老人は日清戦争か明治時代の戦争の降伏の仕方を知っていた数少ない人の一人だったかもしれないとのことである。知らなかったことである。
 番組ではマッカーサー、吉田茂氏、サンフランシスコ平和条約、佐藤首相とニクソン大統領の非核三原則も取り上げる。

非核三原則には知られていない密約がある。アメリカの緊急時には核の持ち込みを認めるという密約だ。アメリカの都合のよい取り決めが非核三原則には含まれている。アメリカは沖縄返還をしたが、暗にベトナム戦争への日本の協力を求めている。日米繊維交渉の皮肉めいた言葉である「糸」を売って「縄」を買うという言葉も生まれる。経済的にもアメリカを助ける役割を日本は負う立場だ。本土復帰後も変わらない日本の負担。アメリカ軍による事故も後をたたない。暴行事件も起きた。終戦から77年経ち、沖縄本土復帰から50年が経過しても沖縄の負担は軽くはなっていない。このことは変わらない。

 困難かもしれないがよくなる方向へ考えることをやめないと再確認した。

             


2022.08.15 アーチャン(放送を語る会・大阪) 

『報道特集』特集番組2本 TBS 813日(土) 1730分~

                        

特集① 「ウクライナ侵攻とメディア」

まだ爆撃音が聞こえるキーウの公共放送局「ススピーリネ」に金平氏が入る。戦時下の異例の放送体制で5つの公共と民間の放送局が統一、「団結ニュースマラソン」と名付け、全放送局の電波は同じものを放送している。

放送開始前、スタジオを施錠し部外者の侵入を防止。編集長は「出来る限り中立性を守るよう努め、両者の立場を伝えるという原則に基づき活動。このような状況ではロシア側の取材は、発言をそのまま放送できないので国際機関や各専門家の考えを伝えている」と放送の基本姿勢を語った。

メディアセンターでの国防省の会見では「ウクライナに栄光あれ」と国民を鼓舞する言葉が続くが、会見で被害の詳細の負傷者数の発表はされず。金平氏がその数の公開を要求したところ、「戦時中は情報公開のルールがあり、このルールは防衛や安全のために必要なもの、死者の数は公開しない。言えるとすればウクライナ側の死者数はロシアよりかなり少ない。その数は数千人単位と述べておく」と応えた。この見解に金平氏がウクライナの記者に会見は開かれたものと信じているか尋ねると、「戦時中は公開しても良い情報と、そうでないものを区別するために自己検閲が必要になることがある。国防省や兵士にしてはいけない質問がある。外国のメディアが情報を深く知ろうとすることも理解するが、兵士や民間人の命が何よりも大事だ。そのため特定の内容に関して質問しないことがある」と回答。さらに金平氏はメディアの自己規制の是非を上層部に問い質していた。

ススピーリネの会長にインタビュー。

戦時下の放送局と政府の関係について聞く、政府は特定の情報発信を強要することがあるかの問いに「いい質問ですね」と前置きし「政府は常に圧力をかけようとする、私にはニュースの制作・編集の権限はない、それは現場の編集長が持っている。民主主義国家でも政府が圧力をかけるが、編集長やキャスターがNOと突き返すものと判断している」と回答、一方で【記者個人の忖度】を懸念し、「将来的な課題は自己検閲だろう。それをはねのけ自分たちを守る唯一の方法は【ジャーナリズムの規範を厳守】する事だ」の金言。---日本のどこかの放送局上層部にも聞かせてやりたい答えが返っていた。

                 

特集② 「戦後77年 戦争とメディア」

メディアは情報統制の犠牲者なのか、あるいは戦争を煽った共犯者なのかの前置き。

空母4隻を喪失したミッドウエー海戦から逃れた帰還者は、軍上層部が1隻喪失の虚偽報道をしていたと訴える。陸海軍を統括する天皇直属の最高軍事機関・大本営は戦況が悪化していたことを隠し、天皇まで騙していた。

陸軍が戦意高揚のために作らせた【戦う兵隊】という公開されなかったドキュメンタリー映画。敗戦状況の中の兵隊の映像を見た検閲官は、これは【疲れた兵隊】だと激怒。映画製作者の亀井文夫は「戦争に協力するつもりはない。戦況を素直に表現する姿勢だった」と。---これぞジャーナリストの鑑!! しかしその後、監督は治安維持法違反で逮捕された。

映画研究科は「当時の映画は戦意高揚の作品が好まれ、民衆もそれを見て感激した」軍の言論統制により国民が駆り立てられ、戦況が悪化するにつれメディアがその一端を担うようになった。活字メディアまでが軍の意向に沿うようになった。

朝日新聞の書庫に残された紙面には戦意高揚のパレードなどの勇ましい写真を全面にしたものがみられる反面、戦況悪化を知らす写真などは、検閲部より【掲載不可】の印が打たれていた。また記事差し止め事項一覧表というハンドブックも示され、こうした文書は部外流出禁止の通達文書も残っていた。一部の記者は外国の短波放送を聞き戦況悪化の真実を知りながら虚偽報道を続けた。

映画監督の伊丹万作氏(十三の父)はエッセイの中で多くの人がこの戦争で騙されていたと記していた。「いくら何でもわずか一人や二人の知恵で一億の人間を騙せるわけがない。つまり日本人全体が夢中になって互いに騙したり、騙されたりしていたのだろうと思う」と。映画評論家・吉村英夫氏は「騙す側と騙される側を結合させたのがマスメディアだった」---メディアへの限りなく重~い苦言。

終戦の日を迎えるにあたって、新しい貴重な資料や証言が戦後77年の今も続々と公開され続けることに感謝。さらに非戦へ向けてのメディアの役割の重要さを再確認―さすがの報道特集だった。

 

最後に金平氏が取材を通じての箴言「真実を戦争においても犠牲にしてはならない」

 

                 

 管理者より TBS、NO WAR プロジェクト つなぐ、つながるは、86日(土)から15日(月)まで、報道の各番組が戦争の現実を伝え、今、そして未来に教訓をつないでいく企画を放送しました。 報道特集では「戦争とメディア」をシリーズで放送。

TBSfree で配信中です。以下のリンクで視聴できます。

 

              報道特集 「戦時下のウクライナメディア 」 TBS FREE

                   「戦後77年 戦争とメディア」

2022.08.18 山村惠一(放送を語る会・大阪)

 

 アーチャンさんの「報道特集」への投稿に同感です。77年前とウクライナ侵攻のいま、戦時下のメディア状況が似ていることに危惧しています。先の大戦がはじまったころ、大衆は戦争情報を求めて新聞購読数が急増したそうだが、大衆の側も「勝った勝ったまた勝った」などの気持ちのいい情報に熱狂し、メディアもそれに呼応するような報道をつづけ大本営発表にいたったのではとも思う。

 報道特集でもウクライナの国防省が会見冒頭「ウクライナに栄光あれ」に続けて情報に制限が伴うのは当然であるとし、テレビ局ではニュースの間にも放送を鼓舞するキャンぺーンが流され、記者も「戦時中は情報を区別するため自主検閲が必要」と自らの判断で取材制限することもあると回答している。

 

 西日本新聞社は戦争中アメリカの短波放送(VOA?)を傍受して太平洋の戦況悪化を把握していたが、それでも大本営発表の「戦果」を掲載し続けていた。西日本新聞社屋には戦争報道の反省から編集綱領が掲げられている。その最初に「言論の自由と独立を守り 報道の公正、真実を貫く」と記されている。戦時中の報道は勝つための報道という向きがあり、いまロシアの報道に繋がっているとしている。騙す側と騙される側を結合させてしまったのはマスメディアであり、取材した日下部キャスターは、ひとたび戦時下に置かれた時、全体状況に抗うことができるのか「正直自信が持てない」とつきつめたコメントを残している。 あたりまえのことだが、調査報道と自らの役割と責任を突き詰める「報道特集」は今のメディア状況のなかで出色と言える。

 


2022.08.15 平林光明(放送を語る会・大阪)

『仲間由紀恵・黒島結菜 沖縄戦 記憶の旅路』 NHK総合 81日 22時~2245

 

今放送されている朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』の主要キャストである仲間さんと黒島さんが、ドラマ収録前に、島を離れて久しいふるさとを訪ね「沖縄戦」を学ぶ姿を描く。他の番組に比して決して重いテーマではないが、沖縄でも戦後77年を迎え、あの悲惨な地上戦を知らない世代が圧倒的になっている。そんな中でシンボル的な役割を果たしている「ひめゆりの塔」を訪れたことのない人が増えていると聞いたことがあり、若い人たちの感覚を

知りたいと思い視聴した。

             

 40代の仲間さんは、本土疎開のために乗船した輸送船が撃沈され、子供やその家族1,400人以上が亡くなった「対馬丸記念館」と、父や弟の遺骨を探す高齢の女性をガマ(洞穴)に訪ね話を聞いた。女性は「尊い命を捨て石にされた戦争は2度とあってはならない」と繰り返しながら、いまだに遺品さえ見つからない作業を続ける気持ちを話した。

ドラマでも仲間さん演じる4人のきょうだいの母が、ボランティアとして遺骨収集作業に通うシーンがある。

お盆で皆が集まった夜、それまで頑なに話さなかった沖縄戦の悲惨さを伝え、自らも抱きかかえた弟を亡くした思いをボランティアの動機として明かす。この設定と演技を超えて子供たちに話す姿に、ガマの経験が活かされていたと感じた。

                

 一方、故郷を離れて沖縄戦の記憶が薄れていくのが怖いという20代の黒島さんは、年齢も近い「ひめゆり学徒隊」を追った。

南部の糸満市にある「糸数アブラチガマ」に入り学徒隊の手記を朗読した。

アブラチガマは学徒隊の最後の従軍地になった所で、解散を受けてバラバラに戦地をさまよう中で犠牲者が急増した悲劇の場所である。

普通に楽しい時を過ごしていた少女たちが、訳も分からず戦争に巻き込まれる怖さを自分の身に置き換え、他人ごとではないと痛感する。

その後「ひめゆり平和祈念館」を訪ね、元学徒で初代館長の島袋淑子さん(94)に直接学徒時代の毎日を聞いた。

島袋さんの話では、自決しようと手榴弾の栓を抜きながら、シューという音を聞いた瞬間手がちぎれると驚いて投げ捨て、結果的に助かったという潜在的な生への気持ちが非常に印象的だった。

黒島さんもガマでは手記を朗読する女優の顔だったが、島袋さんの話を聞くうちに表情が変わって行き「私に何ができるのでしょうか」と尋ねていた経過に、若者世代の戸惑いと何かしなければという気持ちの変化が感じられた。

黒島さんの女優としての変化を期待したい。

           

 

私事になるが、私も沖縄には度々お邪魔している。オスプレイが普天間に配備された10年前、民主的ツーリストの企画で「沖縄平和の旅」に参加した際、初めてガマを体験した。それが「糸数アブラチガマ」で、ヘルメットをかぶっていても頭を何度も岩にぶつける狭い急坂を下りると奥は意外に広かった。全長270メートルで住民200人が避難していた。そこに閉鎖された南風原(はえばる)陸軍病院の傷病兵600人が移ってからは、地獄絵図になったという。画面では案内標識なども整備されているようだが、沖縄にはまだまだ知られていない戦跡が沢山あることを思い知った次第である。

                                  


2022.08.14.  今井 潤(放送を語る会)
 NHKスペシャル「原爆が奪った”未来”~中学生8000人・生と死の記録~」 
8月6日放送

    

 1945年8月6日広島の中心部には8000人の中学生が集まっていた。
CGで中学生たちが集まってくる様子をあらわす、39校8000人。
なぜ中学生は集まってきたのか。
建物疎開のために動員されていた。
 90歳2名の方の証言
石崎睦子さんの日記で詳細にその日の行動を見る。
原爆による急性障害が起きた。
親も子供を探して市内にはいった。2992人
放射性物質が大量に存在していた。
なぜこれほど多くの生徒が命を落としたか。
軍の生徒動員に学校側は反対したが、中将は軍刀で床をたたき、学徒の出動は必至と強調した。
こうして、8月6日これまでで一番多い8000人という膨大な犠牲につながったのだ。
米国イエール大学精神科医(95)投下のあと17年後、あの日の生徒75人から聞き取り調査した。

「被爆者らが経験したトラウマを私は『死の刻印』と呼んでいる」
広島大学鎌田医師は24人の女性を40年以上調査したが、24人中9人が乳がんを発症した。
ラストコメント
77年前を生きた中学生たちの記録はその重い教訓を今の時代に突きつけています。
               
この番組は決して我々が忘れてはいけない歴史的事実を示してくれました。

               


2022.08.14.  今井 潤(放送を語る会)

 NHKスペシャル「イサム‣ノグチ 幻の原爆慰霊碑」 BS1 8月5日 21時10分~


 米国人と日本人の間に生まれたイサム・ノグチは彫刻の道に踏み出すが、日本でも米国でも差別に合い苦しむ。日米大戦では日系人強制収容所に入り、スパイの容疑をかけられる。
1950年広島を訪れ、建築家の丹下健三と会う。原爆慰霊碑の設計をめぐり、ノグチは期待を持つが、建築家の重鎮に「原爆を落としたアメリカ人にやってもらいたくない」と却下される。1952年の新聞には「誇り傷つけられたイサム野口」、却下の理由は発表されていない。
ノグチは自伝の中で「広島に行きたかった。罪の意識を感じていた。私なりの償いの表現をしたいと思ったのだ」
イサム・ノグチは日米で多くの勲章を与えられた芸術家だったのだが、自らのアイデンティティーを求め続けた人だったと私にはうつりました。

 


2022.08.12 渋沢理絵(放送を語る会)
 NHKスペシャル「戦火の放送局〜ウクライナ記者たちの闘い〜」 8月7日(日) NHK総合 21時〜
              
 NHKスペシャル「戦火の放送局〜ウクライナ記者たちの闘い〜」を視聴した。

戦時下のウクライナの5ヶ月間を記録した番組で、ウクライナ兵士のひつぎのシーンが冒頭にあり、ウクライナの今を象徴している映像だと思い、ウクライナの心の一部がかけるような悲しい気持ちになった。その後、スムイ支局の記者やハルキウ支局の記者、アナスタシア支局の記者らがウクライナの戦況を伝える。記者の方々は命がけの取材をされているなと頭が下がる思いだ。取材者の子どもさんが亡くなられたお話、家がロシア軍の爆撃で破壊されもう住めなくなったということなど、皆さんの語る話を聞く。

 私は番組内でインタビューされるウクライナの人達のお話を聞くと、悲しい気持ちになる。なんでこんな目にあわないといけないのか、平和な生活があったのに破壊されてと悔しい気持ちになる。愛する家族がいなくなった悲しさを想像すると泣けてくる。
 ロシア軍の砲撃は軍人だけではなく民間人も殺していることを番組は伝える。ウクライナの住民は「ロシアには親近感があったが、ロシア軍の残虐な行為に悲しんでいる」と語る。私はロシア軍の残虐行為に怒りがあるし、戦争犯罪だと思っている。
ウクライナの公共放送である「ススピーリネ」について、中立の立場が理想だが今の現状ではそれができないと伝えている。
 ロシアとウクライナは道端で亡くなられている兵士の映像を互いにプロパガンダだと主張している。自作自演だと主張している。

真実を私達は知りたい。ウクライナの住民達の声に共感する。ロシア軍は全部持っていていき、もうなにもとるものかない。フライパンや鍋も攻撃でなくなった。私は私達の大事なものを奪っていくものが戦争だと改めて思った。ロシア軍によるレイプ事件もこの番組内で取り上げていた。強姦や窃盗や殺人や憎むべきことがたくさん行われている。それが戦争だ。そんなのはもうたくさんだ。
 番組内ではシングルマザーの女性の苦労されたことも伝える。ウクライナ放送局「ススピーリネ」の女性記者・アナスタシアさんもシングルマザーであり、仕事と子育てを頑張っていらっしゃる。仕事と子育ての間で悩む姿も伝える。番組内で一度体調を崩されるが復活される様子を伝える。

私は復活されてすごいなと思うとともに、あきらめたくない何かに突き動かされたのかな、仕事を続けたい、伝えなければという使命感みたいなものもあったのかしらと思う。

 最後のバスターミナルのシーンで、ウクライナ放送局「ススピーリネ」の女性記者・アナスタシアさんは娘さんを避難させるため見送る

アナスタシアさんはウクライナに残り戦場の様子を伝える。ドネツクでインタビューすることを選ぶ。あがき続け、闘い続ける、どんなに悲しくても現地でありのままの様子を伝え続ける仕事を続けることをアナスタシアさんは選んだ。

そんな姿は娘さんから見ても、視聴者の私から見ても、誰が見てもみんなかっこいいな!すばらしいな!と思うのではないか。

少なくとも私は大変でも記者を続ける決断をしたアナスタシアさんを応援したい。

                


2022.08.10 諸川麻衣
『ETV特集 侍従長が見た 昭和天皇と戦争』 8月6日


 2021年12月に2回シリーズで放送された『ETV特集 昭和天皇が語る 開戦への道』の続編にあたる番組。海軍大将から侍従長となった百武三郎の初公開の日記、太平洋戦争中の昭和天皇の動向が、発言内容だけでなく口調や健康状態に至るまで克明に記されていた。
 開戦当初、戦勝に「天機麗し」かった天皇だが、ミッドウェー海戦の敗北に強い衝撃を受けた。ガダルカナルの戦いで陸海軍が対立し、作戦がうまくゆかなくなると、自ら乗り出して両者の協力を求めるた。戦局が悪化してゆく中、天皇は「敵に一撃を与えた」上での講和を模索し続けた。
 今回の取材で、天皇が、国内では受信が禁じられていた短波放送や元イタリア大使の松田道一による毎週1回の進講などから、海外の情報をかなり正確に得ていた事実も明らかになった。独ソ戦でのヒトラーの敗北、イタリア降伏など、「明日は我が身」として聞いたのではなかったろうか。
 百武三郎日記には、従来知られる内大臣・木戸幸一の記述とは異なる事実もあり、注目される。しかもそれは単なる戦争の裏面史、天皇裕仁の個人史ではない。明治憲法下の天皇は、「立憲君主」として、政治に関しては内閣、軍の統帥に関しては参謀本部・軍令部の輔弼によって天皇大権を行使することが想定されていた。つまり、絶対主義的専制君主のように、一個人として恣意的に統治したわけではない。だからこそ、1930年代になるまで、天皇を国家機関の一つと捉える「天皇機関説」が正統的な憲法解釈だったのである。にもかかわらず明治憲法には、天皇の下に国としての政策統一を図る機関や仕組みがなかった。そのため、陸海軍の対立に直面して昭和天皇は、「立憲君主」の枠を超え、自らが積極的調停者として動かざるを得なかった。

番組は、戦時中の天皇の懊悩が、明治憲法がそもそもはらんでいた欠陥の顕在化であることを浮かび上がらせる。

その点で、この後、いわゆる「終戦の聖断」に至る過程を百武日記がどう記しているか、さらなる続編が期待される。

また、731部隊の細菌戦、軍慰安婦制度などの戦争犯罪行為を天皇がどこまで把握していたのかも(大陸命・大海令であれば当然承知していたことになるのだが)、百武日記の記述が知りたいところである。

                    


2022.08.08.  K.O.(放送を語る会・大阪)

NHKスペシャル「戦火の放送局〜ウクライナ 記者たちの闘い〜」 放送日: 202287日 21時~2150

<番宣情報>

母国が戦場となったときジャーナリストたちは「戦争」をどう伝えるのか。鳴り響く防空警報の下、臨時拠点からの放送・配信を続けるウクライナ公共放送。ロシア軍の侵攻から5か月あまり、長期取材から見えてきたのは、ロシア側が仕掛けるプロパガンダの実態や、ウクライナ政府から課される戒厳令下の報道規制、そして家族や友人たちの命が危険にさらされる中で、何をどう報じていくのか苦悩する職員たちの姿だった。

    NHKプラス配信中 8月11日(木)午前2:30 ほか 放送予定へ  

<モニター評>

・ウクライナ公共放送「ススピーリネ」をネット検索すると、ウクライナ公共放送PBCPublic Broadcasting Company of Ukraine)は、2017年1月、キーウの国営放送局の傘下に、全国20余りの国営の地方放送局が入る形でスタートした。現地では、ウクライナ語で「公共」の意味のSuspilne(ススピーリネ)とも呼ばれている。今回のドキュメンタリーはNHK独自の取材、カメラも入っての合同制作か。→ 戦時下の映像、記者コメント、市民インタビューから改めて残酷、悲惨さに胸が痛い。同時にロシア(プーチン)への怒りが高まる。

・番組の核「女性記者アナスタシヤさん」が戦時下で冷静な現場リポートがよくできるなーと敬服。しかし、子どもの死について取材した時、自らも母としての感情から涙声での「亡くなった子どもたちの映像をもう撮影したくない」の発言は戦場カメラマンなら誰しも思うことではないか。日本の各TV局も現場リポートで女性記者が多く登場するが、ススピーリネTV局の女性職員の多さに驚いた。 CNNの戦場記者も女性だった。 

・ススピーリネ公共放送のミコラ会長に戦時下でのメディア報道「公平、公正」であるのは難しいか?の問いに → 戦争が終わってからの応えですねと。どれくらい公平公正でいられたかは、後で評価されるべきと。  この件に関し私思考は、これだけロシアの卑劣蛮行を目の当たりにすると報道ジャーナリスト精神は消える。公平公正な行動はできない。ロシア悪を憎む行動に出るだろう。 それが更なる戦争行為をあおることになる。歴史が証明している。ゆえに、報道は常に国民目線で政権批判も視野に入れてこそ公共放送NHKだ。


2022.08.06 山村惠一(放送を語る会・大阪)

 所さん事件ですよ「78年前のフィルム 映っていたのは…」総合テレビ 7月28日 23:00~

 

不安を掻き立てるBGMに沸きあがる黒煙、堅苦しい「要地遮蔽」の文字がスーパーされたモノクロ映像のオープニング。ワイプ画面の所ジョージは「ナニコレ?」とつぶやき、「要地遮蔽???」と木村佳乃の二人の司会者は一様に驚いた表情である。

NHK総合テレビで放送された 所さん事件ですよ「78年前のフィルム 映っていたのは…」の冒頭シーンです。ホームページによるとこのフィルムは78年前、第8陸軍研究所が製作したもので、太平洋戦争中に重要拠点をB29の空爆から煙幕で守ろうとした実験映像で、50万人近くが命を落とした本土空襲の裏で何が起きていたのか?日米それぞれで行われた「実験」を通じて考えると示されている

自衛隊の資料によると、このフィルムが製作されたのは、マリアナ諸島が占領されてB29が進出してくる時期と一致していて、その状況下で「軍需工場が爆撃を受ける可能性も高くなってきた」ための実験であった。しかしB29の本土爆撃は無差別爆撃なので効果がなく実際には使用されることはなかった。「煙幕」は原始的な手法ともナレーションされている。この映像を初見であろう所さんは「爆撃から煙で隠した…もう勝ち目はない」とか木村さんは「まさか煙で…風向きによっては効果ゼロ」と率直なコメントをしている。

同時期にアメリカでの空襲に関する研究は、実験場に実際の日本の木造家屋を建てて「どうやったら都市に大火を発生させるか」「消火がむつかしいものにできるか」と焼き尽くすための新しい焼夷弾の研究をしていたものである。

 一方、日本では空襲時には逃げずに火を消す、逃げたものは懲役刑または罰金刑の「防空法」があり、爆撃の犠牲を甚大化させている。その手引書の「火たたき」や「手袋で焼夷弾も熱くない」などを目にして木村さんは「ちょっとこれなんて…」と呆れた表情である。 所さんは「みんなが同じ方向を向いちゃうのがいちばん怖い」「今のネット時代もちょっとしたことで同じ方向をむく…これも暮らしにくいこと」と。

 ゲストのリュウチェルさんは、沖縄での平和教育を紹介し若い人にも考えてほしいこと、今のままではまた戦争が起きてしまう危機感を持っているとし、本郷和人氏(東京大学史料編纂所教授)は、太平洋戦争の戦史研究は戦争の残酷さを明らかにすることとが平和のために重要と述べている。

 所さんは「太平洋戦争って今からちょっと前じゃないか」「80年位前の話をもうないものだと思っちゃっている」木村さんは「勝つために手段を択ばない、戦争はそうなってしまう」とし、本郷は「戦争は力と力のぶつかりあいだが、そこに行くまでに政治が外交が経済があり、どこかで止めるチャンスがある」冷静に一人一人が判断していくことだとした。

「煙幕」は兵器工場を守るため、「新焼夷弾」は無差別に焼き尽くす爆撃のため、日米ともに「軍事研究・実験」は市民の命を守る思いは全くないことが示された番組であった。エンディングで所さんは「戦争を始める人は甘いものが食べたりないのでは、けんかになりそうになれば、周りがまあまあ羊羹でも食べてれば」と笑いにしていたが、戦争に対して大上段に構えずとも、平易なことばで、平和をかたるこの番組に「やったね」と拍手を送りたい。  

 

当時2歳だった姉(山村カヨ子)は1945年3月14日の大阪大空襲でこの焼夷弾の直撃を受けて犠牲となったが、彼我の圧倒的な力の差にもかかわらず、戦争を始めその継続に国民をかりたてて、絶望的な犠牲を強いた人間の愚かさに改めて怒りを覚えた。

 


 

2022.08.02 渋沢理絵(放送を語る会)

 NHK特集「そして、トンキーもしんだ」を視聴【改訂版】  8月2日 (火)  午後18時10分からBSプレミアムで放送

     
 歌手のさとう宗幸さんと2人の娘さんに「そして、トンキーもしんだ」の絵本を語る。

上野動物園の園長の根本さんとさとうさんとのやりとり、当時の職員による日記など貴重な映像が流れた。
 上野動物園の象の”トンキー”と”ワンリー”、当初2匹の象を殺処分せずに地方へ疎開させる案が出ていたのだが、変わり、トンキーとワンリーも前に殺処分された象の”ジョン”のように殺処分されることになる。

上野動物園の職員は激しく抗議したが、当時の日本政府のプロパガンダ的な側面もあり、なぜこんなときに生かしとくのだという空気もあり、仕方がない決断だと伝えられる。職員側としては納得はできないが、時代の流れにのらざるえない。それは職員達は辛いことだが上の判断を受け入れるしかない。職員達の気持ちを思うと泣ける。この判断は職員達にとっても殺される動物達にとっても辛いことだし、悲しいことだ。

トンキーがもっとえさが欲しくて職員に芸をしたことや、仲間のワンリーの亡き骸にそっと鼻をのばし、いたわったことや、隠れて職員達は動物たちに少ないがえさをやっていたことなどが番組内で描かれ、私は知らなかった事実に驚き泣いた。戦争とは無意味なことと思った。

戦争で良い思いをする人は一握りの人たちで、多くの人は悲しい思いをする。動物達もだ。

いいことは一つもない戦争をなぜ人はするのか、戦争しない方法はあるのか。動物園の動物達を守る方法はあるのか。殺処分は仕方がないことか。

仕方がないことではない。やむを得なかったと殺してしまったら、深い後悔が残る。動物達を殺さない方法はあるのかと問われれば困る。

しかし、こんな悲しい思いをしない方法はあるのではないか。やむを得なかったと諦めたくない。諦めてしまったらだめだ。

当たり前に動物が動物園にいること、私たちが楽しく観賞できることは平和な現代だからこそだ。戦時中は当たり前なこともできなかったのだ。私は戦時中の不自由さを憎む。私は不自由さと闘っていきたい。当たり前のことが当たり前にできる世の中になってほしい。そんな世の中にするために私のできることをやりたい。
 「そして、トンキーもしんだ」の絵本を知っていたので、話は知っているつもりだったが、改めて知ったこともあった。私は知っている気になっていたなと思った。戦争は悲しいことだ。戦争で喜ぶ、得をするのは一握りの人達で多くの人達は悲しい思い、悔しい思いをするのが戦争だ。当たり前の些細な日常の喜び、楽しみもなくなる。「そして、トンキーもしんだ」を観賞して、戦争反対の思いを強くした。

 





特集ドラマ「軍港の子 よこすかクリーニング1946」

        NHK総合 8月10日22:00~ 

 

2023.8.13.  五十嵐吉美(放送を語る会)
 以前から私は日本という国が戦争責任を果たそうとしないこと、戦災孤児や空襲被害にあった国民への謝罪や保障がないことに対して怒りを感じていた。忍従を強いたこと、そのことをもっと取り上げてほしいと思っていた。8月10日朝、「しんぶん赤旗」を開いたら、NHK特集ドラマ「軍港の子」きょう放送との見出しで番組が大きく紹介されていた。企画・演出が34歳の若手であることに驚き、「今の子どもたちに生きる力を与える作品を作りたい」との田島彰洋さんの思いがどのようなドラマになったのか、夜の番組視聴を期待して待った。脚本は大森寿美男。
 米軍の巨大軍艦が停泊している横須賀港。よこすかクリーニング」の表示がある古びた建物、母娘が車でやってくる。この店の主の祖父がなくなったので店じまいをするためだ。孫娘が見上げる小川今日一の表彰状からドラマはスタート。
 小川今日一(13歳)は、横浜大空襲で母親を失い、引き取られた親戚のクリーニング屋で虐待に耐えかね逃げ出した。逃げ込んだ先では戦災で親も住む家もなくなった子どもたちが集団でスリやかっぱらいで命を繋いでいた。米兵相手の女性の援助で、進駐軍の洗濯をすることで何とか生き延びようとしたが、それも断たれた。どうするのか。
 手を差し伸べられるべき戦争被害者の幼い子どもたちを襲う困難、いわゆる“浮浪児狩り”など絶望に追い込む戦後の日本社会にあって、子どもたち自らが助け合って生きた。少年今日一は「学校に行きたい。もっと強くなりたい。自分の力で自分の好きなように生きられるようになりたいんだ!」と決意、施設に収容されることを選ぶ。
 主人公を演じた小林優仁が「“僕たちはこう生きた”と言っているようだった。逆に“君たちはどう生きるの”と問いかけられているように感じました」(「しんぶん赤旗」より)と、このドラマの核心を語っている。ドラマでも彼の演技は清々しく、涙を禁じえなかった。
 以前NHKのドキュメントで、東京大空襲で焼け出され、上野地下道にたむろしていた「浮浪児」と呼ばれた子どもたちのその後を追った番組があった。その番組で彼らの「戦争」を知った。1945年3月の大空襲は100万人の被災者をだし、1948年厚生省調査では沖縄を除き全国では12万余の子どもたちが孤児となった。当時は戦災孤児とは言わず「浮浪児」と呼んでいたように思う。犯罪をおかす悪ガキのような扱いで、まだ就学していなかった私自身もそう受け止めていたように思う。
 子どもたちに責任はない。当時の子どもだった被害者たちが空襲被害者への「謝罪と補償」を国に訴えたが2013年には敗訴が確定した。国の責任は問わない「国家無答責」という考え方をとるのだ。そして戦後78年となる。あ~あモヤモヤが…。
 「軍港の子」のラスト――海岸で、施設から逃げ生きられたが妹は施設で死んでしまった少女は「今日一といたい、だからあたしも」と決めるが揺らぐ心。「幸せになっても妹は許してくれるかな」と今日一に問いかける。「幸せにならなかったら怒るよ、きっと」と二人はしっかりと手をつなぎあう。やがて中学校を卒業した二人が「よこすかクリーニング」を営むのだ。(◆余談=このシーンは、「おしん」のラスト、海を見ながら自分たちが歩んできた過去を振り返るあのラストと重なって見えたのだが、意図していたのだろうか?)