2024年「終戦特集番組」の投稿をお待ちします。

 

当ページ「終戦特集番組」に、2021年、22年、23年の3年で累計55件の投稿がありました。

本年も各放送局の終戦特集番組の視聴投稿を募集します。

 

 募集にあたりNHK、および、TBS、テレビ朝日、フジテレビ、日本テレビ局に対し、それぞれの公式ホームページを通じて「終戦関連番組」の放送予定について質問しました。(6/20)

 NHKふれあいセンター、テレビ朝日視聴者センターから回答がありました。両局とも、一覧できる放送情報はなく、サイトや放送告知から予定を取得してほしいとの内容でした。 他の民放キー局からの回答は届いていません。(7/14現在)

 

 この夏の放送は、パリ五輪一色になりそうですが、「終戦特集番組」の放送情報、視聴投稿を投稿フォームにてお寄せください。 

 


管理者より(9月1日)

 当ホームページ「終戦特集番組」に、13人の方から計27件(8月31日現在)の投稿をいただきました。

 ありがとうございます。

 これまで、投稿日の順で掲載していましたが、本日から、番組の放送日順に並べ替えて掲載します。

 これからも投稿を受付いたします。引き続きよろしくお願いいたします。

 

 追記:9月1日に1件投稿がありました。投稿数は28件/14人となりました。

             9月9日に1件投稿がありました。投稿数は29件/14人となりました。

    9月21に投稿がありました。投稿は30件/14人となりました。


9月22日 渋沢理絵(放送を語る会 東京)

 テレビ朝日開局65周年記念ドラマ「終わりに見た街」9月21日放送

 

 「終りに見た街」を視聴しました。大泉洋さんが脚本家・田宮太一役で出演されてます。田宮一家が戦時中にタイムスリップしてしまう話です。認知症である祖母と今どきの子ども達、新しいことをはじめた妻に囲まれ日々ぼやきながら暮らしている毎日が一変します。知り合いの小島さんと息子もタイムスリップしていて、田宮一家と大きな変化に困惑しています。
 戦時中の異常な場面もあります。兵士が因縁をつけられ上官に殴打されているの物陰から見ていて、別の兵士から何をしているかと問われ、タイムスリップ前にテレビ局のディレクターから渡されていた戦時中の資料にあるセリフを言ったら兵士の態度がコロっと変わり逃がしてくれました。主人公が天皇の名をだしたら態度を変えたのです。力を持つ天皇の存在はすごいな、それほどの力なのだと驚きました。

小島さんの息子が一度田宮家のもとからいなくなり、しばらくして戻ってきた息子は軍事青年になってました。周りに東京大空襲の危険を必死に伝えようとしている田宮に対し、みんながお国のために働いているときにとなんだと批判します。田宮の娘も同調します。妻は、現代ではペット用アクセサリーをつくっていましたが、戦時中では軍事用の物をつくっています。悲しいことです。 

ニートだった田宮の息子・新也は、戦時中に同僚とともに生きる希望・目標を得ていきいきとしています。でも、父は父で一生懸命やっている行動であり、無駄なことだと決めつけてかかることはおかしいと、新也は自らの意に反することでも受け入れるべきだとします。

お国のために頑張れない人がいてもよいと思います。みんながみんな同じ方向を向いてなくてよいと思います。違う方向の人を非国民といい排除する方がおかしいと私は思います。戦時中だと言いにくいことかもしれませんが、言うべきことはきちんと勇気を持って言わなければならないと思います。おかしいことはおかしい、違うことは違うといわないといけないです。戦時中「日本は神の国」で日本の勝利を日本国民が信じて疑わず同じ方向をむいてバンザイをしているのは私からすればおかしなことです。その時代に生きていたらそうしていただろうか。わからないです。わからないですが、戦時中の日本は神の国なのだから負けることはありえない、みんなで一生懸命日本の為に自己を犠牲にしてお国の為に頑張ろうという空気には強い違和感があります。主人公はただ目の前にある危機を伝えたかったのだと思います。私は主人公の田宮さんを応援します。
 ドラマの最後の場面で、またピカっと閃光が走り田宮は右手を失い廃墟の中倒れています。隣で虫の息の兵士に請われて水を飲ませてあげます。その兵士に「今は何年だ?」と聞くと「2千何年・・」と答えるだけでした。田宮の目には崩壊したビル群が見え、いまは現代かな?とも思えます。新也に似た顔の青年が小さい女の子(祖母の幼少期)をおんぶし、主人公の携帯をグシャと踏んづけて歩いていきます。これが「終わりに見た街」だったのです。

  このドラマは、戦争中にその危険を伝えようと頑張った人がいて、その人をこうすべきだったと決めつけず、思いやりと想像する心を持ち接してほしいと訴えているのではないかと思いました。テンポがよく、クドカン(宮藤官九郎)らしいドラマで、ついていくのが大変でしたが視聴してよかったです。タイムスリップして現代の問題が浮き彫りになり、いきなり戦時中にきた人々は困惑しますが、変わらないこともあります。新たに気づくこともあります。大勢の意見、みんなの意見、長いものに巻かれるのではなく、いつの時代もたとえ少数派でも自分の意見を曲げないようにしたいです。おかしいことはおかしいと言える人でありたいと思いました。

 

8月29日  渋沢理絵(放送を語る会)

 クローズアップ現代「戦禍の中絶 埋もれてきた当事者たちの"声"」 GTV 8月28日(水)19時30分~


 中絶手術をした医師が証言し、もう育っている命を殺してしまう手術をしなければならなかった悔しさを語り、つらい仕事であり、苦しい気持ちであろうと思います。麻酔無しの手術でありどんなに過酷な状況だったのかと想像します。私が患者の立場ならば、麻酔無しの手術なんて痛すぎて失神するだろうなと思います。
 国立市舞鶴病院で働くインタビューを受けた医師は102歳になられ誕生日を病院の職員から祝われていました。医師をずっと続けておられすごいです。医師は戦禍の中、中絶手術を行ったのは患者を助けようとした、人類愛からだと語っていました。
 その後番組では旧ソ連軍に強姦されたことが元福祉相談員の河島さんにより語られます。河島さんの友人である、とみちゃんが強姦されたことを話されます。強姦されたことを苦に舌をかみきって自決されたそうです。自決するほど強姦されたことが悲しかったのです。またある女性の話を河島さんは語ります。その女性は福岡の師範学校卒業後教師になられ、満州に渡りますが満州で強姦されてしまいます。強姦されたことを苦に船から海へ飛び込み死のうと思いましたが、生徒に「先生なにしてるの?」ととがめられ、その生徒の親に「汚らわしい人に触るな!」と言われてこんな人のために死ねないと思い直し、死ななかったそうです。その女性は汚らわしいなんて生徒の親に言われる筋合いはない、おかしいと思ったのではないかと、私は思いました。強姦されたから汚らわしい人になり、近づくな触るななんておかしいと思います。そんな酷い言葉を咄嗟に出た言葉とはいえ、お世話になった人によく言えるなと思いました。
 番組では混血の女児が生まれること、1滴でも外国の血を日本に入れるなとの考え方が当時はあったとも伝えていました。その考え方、捉え方もおかしいです。多様性が叫ばれる社会になり、ハーフの子もたくさんいる中、あり得ない考え方です。昔はしょうがない気もしますが今もなおある考え方だと思います。「純粋な日本人を絶やすな」みたいな議論はあります。ましてや戦禍中は日本人の血を絶やすな、旧ソ連軍の血、外国の血を日本に持ち込むなという考えは多くあったと思います。少数派の人たちは生きにくい時代です。当時は異質なものはいれない、水際で食い止めようと必死でした。

 元福祉相談員だった河島さんが語ります。海に身を投げようとして思い留まった女性は日本に戻った後教員を辞められ、荒れた生活だったそうです。

後に、この女性は亡くなられましたが、河島さんは、この女性がいたこと相談されたことを伝えなければ、この事実がなかったことになってしまうと思い、今回番組で伝えたということです。わたしはこの番組をたまたま見ていて女性の存在と、戦禍の性犯罪の凄まじさ、女性の大変さもこの番組で知ることができました。
 この女性が受けたような性犯罪はささいなものではない、重大な犯罪だと思います。中絶手術が人道目的だからやむを得ない人類愛だといわれても、たとえ外国人の子でも自分の宿した子どもを産みたかった、中絶したくないとの訴えは理解でき、当然のことと思います。悔しい思いをされた女性たちがたくさんいらしたと思います。女性たちの思いを無駄にせず、自由に産める今に感謝したいです。

 

 

8月28日 平林光明(放送を語る会・大阪)

 クローズアップ現代 終わらない戦争(1)「敵国人抑留」 NHK-GTV 827日 1930分~20 

                                        

 戦争が終わって79年たってもまだ知られていない歴史がある。「クロ現」は3回シリーズでその事実を追った。

1回は「敵国人抑留政策」で「愛する日本に“敵”とされた外国人」というサブタイトルが付いている。日本人が“敵国人”として収容所に集められた政策はアメリカ、カナダ、ブラジルなどで実施され、もう1つの悲劇としてドラマやドキュメンタリーなどでしばしば描かれている。

しかし同じことが日本でも行われていたことは、ゲストの鴻上尚史さん(作家)も「知らなかった」というように私にも初耳だった。

「日本人の暴力から保護するため」というのが表向きの理由だが、実際は「スパイ活動の可能性がある」ということで、開戦と同時に1200人以上が検束され、およそ50カ所に抑留された。

その1人のイギリス人医学生は、日本の母(意味不明)を持つほどの親日家だったが、有無を言わさず検束され、収容所での毎日を日本語の日記で書き記している。それによると当初は成人男性だけだったが1942年頃からは女性や高齢者も対象にされ、戦況が悪くなってきた43年半ばからは目立って待遇が悪化したことが記されている。そのことは収容所の担当警察官の録音テープからも、警察官が次々と徴兵され補充であてられた警察官の質の低下がモラルの低下を生んだことが伺われる。イタリアが降伏してからは検束の対象はイタリア人にも広がり、待遇も悪化して50人以上が医者にもかかれず亡くなっている。

こうした事実がほとんどの日本人に知られていないのは、収容所の痕跡が残されず目につかないのも大きな原因の1つで、鴻上さんも「負の歴史をきちんと見つめることも必要。コロナ下でも排除の論理が幅を利かせたように、属性に関わらず隣人と接することが必要」と述べていたのが印象的だった。

 

今年の朝ドラ「虎に翼」で触れられていた軍部の「総力戦研究所」も初めて知ったことで、調べればまだまだ知られていない事実が転がっているような気がする。

              

                      

8月26日 和歌山 K.O.(放送を語る会・大阪)

  あさイチ「二階堂ふみの沖縄旅」番組モニターから。 GTV8月26日放送

 

 番組を見ていて、数年前に放送を語る会・大阪の メンバーと沖縄旅行をした思い出へタイムスリップ。

 和歌山で知り合った友人(先輩)が、退職後に沖縄で平和ガイドとして活躍中だったので案内をしていただいた。

 普天間基地や辺野古埋め立て基地などを現場で熱く語られることに感服。

 最近、その友人と音信が途絶えていて心配していたところ、亡くなられたとの訃報が・・・。 合掌

 思い出が走馬灯のようにめぐる中、

「あさイチ」番組で「基地の街に響く民謡」では三線を奏でる曲や歌詞は沖縄民謡のルーツに繋がることを再認識。

そのコーナーインタビューで”PW”という言葉があり字幕訳は戦争捕虜とのこと。この単語は知らなかったのでネット検索すると下記をチョイス。 

 ・沖縄戦で米軍は捕虜(軍人と軍属)と民間人(非戦闘員)を振り分け、捕虜は(Prisoner-of-War 略してPW)、民間人はシビリアンと呼ばれ、

  作業現場などでは、上着の背に、捕虜はPW、民間人はCIVとペンキで書かれたと。

 

 今後も「沖縄の自然や文化など観光地だけなく変貌する基地のまち」の深堀に期待する。 

             

                  

8月27日 山村惠一(放送を語る会・大阪)

 映像の世紀 バタフライエフェクト 「太平洋戦争 日米プロパガンダ戦」 8月26日放送

 

国民を戦争に駆り立てるプロパガンダに映像は大きなインパクトとなる。太平洋戦争で日米双方ともが新聞・ラジオ・映像(フィルム)を戦争遂行に総動員した実態が当時の実映像で伝えられている。米国では戦死者のリアルな映像や日本の狂気を見せつけて敵愾心を煽る。が、次第に厭戦につながるような映像は姿を消していく。日本でも「鬼畜米英」「大本営発表」と国中が虚情報であふれ、戦意発揚のために使える情報は誇張され都合の悪い情報は隠される。

いまもウクライナやパレスチナガザ地区の戦闘で、激しいプロパガンダ戦がありフェイク情報がまかり通っている。ブチャにおける市民の虐殺はウクライナ側の自作自演として示した映像が、ロシアのフェイクとその「証拠映像」から確認されたこともある。映像をくまなくファクトチェックをしたメディアが暴いたものだった。

現代のネット社会は、情報を隠そうとしても隠しきれない世界である。反面、生成AIなどで、「本物以上」の偽の映像・音声が流されている。一般の国民は、その情報の真偽を確かめる手段を持っていない。信頼できるメディアのファクトチェックが頼りである。

この番組のように、メディアも文化も戦争に総動員されることになれば、再び国民は熱狂の渦に巻き込まれるのではと危惧する。戦争の反省を忘れず、権力から自立したメディアであれと期待する番組であった。

太平洋戦争で米軍兵士の心に郷愁を持たせる放送をした「東京ローズ」が釈放後に「自分が引いたカードで人生が変わってしまったのは、私が最初で 私ひとりでも  そして最後でもないのです」と語ったことばが、戦争が止まないいま、重い。

 

 

9月9日 楠本宏(放送を語る会・大阪)

 NNNドキュメント24「戦前リアル」

 

 去年アメリカの有力なシンクタンク「CSIS」が、台湾有事のシミュレーション結果を公表しました。最も可能性が高いとされるシナリオは、アメリカ軍は岩国・嘉手納・横田・三沢から出撃、中国はすぐさまミサイルなどで日本の米軍基地を攻撃する。米軍基地が攻撃で使用できなくなることを想定し、戦力分散でどこへでも戦力を展開できる能力を強化、日本の米軍基地相互に戦闘機を乗り入れ訓練を行っている。それにハワイやアラスカ基地からも米軍機が訓練で飛来している。

 米軍機が自衛隊基地の飛行場を使った訓練も行われており、シミュレーションでなく現実のものとして動いている。「CSIS」は、日本の民間空港も使用できるようにすべきと提言をしている。

 私は台湾有事になれば日本の民間空港や港が米軍に使用される恐れがある。日本政府がアメリカに対して民間施設の使用を拒否するとは思えない。米軍基地・自衛隊基地がないから安全と思っていても、日本の中で安全な場所が無くなると思うと恐ろしい。

 

 

 

 

8月31日 山村惠一(放送を語る会・大阪)

 NNNドキュメント’24「戦争リアル」 825() 24:55【拡大枠】放送 制作:山口放送

                           

 米軍基地を抱える山口県岩国と沖縄の住民の意識と「戦争のリアル」が伝わる番組だった。

第一に、米軍基地移転に反対の民意には補助金や交付金を凍結する脅迫めいた「ムチ」を打ち、容認市長には凍結を解除する、交付金・補助金の「アメ」を振舞う政府のやり口に怒りを覚えた。移転反対の市長をひっくり返し、容認派の市長(5期連続)の下にある岩国は、教育・育児環境に恵まれ生活がしやすい自治体に住んでいて、中には「貰うなら大きなアメをもらいたい」との市民の発言もあった。

第二に、アメリカのシンクタンクの報告では、「台湾有事」の際、アメリカ軍基地がミサイル攻撃を受けることを想定しているが、民間に及ぼす被害は報告されていない。 岩国・沖縄の市民には、生活のすぐ隣に米軍基地があることの懸念、戦争に対する感情に温度差が見られた。

「軍は市民を守らなかった」と戦争の実相が語り継がれている沖縄では、駐屯が進む自衛隊基地も攻撃され、民間の被害が実感をもって語られている。一方、岩国市民は、「恐れ」は口にしても「そうはならないのでは」とか、それより生活にと「恐れ」に向き合うことを避けているのではと感じた。

市長の姿勢で施策に差異を付け、選挙に影響を及ぼす事態は民主主義国家といえない。また、「戦争にならないと思いたい」の心情は、原発事故の際の「安全神話」と同じ響きで聞こえた。

                  

番組は、先の大戦から79年。私たちが生きているのは「戦後」と言えるのか としている。

               

                  

8月25日 渋沢理絵(放送を語る会)
ETV特集「弁護士たちのBC級戦犯資料〜米・新資料が語る真実〜」8月24日放送


 ETV特集「弁護士たちのBC級戦犯資料〜米・新資料が語る真実〜」を視聴しました。無差別爆撃とはなにかを問う番組です。新資料として再審査記録(レビュー)というものが出てきてそもそも再審議するんだと驚きました。この裁判は勝者の裁きといわれますがそんな単純な裁判じゃないとのことを番組内で証言されています。私も同感です。単純ではない複雑な難しい裁判であり、BC級戦犯を裁くことは困難であったと想像します。名古屋を攻撃したのは無差別爆撃か否かが問われています。無差別爆撃の被害の状況を番組内で伝えているのですが、その様子を想像したらすごく怖いです。顔の無い遺体や肉の塊だけの遺体がたくさんありましたと番組で伝えていました。
 多くの市民が犠牲になった無差別爆撃は意味があったのか否かを伝えていました。私はなかったと思います。番組もなかったと批判しています。また番組は事実を抹殺することはできないということを訴えています。貴重な証言から得られる事実は変えようがないのです。この事実を伝えたい、何かの役に立ってほしいとの思いで取材を受けられた方もいらっしゃると思います。
 番組内で午後23時47分ごろに、ハリー氏の手紙が紹介されます。遺族のインタビューがあります。ハリー氏は早く家へ帰りたかったですが、上官の命令で早く帰りたいと言えずに上官の命令に異論を言えず留まられたとのようなことが伝えられます。ハリー氏がホームシックになっていると手紙にありました。ハリー氏の親族が話していたことに強く共感します。人間だれしも人を殺したいはずはなく、早く家族のもとに帰りたい気持ちで一杯です。この手紙のインタビューは今を生きる私たちにも通じるものがあると思いました。
 この一連の攻撃は国際法に反する攻撃であると訴え続けた大久保弁護士もでてきますが、大久保弁護士はまわりに見向きもされなくても諦めず、めげなかったところがすごいです。見習いたいです。2022年2月にロシアによるウクライナ侵攻がはじまり、今なお戦いは続いています。犠牲になるのは市民です。強い立場の方達、強い側の国は責任を問われません。無差別爆撃は違反です。戦争の惨禍は繰り返され、今も継続しています。

               

                

8月21日 五十嵐吉美(青森)
NNNドキュメント24「学生たちの戦争―学徒出陣 ペンを銃に変えられて」 日本テレビ 8月19日 0:55~ 
 1943年9月、戦局悪化で兵員不足を補うため、それまでの徴兵免除が解かれ理工学部と医学部以外の大学生が兵役に就くことになった学徒出陣、全国で10万人という。
各地で壮行会が催され、九州大学や京都大学などの学徒出陣の壮行会を映像で紹介。
生存者の証言、亡くなった学生の学業への執着、何のために死ぬのか書き込まれた日記の数々は、若者の命を無謀に奪った日本軍国主義を告発した。
証言した生存者の年齢は100歳を越え、タイで終戦を迎えた学徒兵は、仲間の死、侵略戦争の過ち、若い人には絶対させたくないと訴え、結核が発見されて戦後学者になったものは「批判する力」を強調、勉強できる平和の重みを訴えるなど、丹念な取材で81年の時を感じさせない番組だった。
 10年くらい前の放送だっただろうか、あの有名な雨の明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会の映像――観客席を女子学生たちで埋め尽くし、この女性たちのために命をかけて戦地に赴くという演出の意図があったことを暴いたNHKの番組があった。
そういう「やらせ」に女性として言いようのないいやらしさを覚えた記憶がよみがえった。
                
               

8月20日 渋沢理絵(放送を語る会)
NHKスペシャル「”最後の1人を殺すまで”  サイパン戦  発掘・米軍録音記録」 NHK総合 8月18日放送

                    

 8月18日(日)午後21時からNHK総合で放送のNHKスペシャル「サイパン戦の衝撃 米兵の肉声50時間」を視聴しました。

米兵の音声はこれまで扱われなかったということで知られてこなかった海兵隊の戦闘記録であり、貴重な音声の記録であると思い視聴しました。
日本軍による「バンザイ突撃」と米兵たちが呼んでいる突撃が印象的でした。「バンザイ突撃」とは日本軍がバンザイと叫びながら近づいてくる攻撃です。米兵たちは天皇のために命を捧げる姿に狂っていると思ったと番組内の音声にありました。私も狂っている戦場だと思いました。

人をそこまで追い詰める戦争ってなんだろう、人がたくさん亡くなりそれでも続ける戦争の意味なんてないじゃないかと思いました。

元海軍兵の音声にもありましたが、天皇陛下万歳!という気持ちで死んでいった兵士ばかりではないです。天皇陛下万歳!と叫んだ気持ちは建前の気持ちで本音は家族を思い死んでいった兵士が大勢いたのではないか。わからないですが。私ならば天皇陛下万歳なんてどうでもよく、母や父や家族、親友と別れることこそが辛いです。辛さは昔も今も同じく辛く、変わらないものだと思うのです。
最後の一人を殺すまでやめないとの戦いへの執念は戦争の怖さ・狂気であり、この狂気の根底にあるものは今のロシアとウクライナや他のあらゆる戦争に通じるものがあるのではないでしょうか。そんなことも考えさせられる番組でした。

サイパン戦の戦いは凄まじく集団自決する者もあり、だんだんと民間人が死ぬことに呵責の念を持たなくなっていくということが戦争に対して我々が麻痺した感覚になる、戦争に慣れてしまうことが怖いともありました。サイパン島は1944年7月9日に占領されたとあり、兵士のみならず民間人も多数亡くなり、1945年に日本で原子爆弾が広島、長崎に落とされました。米軍のサイパン島の戦いの勝利が広島・長崎に原子爆弾を落とすための足がかりになったそうです。サイパン戦のアメリカの勝利は「終わりの始まり」で足がかりとなり、戦いに勢いをつけたのかもしれないですが、その後悲しいことが起きるのです。私は原子爆弾のもたらす悲劇が事実としてあり、多くの人びとを殺す爆弾を投下して戦争を終わらせたとの意見に賛成できません。

原子爆弾投下を美化したくないです。美化したくないというか美化できません。苦しんでいる民間人がたくさんいるのも事実です。多少の犠牲はしょうがないとは思えません。

              

            

8月30日 平林光明(放送を語る会・大阪)

 NHKスペシャル「一億特攻への道」~隊員4000人 生と死の記録~  NHK総合  8月17日  21:00~22:15  

                                                        

番組欄に「取材15年」とあるように、担当ディレクターがコツコツと4000人の名簿をもとに故郷や生家を訪ね関係者の声を拾い集めたり、米軍側の映像をもとに特攻機の操縦者を特定したりして作品を構成しており、制作者が自らナレーションを務めるほど思い入れの強い力作であった。

 

司令官自らが「統率の外道」と語る特攻が始まったのは、戦況が悪化した194410月のフィリピン戦線で22人が先陣を務めた。当初は戦況が好転するまでの一時的作戦とされたが、安直な作戦として通常化された。この頃主に対象にされたのは10代の予科練出身の少年兵で、「仲間に死なれ自分もいずれは」と覚悟している“使い頃のクラス”とされていた。

 その中の1人を福岡県八女市に訪ねたが、軍神とあがめられ、婦人雑誌の巻頭グラビアを飾るヒーローに祀り上げられていた。分厚い和紙の束の追悼文が作られ、次代の特攻兵を生み出す道具に利用されていた。

この特攻は軍令部総長から明治天皇に奏上された。天皇は「そこまでやるのか」と驚きながら「よくやった」と否定しなかった。このひと言が軍の正式作戦として広まった決定的役割を果たしていると思われる。「一遍勝ってから有利な講和」を目論む「一撃講和派」が利用し、「強硬派」も便乗した。

 広島県の江田島にある海上自衛隊第一術科学校に遺品が収納されているが、「体当たりでは勝てない」と確信しながら飛び立っていった隊員の遺書は哀れだった。

 それでも特攻を後押しする歯車が回り始めた。その中心を担ったのはマスコミだった。ニュース映画、ラジオ、「1億総特攻」を大見出しにする新聞。さすがに出陣前の隊員の遺言を流したNHK ラジオの放送には賛否両論が渦巻いたというが。いつの世でも世論を誘導してきたマスコミの役割を自戒しなければと思う。12月をピークに一時減っていた特攻が大幅に増えたのは4536月の沖縄戦の時期だった。この時の主力には少年飛行兵に加えて学徒動員組が充てられた。学徒動員兵はそれまでの徴兵猶予に対する世間の反発に加え、自ら将官として先頭に立たねばならない立場があった。

 学徒兵には「熱望」「望」「否」という志願調査が行われたらしいが「否」と書けるわけもなく、ほとんどが「否」に近い「望」だったといわれる。「こんなために親が大学を出したのではない」とわめく人もいたが、指名されたら全員があきらめの境地で飛び立っていった。

 

 現代の戦争では無人機やドローンが特攻が果たした役割を担う。人の命がドローンと一緒という非常識、非人道的発想に一層怒りを覚える。

制作者も同じ思いを15年の取材にかけて描いたと思う。ただ残念なことに作品からその怒りが伝わってこないのが残念だった。

私も以前鹿児島県南九州市にある「知覧特攻平和会館」を訪れた際、若いはつらつとした遺影と出撃前に残した家族あての遺書を順に読んでいくだけで、涙が止まらなかった経験がある。事実は雄弁かもしれないが、同じようなエピソードやインタビューを淡々とつなぐ構成には75分は長かった。率直なところ途中で疲れてしまった。

 それと「1億特攻」の掛け声の中、各地の部隊で色々な特攻兵器が考案された。人間魚雷「回天」の水中特攻、モーターボート型「震洋」の水上特攻が知られているが、片道燃料で沖縄に出撃した「戦艦大和」もある意味特攻と言える。制作者は特攻を「神風」と言われた航空機特攻に代表させているが、4000人というのは航空機特攻だけの数字なのかよく解らなかった。

                    

 これだけ多くの犠牲の上に作られた新憲法を改定し、日本を「普通に他国と組んで戦争する国」に変えようとする軍国主義勢力の動きが激しくなっている中、8月の「戦争を振り返る作品」の役割はますます大きくなっている。制作者には失礼な注文もしたが、皆さんの頑張りを祈ってやまない。

                        

                    

8月21日 府川朝次(放送を語る会)

NHKスペシャル ”一億特攻への道 ~隊員4000人 生と死の記録~ 8月17日放送

 

この番組を見ながら、私は遠い昔のことを思い出していた。終戦の年私は小学校に入学した。当時巷では「同期の桜」が流行歌のごとく歌われていた。

 「貴様と俺とは同期の桜」で始まり、「咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国のため」と結ばれるこの曲を、私は友達と大声で歌っていた。

意味もよくわからないまま、でも得意げに声を張り上げていた記憶がある。今回、表題の番組に接し、そうした子供の行為さえもが「特攻」を美化し、若者たちを死に導くための装置の一つに組み込まれていたことを痛感した。

 「特攻」、特別攻撃隊は194410月にその第1陣「神風特別攻撃隊」が編成されたことに始まる。マリアナ沖海戦で艦載機400機、空母3隻を失った軍上層部は、通常の戦法ではアメリカに太刀打ちできないことを知った。考え出されたのが敵の航空母艦に飛行機ごと体当たりする「特攻」戦法だった。

10月末、レイテ沖海戦で「敵」空母を撃沈し戦果を挙げたことに可能性を見出した軍は、その後「特攻」を攻撃の柱として位置づけるようになっていく。その結果、終戦までに4000人近い若人が飛行機とともに散っていったと、この番組を担当した大島隆之ディレクターは報告している。彼は15年にわたって特攻隊とは何だったのかを追い続けてきたのだ。

 そして明らかにしたのは、海軍兵学校や予科練のように教育によって〝率先して命を投げ出す"特攻精神を醸成していくだけでなく、特攻隊を取りまく周辺に、その行為を美化する装置が様々張り巡らされていたという事実だった。

 それに最も寄与したのがメディアだった。ニュース映画は特攻隊員の出撃場面に「機上にあるのは神にして人にあらず、これは神々の出陣である」とのコメントを添えた。この映画に感激した大会社の社長は社員に、銃後にあるものも特攻隊と同じような強い崇高な精神を持たねばならぬと訓示した。

「一億特攻」なる言葉を編み出したのは新聞だった。ラジオは連日特攻機の出撃の様子を美辞麗句をならべたてて放送していた。当時わずか7歳に過ぎなかった私が「同期の桜」を何なく歌えたのも、繰り返しラジオから流れてくるこの曲を覚えてしまったからだった。

特攻隊員を送り出した福岡県八女市では、50校に及ぶ小学校の教師が、それぞれ戦死した隊員の追悼文集を作り、特攻行為をたたえた。また、香川県の村では「軍神」の碑を建立し特攻隊員を顕彰した。そうした行為は青年たちに死を厭わない、むしろ誇らしいと思う精神を植え付けていったであろう。

 さらに、そうした「死を美化する」総元締めともいえる国の装置が用意されていた。靖国神社である。この番組では靖国については触れていないが、冒頭紹介した「同期の桜」の4番には次のような歌詞がある。

   貴様と俺とは同期の桜

   離れ離れに散ろうとも

   花の都の靖国神社

   春の梢に咲いて会おう

「靖国で会おう」は、出撃する若者たちの合言葉になっていた。

 哲学者の高橋哲也氏は、靖国神社とは死者を「追悼」する施設ではなく、戦死を称賛し、美化し後に続くべき模範とする「顕彰」の施設だったと定義している。

 特攻隊の出撃は沖縄戦でピークに達する。この戦いでは練習用の複葉機まで投入された。

高く飛べず速度も遅いこの飛行機に積まれたのは大型の爆弾だった。当然のことながらこれらの飛行機は、相手の船に到達する前にすべて撃ち落されてしまった。おそらく出撃を命じた上官たちも、この作戦が相手に損害を与えることが千に一つもないことを承知していたであろう。まさに時間稼ぎ、数合わせのためにだけ繰り出された愚策であった。

 「一億特攻への道」は特攻の賛否については何も触れていない。ただ事実の積み重ねから構成されている。それがかえって虚心に一億特攻の狂気に迫ることを可能にしている。

 昨今、防衛大学校の学生や自衛隊員たちが集団で靖国神社に参拝することが常態化してきている。そこで彼らが何を見、何を教え込まれているかはわからない。しかし、私は特攻隊を正当化するために用いられた様々な精神論や装置がまたぞろ息を吹き返してきているのではないかと危惧している。いたずらに死を美化してはならないと考えるからだ。

特攻隊を作り上げた時の司令官でさえ、「統率の外道」といったという、人間を弾丸に使うという狂気の沙汰がまかり通った時代。私たちはそれを過去のこととだけとらえてはならないのではないか。

 

 

 

8月19日 五十嵐吉美(青森)
「グランパの戦争―従軍写真家が遺した1千枚」 NHK総合 8月16日放送 

太平洋戦争中、米軍従軍カメラマン、ブルース・エルカスは、激戦地硫黄島での取材後、1945年敗戦直後の日本を記録し続けた。1000枚に及ぶ写真を死後受け継いだオランダ在住の写真家マリアンさん(43才)。2024年5月来日。日本人捕虜との写真、日本人女性と米兵の性的な300枚に及ぶ写真はなぜ撮られたのかを知りたいと…。マリアンさの疑問を解く形で、戦後いち早く日本政府が決定した「特殊慰安協会」RAAの実態に迫った画期的なドキュメンタリーだ。
戦前、内務大臣で「慰安婦」制度を作ったと言われる坂信彌が、夫を亡くして貧困にあえぐ女性たちをどう扱ったのか著作の引用、長男の取材を通じて、RAA研究者平井和子氏をはじめとする専門家の協力をえて、戦前・戦後に共通する戦争における女性の人権について追及。街に出て性を売るしかなかった女性たちのエピソード、貸座敷の経営者が連れて行ったピクニックで、小学唱歌を歌いながら全員泣きだしたという。「さぞかしつらかったのだろう」と当時下足番だった少年の証言は胸を打つ。
オランダに戻り、それらの調査結果も踏まえ、祖父の不都合な写真もすべて公開し、子どもたちに戦争とは何かを伝えることを決意したマリアンさんの、子どもとの日常をとらえて番組は終わった。

                     

                     

8月17日 高野春弘(名古屋)

 「徹子の部屋」8月15日放送


 8月15日放送の「徹子の部屋、ヒロシマ原爆被害者・田戸サヨ子」を見ました。「道端に沢山の人がうずくまっている。水をください…。日赤つれって…。あんなにたくさんの人が死んでいると麻痺してくるんです…。」淡々としたサヨ子さんの話に、じっと耳を傾ける徹子さん。
 8月11日には「戦争を語り継ぐ・徹子の部屋特別編」(1時間7分)が放送されました。戦争を今に伝えようとする櫻井翔さんの希望で制作されたものだそうです。私は半分ほどしかみられなかったのですが、チャンネルを合わせた時、三波春夫さんの声が聞こえてきました。
 『三波春夫さんは、終戦直前の満州で体験したソ連軍との戦闘を語ってくれた。トーチカの中から撃った弾が、ソ連軍の若い兵士に当たった。夜になり、トーチカの中の三波さんたちが静かにしていると、暗闇の中から聞こえていた「ママ、ママ」と言うソ連兵の声が、だんだんちいさくなって、やがてきこえなくなった。「戦争は反対です」と言う三波さんの言葉には説得力があった。』と黒柳徹子さんが『続窓ぎわのトットちゃん』で綴っている場面です。
「なんていうかな、あたらしい戦前になるんじゃないですかね」というタモリさんの名言をひきだしたのも、「徹子の部屋」でしたね

               

                

8月16日 K.O(和歌山)(放送を語る会・大阪) 

 NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争 1944 絶望の空の下で」モニター感想  放送日:815

 

 今回の放送はシリーズ4回目の制作。真珠湾攻撃から半年後に戦況は悪化し、1944年のサイパン島で移住生活していた1万の人々も犠牲となった。日本の委任統治領だったサイパン島で生活していた14歳の少女、砂糖多津さんのドキュメント手記。

アメリカ軍の占領支配後に父母は殺され少女は捕虜となった(半ば救済かも)。同時期、このサイパン島からB-29の本土空襲が激しくなる。

東京大空襲などで戦火が市民に及ぶ。追い詰められた日本軍は、人間を兵器にした戦闘機の体当たり「特攻」や帰路不能な「人間魚雷・回天」など

無謀な作戦へ踏み出す。その犠牲となった若者たちが思いを書き残した日記録や集団疎開で残した小学生日記は貴重な資料だ。

多くの若者や市民の命を奪ったのは誰か! 戦後、数々の事象検証で天皇制憲法と日本軍、政府の横暴な無策行為が招いたことは明明白白だ。

改めてサイパンはマリアナ諸島の中で日本軍の要島だった。

 

サイパン島の戦いとは?|NHK戦争を伝えるミュージアム 太平洋戦争をわかりやすく|NHK戦争証言アーカイブス

下記アドレスで過去の「新ドキュメント太平洋戦争」のYouTube動画が見られる。

[NHKスペシャル] 当時の日記や手記から太平洋戦争を追体験する | 新・ドキュメント太平洋戦争1941 開戦 | NHK (youtube.com)

 

過去にJCOM日本映画Chで「戦争と人間」(監督:山本薩夫)や「日本で一番ながい日」(原作:半藤一利)からも知識を得る。

娯楽映画ながら史実に基づく皇軍、日本軍と抵抗した人たちの弾圧も描かれている。この二本は815日前に終戦特集番組としてNHK-BSで放送して欲しい映画だ。

        

               

8月22日 Y. T(放送を語る会・大阪)

特集ドラマ「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」 NHK-GTV:8月15日放送

山村恵一さんの投稿(8/16)を読ませていただきました。
その時々のシーンが思い出されました。

この時期の「特集」というと少しばかり見る方が身構えてしまうタイトルが多いなか
「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」というタイトルはやわらかい印象でした。

ドラマを見ているうちに引き込まれ、最後まで見ていました。
木村多江さん演じるお母さん、子供に怪我をした田中さんへお手伝いを働きかけたり、
祭が終わったのに自治会の人たちがなかなか解散せず田中さんが家に入れない困った状況に
「ご機嫌なとこ すみませんねぇ!もう遅いので ここ空けて下さい!田中さん おけがされてますし 家に入れなくて困ってます はい お開き お開き!」と凛とした姿勢で自然に対応していて好感が持てました
このお母さんの影響が大きいのかなぁ。

このドラマ、田中さんと同じように戦争を話すきっかけに、あるいは子供たちが戦争に疑問を持つきっかけとして子供たちと、あるいは爺ちゃん婆ちゃんと一緒に3世代が見て欲しいと思うドラマでした。

8月21日毎日新聞朝刊の、質問コーナー「なるほどり」で戦没者慰霊碑が老朽化や管理者不明などで存続が危ぶまれることが取り上げられていました。

戦争をおこさないためにも、戦争を語り記憶を風化させないことは大切なことと思います。
このドラマもそのきっかけになればいいなと思います。

               

                   

8月18日 福井いく代(放送を語る会・大阪)

 特集ドラマ「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」 NHK-GTV:8月15日放送

 

 最初は小学生と田中さんという老人の話かと思っていたが、田中さんの戦争の話を子ども達が聞きたいとなり、そこからみんなが考える語り部の話へとなった。戦争時、軍国少年だった人がどうして《戦争はダメだ》となったのか?
 戦争中は《お国の為》と教育され、戦後は全く違う教育を受けた。教育は本当に大事だと思います。

又、物事の本質を見る事をしなければどんどん戦争へと時代は進められていきます。
 このドラマはサラッと進められていましたが、戦争を考えるにはとても良いドラマだと思いました。

               

                  

8月16日 山村惠一(放送を語る会・大阪)

 特集ドラマ「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」 NHKGTV:8月15日放送

                                                   

 戦闘シーンもなく、声高に「反戦」を叫ぶこともないが、意識していないと簡単に「平和」が壊されてしまうことを考える特集ドラマでした。「いまが一番幸せ」という戦争体験者の神社の管理人(田中さん)と大きなギャップがある世代の少年たちの交流から、戦中、戦後、その次、そして、今の子供世代の心情を揺さぶる「戦後79年の日」にふさわしいものでした。とくに田中さん役の岸部一徳さんの穏やかな演技が素晴らしい。

 6年生の少年が遊び場にしている地元の神社守(田中さん)は、「お地蔵さん」(おじいさん)のようで得体が知れず気味悪いものだった。少年から借りた「スケボ」で転んで田中さんは右手を骨折。少年たちは田中さんの身の回りのフォローに通うようになる。

 ひとり暮らしの田中さんには少年たちの訪問が待ち遠しく嬉しく、一方、当初身構えていた少年たちも田中さんの優しさに触れ次第に気持ちがほぐれて、田中さんが「どうしてひとりなのか」に関心を示すようになる。重い口を開いた田中さんは、父も兄も戦死して、この地の空襲で母と妹を亡くし、少年たちと同じ年頃で天涯孤独となったこと淡々と語りかけた。

 祭りの日、氏子(戦後とその次の世代か)たちの田中さんに対する振る舞いを目にして、怒りを覚えた少年は、田中さんを「語り部」として、その戦争体験を全校生徒と親たちと地元の人に聞いてもらうことを企画、実行する。

 田中さんは、国中が戦争遂行の熱情につつまれ、父や兄の出征に「ばんざーい」を叫び、二人の戦死の報に仇打ちをと考える軍国少年であったこと、

空襲で自らは足に大やけどを負いながら生き延びたが、母と妹は還らぬひととなり、その後、周りの人の助けを受けながら今まで生きてきたことを語りかけた。ちょっと意地が悪い(そうではないが)質問に、戦争中は何も知らされず知ろうともしないで軍国少年になってしまったこと。そして、戦後、誰もが「なかったことに」にと考えてしまったこと。周りに流されずに自分の頭で考え行動することの大事さ。いまは「平和」が好きで戦争はやってはいけないと、その思いを熱く語る田中さんであった。質問に導かれるように心の奥底にしまい込んでいた田中さんの思いが吐き出された瞬間で、思わず上手い演出だと感じた。 最後に1年生からの質問「一番好きな食べ物は?」に、田中さんは迷わず「チョコバナナ」と応える。祭りで疎外されていたとき、少年が買ってくれて並んで食べたもので、そのキラキラで柔らかく甘い食べ物に、亡くなった妹のことに思いを馳せながら、少年との深い絆、「友達」を感じる田中さんであった。それは少年もおなじ思いであった。緊張のあとにホッとさせてもらったシーンでした。

だれも戦争の責任を総括していない、誰かが始めた戦争に「一億総火の玉」と熱狂し、敗戦後は一転して「一億総懺悔」に豹変したことに、田中さんは自分の頭で考えることが忘れてはならない大事なことだとも語った。

現在もウクライナやガザなどで殺戮が止まない。周辺危機事態を理由に国会審議も経ずに核による核抑止力を容認し、軍事費の大幅拡大に突き進み、またもや国民に情報が隠されているいま、いつの間にか「戦前」に戻ってしまうことに警鐘を鳴らすドラマでもあった。

私事になりますが、19453月の大阪大空襲の焼夷弾で私の姉は母親の胸で犠牲となりました。母親はこのことを亡くなるまで話すことはありませんでした。ただ、「また戦争になれば、私はその前に死ぬ」と。その哀しみの思いがいまも心に残っています。

 

 

 

8月15日 山村惠一(放送を語る会・大阪)

・長崎スペシャル(NHK長崎)「こども放送合唱団”わかば唱歌隊”~平和をつなぐ歌声~」

                                                        

 戦時中から「音楽は楽しい場所で」との信念を曲げず、今も平和につながる種を蒔いた一人の指導者を追いかけたいいドキュメンタリでした。

 丸坊主とおかっぱの子供たちがなにやら楽しそう。1944年にNHK長崎放送局で撮られたこども放送合唱団”わかば唱歌隊”の写真です。唱歌隊は当時ラジオで歌声を放送していて、その指導をしていたのが合唱団員にいた姉妹のお父さんでもある岡山先生でした。当時、「勇ましい先生」の中で、岡山先生は「軟弱な先生」と称されたが、子供たちに軍歌や戦争のうたを歌わせることはなく、子供たちは戦争の雰囲気を感じることがなかったそうです。岡山先生の音楽を介して平和な世界にと、教育は技術ではなく信念であるとその軸はぶれなかったが、長崎の爆心地近くの学校で被曝した岡山先生が、その後、故郷の福島・三春に帰られた際、すでに疎開していた姉妹は、亡くなったと思っていたお父さんの姿に驚いたそうである。先生はその後、東北各地の校歌の作曲を手掛けながら、合唱の指導を続けられた。音楽を介して平和にとの信念は変わらず、教え子たちは異口同音に”先生との出会いは私を平和にしてくれた。歌っていると皆が幸せだった”とその教えが息づいている。娘の姉妹が”わかば唱歌隊”の団の唄を再現し、現在の長崎放送合唱団の子供たちが歌う(♬~わかば わかば わかばのこどもは ほらねほらね かわいいいお声でしょ~♬)、先生の信念とその種がいまも平和の花を咲かせ続けていることに希望を見る思いがしました。戦争体験者が減り手掛かりが細くなる中、情報を丁寧に拾いあげ「戦争」と「平和」をつないでいこうとするディレクター(金澤さん)にありがとうです。

                                      

                             

8月21日 K. F(放送を語る会・大阪)

人間魚雷「回天」の基地・大津島を伝える二番組

 

 814日、海の特攻『回天』の基地・大津島を紹介する二つの番組を視聴した。

 

読売テレビ 【かんさい情報ネット ten.Let's GO!若一調査隊》山口SP「大津島・人間魚雷・回天の戦跡・若者たち・命懸けの出撃」

NHK-Eテレ《戦争遺産島》「大津島・特攻兵器の訓練基地となった島」

 

大津島(おおづしま)

 真っ青な海に囲まれた山口県・大津島。

 その青い海と今も残る回天出撃桟橋などの戦争遺跡、時が止まったような印象を受けた。

 敵の目に触れない孤島、魚雷試験場があった大津島が回天訓練基地(全国に4つの回天基地)になった。

 大津島にある記念館の前に実物大の「回天」が展示されている。

 全長・14.75m、直径・1mの回天は別名『鉄の棺桶』と呼ばれる真っ黒な船体。

 大津島には、特攻魚雷・回天:43隻、特攻船・震洋:9隻があったという。

 

徹底した極秘作戦

 志願に応じた若者にも知らされず、訓練の中でその任務を知ることになる。

 島の住民との接触も許されず、出撃前の帰宅時でも口外禁止。

 住民との間を隔てる高く分厚いコンクリート壁が今も残っている。

 桟橋への長い運搬用トンネル工事を担ったのも、まだ少年と言っていいような若者たち。

 十分な重機もなく、ほとんど人力による作業だったと容易に想像できる。

 兵舎も急造のバラック宿舎だったという。

 島の大人たちは湾内を走り回る魚雷をみて『あれは人が乗っている』と見抜いていた。

 

無謀な特攻作戦

 回天は潜水艦により運ばれ、目標の敵艦近くで切り離される。

 潜望鏡は極力使わず、コンパスと時計だけで潜航・航行し敵艦に体当たりする「人間魚雷」。

 湾内での訓練でさえ死と隣り合わせで、15人が死亡したという。

 事故で湾内に沈んだ回天の中で、性能の改善点をメモ書きにして残した兵士もいた。

 回天開発者の一人でもあったこの兵士は、酸素が尽きるまでの時間、死の恐怖と闘いながらである。

 194411月から出撃が開始される。

 この作戦により搭乗員:106人死亡、整備員なども含めると145人が死亡。

 死亡した搭乗員は17歳から28歳、平均21歳だった。

 アメリカ側の統計資料では、撃沈3隻・大破小破数隻 成功率は23%。

 

若者に思いを馳せて

 ①出撃桟橋で声を詰まらせる若一案内人・コメンテーター

 『この齢になって思うのは・・(絶句)・・若者の輝き、可能性を実感できる。こういう状況にした大人たちに責任を取ってほしかった』

②ナレーション

 『戦争が無ければ全く違った未来が待っていたはずの若者たち・・・若者たちの壮絶な日々と命の尊さを語りかけている。』

 

 劣勢が明らかになっていた終戦一年前の無謀な特攻作戦。

 《戦争を始めたこと》そして《戦争を終わらせなかったこと》、二つの大きな過ちを犯し、そして誰も責任を取らない。

 その歴史にも学ぼうとせず、「軍備」だけを唱える風潮に深刻な危うさを感じる。

                  

                    

8月14日 五十嵐吉美(青森)

・NHK朝ドラ「虎に翼」 8月14日放送

 

 毎日楽しみにしているが、第20週は、8月の被爆79年を迎えた広島・長崎を受け、まさにタイムリーである。
 1954年の第5福竜丸事件が社会問題になっていた時、判事として「原爆裁判」を受け持つことになった寅子。

5名の原告の略歴を読み上げながら嗚咽する男性判事。アメリカと講和条約締結後に、日本政府に賠償を要求する原告たち。
 番組ではこの裁判の争点はと、具体的に5つを指摘。

国際法違反、戦争のルール違反、日米の関係、犠牲者の問題、そもそも戦争とは何だったのか…、と。

知られていない「原爆裁判」をしっかり取り上げていること、それを知らないまま今を生きている私もふくめた日本人に訴える作者を評価したい。

                

             

9月1日 服部邦彦(放送を語る会・大阪)

 ETV特集「隔離と戦禍~沖縄ハンセン病患者の受難」 Eテレ /10放送

                            

1995年、戦後50年の節目に除幕した沖縄の「平和の(いしじ)

国籍や軍人、民間人の区別なく沖縄戦などで亡くなった20万人以上の名が刻まれた。そこに完成から10年近くたってようやく追加で名前を刻まれた人々がいる。沖縄戦のさなかに命を落としたハンセン病の患者たちだ。

ハンセン病…かつて(らい)病と呼ばれていたハンセン病は,らい菌によって末梢神経がおかされる感染症。

自然治癒する人もいたが重症化すると、顔や手足の変形を引き起こすことがある。特効薬がなかった戦前は不治の病とされ隔離政策がとられた。

ハンセン病は熱帯や亜熱帯地域で多発する傾向があり戦前の沖縄は本土に比べて 格段に患者が多かった。

 

沖縄には2つの国立ハンセン病療養所がある。宮古島にある南静園と沖縄本島北部にある愛楽園

2つの施設はハンセン病を根絶する「無らい県運動」の拠点とされた。

沖縄本島・愛楽園287人。宮古島・南静園110人。沖縄にある2つのハンセン病療養所で強制隔離されていた入所者のうち、戦時中に命を落とした数だ。

近年、回復者たちが口を開きはじめ、研究者が録音した200時間の証言テープも見つかった。死因の大半が日本軍の隔離政策により地域社会から見捨てられ、治療も食料もない自然壕での自活を強いられたことにより命を落としていたのだ。ハンセン病が多発する沖縄では隔離収容が追いつかず多くの患者が地域社会にとどまっていた。奥座敷や屋根裏、家畜小屋 などで治療も受けられないまま暮らしていた。患者が見つかるとその家族まで差別の対象になった。

 

沖縄でのハンセン病患者の隔離政策が加速するきっかけとなったのが1941年に始まった太平洋戦争だった。戦局が悪化する中1944年沖縄に第32軍が創設された。およそ10万の兵力を集め民家や学校、公民館などを接収。将兵と住民が生活空間を共有するようになる。

(らい)菌の感染力は弱く感染しても簡単には発病しない。しかし当時の日本軍は将兵に感染が広がることを恐れていた。1944年5月 軍による患者の隔離収容が始まった。1945年に入るとアメリカ軍は宮古島に激しい空襲を繰り返した。南静園の外壁には 今も銃弾の痕跡が残っている。繰り返される空襲の中で職員たちは患者を置いて園から逃げ出した。職員がいなくなった南静園に入り込んできたのは日本軍の部隊。海岸沿いにある南静園を軍の防衛

線に組み込むためだ。日本軍に立ち退きを命じられた南静園の患者たちは海岸沿いの雑木林や自然壕に逃げ込むしかなかった。南静園を追われ戦火のもとに放り出されたのは大人だけではなかった。子供たちの悲惨な状況を目の当たりにしたとの入所者の証言が残っている。

 

南静園の自治会によると1945年の1年間で入所者の3分の1にあたる110人が亡くなった。

沖縄本島北部の愛楽園。1944年10月以降 度々激しい空襲を受け納骨堂や火葬場などを除きほとんどの建物が破壊された。

 

第32軍が創設されたのと同じ頃、沖縄本島北部の療養所愛楽園に新たな園長が着任した。ハンセン病に詳しい医師早田 皓。沖縄本島に600人の在宅患者がいるという情報を得ていた早田は、本島だけでも「無(らい)の島にしたい」…という意欲を持っていた。

ハンセン病を恐れる第32軍は在宅患者のあぶり出しと隔離に乗り出す。愛楽園では早田壕を掘りアメリカ軍の空襲に備えていた。愛楽園には早田壕があったため入所者は空襲による被害を免れることができた。

ところが1945年に入ると園の日誌に 記された死者の数は増え続けていく。前年の大量収容で重症患者が増えたことに加え食料や医療体制の不足が拍車をかけた。 田壕に入りきれなかった人は近くの自然壕に逃げるしかなかった。

 

 1945年6月23日、およそ3か月に及んだ 沖縄での組織的戦闘が終了した。

愛楽園ではアメリカ軍の攻撃と上陸作戦による大きな人的被害はなかったにもかかわらず大量収容が本格化した44年9月から1年余りで 入所者の3割にあたる289人が亡くなった。遺骨は戦後生き残った入所者たちが集め 園内の納骨堂に納めた。

沖縄は戦後、日本から切り離されアメリカの施政権下に置かれたが2つのハンセン病療養所は再建され維持された。

 

日本本土に準じて沖縄で制定されたのが「ハンセン氏病予防法」。本土とは違い軽度となった患者は療養所を出ることが認められた。しかし公衆と接触の多い場所への出入りは禁じられ,社会会に根強く残る偏見を払拭するには至らなかった。

 

1996年 制隔離を定めた「らい予防法」が廃止された。これを機に全国の元患者が 国の責任を明らかにするため国家賠償請求訴訟を起こす。

その原告には多くの沖縄の元患者が名を連ねていた。

2001年熊本地裁は「らい予防法は憲法違反」だとして政府の法的責任を認める判決を言い渡した。

 

元患者たちへの聞き取り調査が 始まったのは翌年の2002年だった。

近年、回復者たちが口を開きはじめ、研究者が録音した200時間の証言テープも見つかった。

 

かつて兄弟で南静園に入所していた与那覇次郎さんのつらい体験も語られた。

 

戦後、長きに亘って過去を封印してきた回復者のひとり、上里 栄さん(89歳)は聞き取り調査に応じたあと小中学校をまわり、語り部となって人前で自身の体験をを伝えようと奔走している。

 

今年6月、愛楽園の神谷幸一さんが亡くなった。98歳。療養所の生活は80年近くに及んでいた。

神谷さんが 大切にしていたものがある。 自分で書き写した憲法第十三条だ。

「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法 その他の国政の上で 最大の尊重を必要とする」。

 

番組では、専門家による調査・記録と患者たちの証言テープを軸に“戦争とハンセン病”の実相に迫るとともに、収容所で生活した元患者さんたちの取り組みを取材した。

 

戦後79年 「戦争と平和」及び,沖縄の問題を考えるにふさわしい番組だった。

自公政権が沖縄・辺野古の新基地建設、憲法改悪の動きを強める中で、沖縄の負担軽減、憲法を守ることの重要性を改めて痛感した。

                 

                  

8月26日 小滝一志(放送を語る会)

 生存者の証言、聞き取り調査の録音テープで綴る

  ~ ETV特集「隔離と戦禍~沖縄ハンセン病患者の受難」~  8/10放送 

 

 1931年制定された「らい予防法」に基づき開設された沖縄の二つの国立療養所「国頭愛楽園(現沖縄愛楽園)」「宮古保養院(現宮古南静園)」入所者の受難の記録である。

 それまでも隔離政策によってハンセン病患者は強制収容されていたが、1944年5月、軍人の愛楽園2代目園長により在宅患者の炙り出し、軍による患者の隔離収容が開始され、収容者は定員の倍の900人以上になった。南静園では、職員が入所者を置いて逃げ出してしまい、退所を命じられた入所者は、近くの自然壕などに避難するよりなかったという。乏しい食料・医療体制の下で、高齢者や子どもが次々と亡くなり、一日に5人も6人も砂浜に埋葬したと録音テープに記録されている。南静園では太平洋戦争末期1945年1年間で入所者の1/3にあたる110人が亡くなった。  

 番組の後半は、戦後、特効薬プロミンを服用して劇的に回復した上里栄さんが、社会復帰は果たしたが偏見と差別のなかで送った過酷な人生をたどる。入所者だったことを最後まで明かさなかったこと、小中学生に辛い体験を伝える語り部になったのは、1996年の「らい予防法」廃止、2001年の熊本地裁の違憲判決以後だったこと、亡くなった入所者が当初は平和の礎に刻銘されなかったこと等。

 番組の最後で語る入所者の言葉、                   

 「次に生まれる時には、子どもがいて、そういう平凡な家庭を望むよ。人間らしい暮しを」                            

 が胸を打つ。

 そして視聴者は気づかされる。入所者の過酷な人生は、戦禍だけがもたらしたのではなく、背後に社会の偏見と差別が根深くあったことを。

 

 番組制作のきっかけは、担当ディレクターが1年前の夏休みに宮古島を訪れ、南静園の資料室に行ったことだったと聞く。番組で紹介されている資料は、2001年熊本地裁の違憲判決後開始された入所者の聞き取り調査の録音テープと「沖縄県ハンセン病患者証言集」で新しく発掘された資料ではないが、埋もれかけた資料に光を当て戦争体験を次世代に継承していくことは「8月のジャーナリズム」の大切な役割だと思う。

            

               

8月12日 アーチャン(放送を語る会・大阪)

報道特集 戦後79年 「戦争と子供たち」 TBS  2024810日(土)  18001850

                         

 終戦特集として、戦時に大人たちがどのように軍国少年を作り上げていったのかを取材していた。

開始早々、小学校の朝礼か?生徒を前に校長の言葉が『戦争に勝った方がいいと思うものは手を挙げ!』に全生徒が勇んで揃いの挙手。映画の中では教師がアメリカ軍の戦闘機の音を流し、生徒に機種を当てさせ、教科書を開くと、まず忠君愛国の精神を強調する教育勅語が載せられている。教育に留まらず娯楽にも-「少年倶楽部」の雑誌には手りゅう弾の構造や、投げ方が詳述。ただただ戦意高揚をめざし、子供を戦争の道具へ育てていた。

 教育だけでなく、「護郷隊」というふるさとを守るために少年部隊が結成されていた。10代の少年たちは奇襲攻撃を専門にゲリラ戦を展開、今も沖縄に蛸壺壕と呼ばれた残壕がある。ゲリラ戦で命を落とした少年は160人、中には負傷して戦えないという理由で上官に殺された少年兵もいた。実働部隊として過酷な経験をした少年は、戦後も戦争状態と錯誤、PTSDの精神疾患で村を荒らしまわり、自宅の座敷牢に閉じ込められたという。その少年は現在95歳、幼くして受けた心の傷は未だに癒えないとか。

 終戦を迎え軍国主義は否定-民主主義が普及する中、当時16歳だった元女子通信隊の女性は戦争に加担したという罪悪感から戦後何十年も当時の話をすることが出来なかった。しかし、学校の先生になったとき幼い子供たちの姿を見て、後に語り部の活動を始めたという。これも教育の場が切っ掛けだったことが、ちょと救われる思い。それでも先ごろ、「そこまで言って委員会」の番組で教育勅語礼賛している大学講師が、発刊した教科書が検定合格したと自画自賛していた。政権は憲法改正や軍事予算拡大に留まらず、軍国主義への道を再び子供へ準備しつつある。

視聴を終えて、メディアの葛藤を感じながら一刻も早い世界平和の方向転換を願う思いだった。

                       

                                                                   

8月16日 小滝一志(放送を語る会)

 改めて被爆の惨状を知る 8/6放送NHKスペシャル「原爆 いのちの塔」を視て~  8月6日放送

 

爆心地から1.5㎞の所にあったが倒壊を免れ、当時1万人の被爆者が押し寄せ、地元の人々が「いのちの塔」と呼んだ広島赤十字病院の記録だ。

自身も被爆して重症を負いながら治療を指揮した竹内釼院長の手帳、601人の病床日誌、生き残った二人の看護学生の生々しい証言などを基に再現シーンも織り込みながら、放射能による原爆症の痛ましい惨状、半数近くの重症・死亡者を出しながら献身的治療に携わった医療従事者の活動など、当時の院内の日々が記録されている。

当時陸軍の管轄下に置かれ、戦争末期の医療従事者不足で動員されていた十代の護学生の中で生き残った二人の証言がリアルで貴重だ。

被爆当時、多くの人々が治療を求めて病院に押し寄せたと言われるが、そのうち601人分の病床日誌が残されていて、まだよくわからなかった原爆症の症状が詳細に記録されており、「あの混乱の中でよくぞ残した」と医療従事者の緻密さ、誠実さに頭が下がる。

 番組の末尾、竹内病院長が突然辞表を提出して退職する。それは支援を期待し病院の施設まで提供して協力した米国ABCC(原爆障害調査委員会)の「治療よりも調査・研究を優先する」姿勢への抗議と受け取った。番組末尾にこのエピソードが挿入れていることは、ABCCの方針に対する番組制作者の批判も込められていると考えるのは筆者の思い込みか。

 この番組のナレーションは杉浦圭子アナである。被爆2世の杉浦さんだが「被爆40年の夏、初めて原爆・平和関連の番組を担当、学びが始まったのはそこから」と語り、父の被爆体験を聞き直し追体験した末に、「原爆を含めた被害だけでなく、日本の加害の歴史が見つめることが必要です」と言い切る(8/7朝日新聞「被爆国から2024紛争続く世界へ」)。番組が見る側だけでなく作る側をも鍛え、成長を促すことを改めて知らされる。

 戦争と平和を取り上げる番組が集中する「8月のジャーナリズム」については、「加害の歴史に目が向いていない」との批判が以前からあり、佐藤卓己上智大教授(専門はメディア史、大衆文化論)は、日本が降伏文書に調印した92日に焦点を当て、戦争責任や加害の事実に目を向け、諸外国と歴史的対話する「9月のジャーナリズム」を提唱している(7/27 朝日新聞「オピニオン&フォーラム」)。こうした意見にも耳を傾けながら、今後の「8月のジャーナリズム」を見守りたい。

             

                     

8月7日 放送を語る会・大阪 K.O(和歌山)

NHKスペシャル GTV86日午後10:0010:49 

「原爆 いのちの塔」番組モニター感想   

 

8/6(火)22時からのNHKスペシャル「原爆 いのちの塔」は見応えありましたね。

原爆の恐ろしさ、悲惨さは今までにも数多く報道されているが、広島日赤病院の医師や看護師などの献身的な医療介護ドキュメンタリーに頭が下がります。

貴重な日赤病院病床日誌には当初、放射能被害とは分からず被爆患者への治療困難さが・・・。

アメリカはマンハッタン計画から広島を実験都市として扱っていることに怒りも・・・。 

8/6が終わると潮が引くみたいに原爆報道はしぼんでいく。8/9、8/15も同様だが、原爆や核兵器禁止や終戦への特集番組は更なる企画へ期待するものである。

 

8時から広島平和式典がNHK中継された。その中で、広島こども代表の6年生(男女)が語った「平和への誓い」の最後文は

「平和記念資料館を見学し被爆者の言葉に触れてください。そして家族や友だちと平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう」と結んでいる。 国のトップや自治体の長などの形式的スピーチとは雲泥の差だ。

 

5分のダイジェスト版は下記に。

 本編のNスぺ「原爆 いのちの塔」再放送予定は8/14(水)午前2時23分から。(火曜の深夜)

[NHKスペシャル] 見つかった601人の病床日誌が語る原爆医療の実態 | 原爆 いのちの塔 | NHK (youtube.com)

●NHK広島局の担当CPが語る

NHKスペシャル「原爆いのちの塔」、チーフPが語る思い(TVガイドWeb) - Yahoo!ニュース

               

                      

8月28日 楠本宏(放送を語る会・大阪)

 ETV特集 戦艦大和封印された写真  8月3日 23時~

 

 若い水兵13名の写真から、この番組が作られている。戦艦大和を取材していた新聞記者が元大和乗組員の水谷さんから写真を見せられた。

番組前半は13名の名前が書かれた写真から親族・知り合いを探す過程が刑事ドラマを見ているように進んでいく。13名中5名は親族など連絡

が取れたが、8名は連絡が取れなかった。

 番組後半では戦後海軍反省会の録音から終戦後大和をアメリカに渡したくない、一億総特攻と言われ人命を消耗品のように考える中、大和を沖縄に出撃させることが決定される。3332人を乗せ海上特攻に出撃し撃沈され3056人が戦死した。

 戦争について勝っても負けても意味がない、二度と繰り返さない、など戦争はしてはダメという事が戦争経験者・親族からいわれていました。元大和乗組員の水谷さんは孫に「おじいちゃん・おばあちゃんのせんそうたいけん」で「へいわをねがって」と戦争体験の手記を話しています

 

 番組を見て戦争をする愚かさ、人命を消耗品とした当時の軍部の考え方に、なんともいえない気持ちになった。二度と戦争をさせてはいけないと思う。

 

 8月 9日 五十嵐吉美(青森)
・ETV特集「戦艦大和 封印された写真」 
E テレ:8月3日(土)放送


 この番組は広島・呉に配属されてから30年来取材を続けてきた元全国新聞記者渡辺さんの執念につきると思います。彼が番組の後半で語っています。

ほとんどの人の記録もなく海の底、遺骨も戻ってこない。誰も知らない。この人たちがいたんだと後世の人に知ってもらう。忘れてはいないと…」。
 渡辺さんは、取材する中で海上特高作戦を前に、命令で戦艦大和を降りた水谷宗安主計兵にたどりつき、門外不出としたアルバムを見せてもらった。

そこに若々しい笑顔で写る13人の仲間の写真がきちんと名前を記して張られていた。そのアルバムを手にする晩年の水谷さん(2008年死去)は厳しい表情でとらえられています。
 13人のうち5人のことが取材でわかり、紹介されています。写真を撮ったとみられる整備兵だった塩谷という人物にも焦点を当てています。艦内をカメラを持ち歩きスナップ写真を撮ることが許可されていたようです。その写真があったから、秘密にされた「戦艦大和」の様子がリアルに伝わりました。
 戦後生まれが87%。私も戦争を知らない。「戦艦大和」のことは、戦争末期アメリカ軍によって沈められたことは、何気なく知ってはいました。

この番組によって1933年計画・建造時点から秘密にされ、1945年4月7日海上特高作戦命令で沖縄にむかっていた大和が、300機の米軍戦闘機によって走行不能におちいり、火薬庫に火が移り大爆発、3054人が沈められたことを知りました。アメリカ空軍撮影動画が、戦争が航空戦の時代にいかに「戦艦大和」が時代遅れだったかを物語っていました。
 番組では、なぜ無謀な海上特高作戦を命じたのか、録音された海軍将校たちの「海軍反省会」の生々しい証言で、1941年アメリカとの開戦で日本海軍の威信をかけた「戦艦大和」が旧式の戦力とみなされ「無用論」もあった、「人は消耗品」「1億総玉砕」「やけのやんぱち」「大和に死に場所を」と語られていました。
 水谷さんが「戦艦大和」の最期を知るのは数日後、東京の経理学校で担当教官から伝えられたといいます。年が離れている水谷さんの弟が取材に応じ、一度写真を見せられたことがあるが「門外不出だ」と言われたことなど、戦後生きた兄の様子が語られます。写真を封印した水谷さんが唯一、小学生の孫に「平和を願って」という手記を残したことを番組は伝えています。
 私は今後、なぜ戦後も封印しなければならなかったのか、について深めてほしいと思います。戦争だからしょうがないではなく、いま戦死者が「安らかに眠ってはいられない」と声を上げていると感じました。

                           

                       

8月8日 放送を語る会・大阪 山村惠一

・ETV特集 「戦艦大和 封印された写真」 E テレ:8月3日(土)午後11:00~

 

番組タイトルから軍事機密に関わる重要なものだろうかと考えていた。その写真は、「大和」の乗組員の食事を賄う、13人の水兵たちの集合写真で肩を組み笑顔もみせている穏やかなものであった。モノクロだが、試合前にピッチで撮るプレーヤーと同じものを感じた。ただ、みんな同じ水兵服と着帽なが、戦争の匂いを感じさせる「写真」であった。撮影されたのは、1944年インドネシア・リンガ諸島に停泊中の「大和」艦内で、上官の目がない時間帯に撮られたようである。アルバムには四班交代勤務だったのか「大和四直員」とし、「兵員烹水炊所ニテ」とあり、水兵13人の名前とともに記されている。 

この写真を持ち帰り保管していたのは、あの絶望的な海上特攻を前に転属移動命令をうけ大和を下船した笑顔の水兵(2008年に死去)であった。大和戦没者名簿によると写真の内の3名と撮影したカメラマンは戦死、残りの水兵たちは消息不明で、彼らは「写真」とともに海洋の底に沈んだと思われる。「写真」を残していた水兵の遺族(実弟)は、子供のころに一度、見せてもらったことがあるが、この写真は門外不出として、兄は戦争のことは一切語らず、笑う顔も見た記憶もないそうである。ただ、後に孫にだけ、「大和」ことを語っていて、その孫の作文の最後には、トラック島の海の美しさに続けて兄の言葉として「平和を願って」と残されている。 

既に時代から遅れていた大鑑巨砲主義の「武蔵」「大和」であったが、戦況の悪化に「勝てないけど終わらせることもできない」日本の上層部が兵士の命も戦艦も消耗品として「一億総特攻」にでたことに怒りを抑えきれない。79年前のこととしてはならない。ウクライナに侵略したロシア・プーチンもそうである。戦争体験者が少なくなり限りある時間のなか、この封印された「写真」を掘り起こし、いまも取材を続ける元大手新聞社の記者や、番組を制作したNHKディレクターの調査取材の取り組みに、戦争の愚かさと「平和」への思いを繋げていく役割を見せてもらった番組であった。

               

                   

8月6日 広島平和記念式典の日の放送について 放送を語る会・大阪 山村惠一

 8月6日(火)午前8時から広島市で平和記念式典が行われた。NHKは式典を生中継で放送したが、民放各局(大阪)は中継もなく、その時間帯の民放局は、MBSTBS系)はバラエティ「ラヴィット」でタレントのゲームを、朝日テレビ(テレビ朝日系)は「羽鳥モーニングショー」で株暴落とオリンピックの体操、カンテレ(フジテレビ系)も「めざまし8」で男子バレーボール、読売テレビは「す・またんZIP」で卓球などオリンピックの速報に終始していた。朝日新聞の朝刊(8/6)ラ・テ欄には、NHKはGTV・R1で「記念式典中継」と(8:00~)「おはよう日本」、「ニュース7」、「ニュースウオッチ9」それぞれで「広島・原爆」関連の項目があり、NHKスペシャル「原爆・いのちの塔」(午後10:00~)がある。ETVでもオリンピック枠が多く見られ、民放は、オリンピック競技中継に情報ワイド番組でもメダル獲得か?否か?に終始している。そんななか、ABCテレビは「大下容子ワイド!」で▽広島で「原爆の日」、「報道ステーション」で▽“模擬原爆”の実相、の項目がラ・テ欄に見られる。他の民放には「ヒロシマ・原爆・平和」の文言は無い。

もちろん各局とも、ニュース番組の中で「ヒロシマ・原爆・平和」が報道されることになるが、もともと、今年の放送がオリンピック一色になることの懸念があり、さらに史上最大の株価暴落も重なったが、「ヒロシマ」「原爆」「平和」がこうまで薄くなっているのかと愕然としている。 

オリンピック休戦も叶わず、ウクライナやガザでの破壊や虐殺が止められない。さらに、核兵器が使用される恐れも高まっている、いまこそ、「平和」を考えさせてくれる放送をとねがうものである。

 

8月9日 長崎平和祈念式典の日の新聞ラ・テ欄 

9日朝刊(朝日・大阪)のラ・テ欄を開いたが、NHKはGTV・R1で祈念式典生中継(10:45~)とニュース枠(おはよう日本、ニュース7、ニュースウオッチ9)で「長崎から平和の祈り」などの項目が紹介されている。民放では唯一、ABÇの「報道ステーション」で▽大使欠席の原爆式典”長崎の声”現地取材の項目のみ掲載されている。NHKも民放もラ・テ欄はオリンピック関連が占めていて、ニュース枠には前日の「南海トラフ臨時情報」が多く見られる。

 

8月15日 79回目の終戦の日のラ・テ欄から

NHKは全国戦没者追悼式の中継(日本武道館)、おはよう日本、ニュースウオッチ9で「終戦の日」を伝える。GTV午後7:30~NHKスぺシャルシリーズ新太平洋戦争”日記手記で1944年描く”が放送される。GTV午後9:00~特集ドラマもタイトルは”昔はおれと同い年だった田中さんとの友情「戦争って、ほんまにあったんやな」” も放送される。民放は、テレビ朝日の報道ステーションで▽79回目の終戦の日 風船爆弾の”新事実”の項目があり、関西テレビ(フジ系列)で▽八尾に残る戦争遺跡 特攻隊員が滞在した宿(関西エリアのみ放送?)項目 が見られる。その他の局は「戦争」「平和」などの表記はない。前日に岸田総裁の「不出馬」があったとはいえ、戦争を伝える熱が薄くなってきていると感じるのは私だけだろうか?


以下に「終戦特集番組」の情報を随時掲載して行きます。



(転載:NHKホームページより)


・日曜美術館 香月泰男のシベリアシリーズ Eテレ:7月28日(日)午前9:00~9:45

シベリア抑留を中心に自らの過酷な戦争体験を、57点もの絵に描いた香月泰男の『シベリア・シリーズ』。象徴化された作品を、絵に添えた香月の言葉を朗読しながら味わう 


・戦争遺産島

 Eテレ:午後10:30~(時間変更の場合あり)

日本の離島に姿を残す戦跡に空から迫った「戦争遺産島」。戦火の悲劇を克明に描く

731日(水) 奄美大島・加計呂麻島 200を超える戦争遺産が残る島

87日(水) 似島 1万人の被爆者が運び込まれた島
8
14日(水) 大津島 特攻兵器の訓練基地となった島
8
21日(水) 猿島 東京湾の要塞島
 

 


・ハートネットTV #ろうなん8月号 手話で語り継ぐ ろう者・難聴者と戦争」 ①Eテレ:8月14日午後8:00~

 ろう者、難聴者はどんな思いで戦争を生き抜いたのか。戦争は、差別・偏見を一層増長させ虐げられた。中には、”産業戦士”として軍需工場で働き誉れに感じたろう者もいたが・・・。


・ETV特集

「戦艦大和 封印された写真」

 E テレ:8月3日(土)午後11:00~

 日本海軍の最高機密だった大和は、多くの資料が処分され、艦内写真は極めてまれだ。写真は、乗組員の1人が「門外不出」と封印して残していた。分析を重ねると、撮影場所は烹炊所(調理場)。非公式なスナップ写真で、うち3人が大和と最後をともにしたことなどがわかってきた。

昭和天皇 秘められた戦争工作 

 E テレ:8月17日 (土)午後11:00~

終戦2ケ月前の御前懇談会で戦争終結の「聖断」が下された。番組では、当時の内大臣木戸幸一が戦後語った録音をもとに、知られざる終戦工作の内幕と、米ソの国際戦略を読み切れなかったとうじのにほん外交に迫る。

 

弁護士たちのBC級戦犯資料 ~米・新史料が語る真実~

 Eテレ:8月24日(土)午後11:00~

BC級戦犯が裁かれた横浜軍事法廷。いま神奈川県弁護士会は裁判の再検証にあたり、当時、米軍法務部が作成した「再審査記録」に注目。記録をもとに、法の公正を守ろうとした日本人弁護士たちのBC級裁判を描く

見捨てられた人々 ~沖縄ハンセン病患者の戦争~

 E テレ:8月30日 (土)午後11:50~

 沖縄にある2つのハンセン病療養所で戦争中に多くが命を落とした。近年、回復者が口を開きはじめて証言テープも見つかった。死因のほとんどが米軍の攻撃でなく、地域社会から見捨てられ、治療も食料もない自然壕で自活を強いられて命を落としていた。 


・NHKスペシャル GTV:8月6日午後10:00~10:49 

 ヒロシマ・ナガサキ戦争特集番組 2024年夏

「原爆”いのちの塔”~ドキュメント広島赤十字病院~」 

 被爆後、「命の塔」と呼ばれた広島赤十字病院の竹内院長の手帳。当時の医療記録の内実を知る貴重な資料。

・長崎スペシャル(NHK長崎)放送:8月13日午前4:20~

「こども放送合唱団”わかば唱歌隊”~平和をつなぐ歌声~

 

・NHKスペシャル 新・ドキュメント

 GTV:8月15日午後7:30

「太平洋戦争1944 絶望の空の下で」

 太平洋戦争の3年8カ月を追体験するシリーズ。戦局の転換点となった1944年6月のサイパン島での日本軍の「玉砕」。 追い詰められた日本軍の「特攻」作戦。市民が戦争に巻き込まれるとは、どういうことなのか・・・。

・英雄たちの選択 

「昭和の選択 敗戦国日本の決断~マッカーサー”直接軍政”の危機~」

 BS:8月19日(月)午後9:00~

 BSP4K:8月14日(水)午後8:00~

  昭和20年8月日本はミズーリ号での降伏文書の調印。そのとき、日本が恐れていた事態に直面した。進駐軍による「直接軍政」の発令がしさされた・・・。

・BSスペシャル 「平和の祭典の陰で~市民が見た戦乱のガザ~」

 BS:8月15日午後11:25

  パレスチナ自治区ガザでは、市民が「平和の祭典」オリンピックに目を向けることさえできず、爆撃から逃げ続ける。

開戦以来、戦果の暮らしを撮影してきた映像も交え、戦乱の実態を伝える。

・持論公論 GTV:8月15日午後11:15

 裁判記録が語る”戦争犯罪”


・NHK特集「そしてトンキーもしんだ 子が父からきく戦争」(1982年放送)

 BS4K:8月14日(水)午後6:00~

「空襲が激化する中、住民を保護するため」として、上野動物園で多くの猛獣が毒殺。象のトンキーも。後世に語り継ぐべき戦争秘話を”子が父から聞く童話”で悲劇の真相を探り、戦争の異常状態のもとで人と動物の交流を描く。

    (1982年放送時に投稿がありました。 ページ下段へ)


・特集ドラマ GTV:8月15日午後10:00

「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」

 スケートボードが大好きの小学6年生の小沢拓人(中須翔真)は、神社の管理人の81歳の田中喜市(岸部一徳)と出会い、田中の部屋で自分と同じくらいの少年が写っている写真を見つけます


・コネクトスペシャル 8月16日午前2:30

 いのちのうたフェス2024 広島からいのちと平和を


・NHKスペシャル GTV:16日午後10:00

「グランパの戦争~写真家ブルース・エルカスが見た太平洋戦争」  

 祖父の撮影した太平洋戦争の激戦地・硫黄島や占領下の日本の写真を発見

・NHKスペシャル GTV:8月17日午後9:00

「”一億特攻”への道~熱狂と暴走のはてに~」

 航空機による”特攻”だけでおよそ4000人が戦死。当時の日本人が特攻を”希望”とみなし、熱狂が支配していった実態を徹底調査

・NHKスペシャル GTV:8月18日午後9:00

”殲滅するまで終わらない”~サイパン島の戦い米軍録音記録~ 

・映像の世紀 バタフライエフェクト GTV:8月26日夜10:00

「太平洋戦争 日米プロパガンダ戦」 

 嘘と憎しみが激突した太平洋戦争日米プロパガンダ戦(番組予告より)


地域放送局制作の番組

(NHKプラスによる見逃し配信あり)

・原爆の日・生放送特番「ヒロシマを未来へつなぐ 2024」(広島県向け GTV:午後1:05~6:00

広島局スタジオから生放送。戦争や平和、伝承に関する番組を紹介。被爆者の声とそれをつなぐわかものたちの取り組み、平和への思いを深める

 

・コネクト(広島・岡山・山口県向け)GTV:8月23日午後7:30~7:55

「それでも、伝え続ける~被曝者・小倉桂子さん1年の記録」

 去年5月、G7サミットで各国首脳と面会した小倉桂子さんのその後の1年、桂子さんの抱えた苦悩・・・

戦後79年 戦争と平和を考える

日本テレビ系列 「ドキュメント’24」

 

・「生かされて~原爆投下79年目の決意」(制作:広島テレビ)

  放送:8月4日 深夜1:05~

  (再)8月11日(日) 8:00~ BS日テレ 

     8月11日(日) 5:00~/24:00~ 日テレNEWS24(CSなど)

 13歳のとき広島で被爆、生き残った自責の念から「原爆ドームは崩れてしまえばいい」とあの日の体験を遠ざけていた。92歳となったいま、ウクライナ侵攻など世界が再び核兵器の脅威にさらされる中、79年目の決意を見つめる。

 

・ドキュメント’24

「学生たちの戦争~学徒出陣 ペンを銃にかえられて」(福岡放送)

  放送:8月18日 深夜0:55~ 日本テレビ系

「学徒出陣」の元学徒兵(九州帝国大学)が記者に突き付けた「戦争ほどバカなことはない」との一言。この思いは、今の若者たちにどう響くのか。

 

・「戦争リアル」(山口放送) 放送:8月25日深夜0:55~

「台湾有事」の米中関係を背景に、日本も南西諸島に自衛隊基地を開設し、有事の際住民避難の計画策定にも着手。私たちが活きている今は、本当に「戦後」なのか

 


・ドキュメント九州「海の墓標」(テレビ長崎制作)

  放送:キー局 フジTV未定 

     九州各放送局 個別放送(曜日・時間が異なる)

 終戦後アメリカ軍によって、長崎五島列島沖合に海没処分された旧日本海軍の潜水艦24艦。海に眠る戦争遺構が伝えようとするものとは。 

 

・ANN NEWSCH

 「戦場ジャーナリストのエンディングノート」

(配信)Click ☞「命どぅ宝」80代半ばを過ぎた戦場ジャーナリストのエンディングノート 現場や沖縄で取材したベトナム戦争を若者に語り継ぐ【テレメンタリー】 - YouTube

 

・ANN テレメンタリー2024

 「92歳 私の仕事 ~被爆者サーロー節子~」制作:広島ホームテレビ

          放送:8月3日(土)早朝4:50分

 2017年にノーベル平和賞を受賞したサーロー節子さん(カナダ在住)。92歳になったいまも「声を上げることをやめるわけにいかない」と活動を続ける。

サーローさんの「過去と今」を探る  

 

  ANNテレメンタリー2024(転載:テレビ朝日HPより)

「いまだ来ぬ春 ~ウクライナ 疲弊する人々~」8月10日(土)放送

終わらないロシアのウクライナ侵攻。ジャーナリスト玉本英子は、侵攻直後からウクライナに入り取材を続けた。身近に迫った砲弾。取材した相手のその後の死。ロシアの支配地域から逃れてきた夫婦は、息子や甥を失っていた。夫を失った妻は遺族補償金をもらえず生活が困窮していた。玉本が見たのは、政府に失望する市民と兵士の姿だった。さらに日本が供与した自衛隊車両にも遭遇した。終わりの見えない戦争。ウクライナ兵士の墓標が増え続けている。
          ナレーター:堀江政生 (朝日放送テレビアナウンサー)
                   制作:朝日放送テレビ

・TBS 報道特集 終戦特集① 8月10日(土)18:00~

 「戦後79年 軍国少年はどう作られ戦争に使われた?」

 

 ・TBS 報道特集 終戦特集② 8月17日(土)18:00~

 「新たな戦前にどう抗らう」  

 

・TBS『news23』特別企画 8月13日23:00~

 “綾瀬はるか『戦争』を聞く”~沈められた民間の船~」


・徹子の部屋 テレ朝:8月15日13:00

 広島原爆被害者 田中サヨ子


・NEWSランナー 関西テレビ(フジ系):8月15日午後6:00

  特攻隊員の声なき声「戦争に勝てない・・」故郷・大阪・・


NHKラジオ第一

・「ニュースぺこぱxガチモン!~核兵器の現状、広島・長崎を考える~」

 R1:8月5日(月)午後8:05~9:55

 お笑いコンビ・ぺこパとボーイズグループINI

、広島・長崎で取材する記者らが出演。世界の核兵器の現状をテーマに議論する。

 

・広島原爆の日ラジオ特集

「母の願い 未来へつなぐタクト~指揮者・山下一史のヒロシマ」

   R1:8月6日(火)午前9:05~

 指揮者山下一史さんの音楽活動や母の被爆体験、広島との関りをドキュメントと朗読、ドラマでつづる。

 

・長崎原爆の日ラジオ特集

「食は命なり 87歳の料理研究家・脇山順子の原爆」

 R1:8月9日(金)午後4:05~

 

・「ボイス~戦争体験者からのメッセージ~」

 R1:8月12日(月)午後7:25~/

     13日(火)~16日(金)午後7:20~

 






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以下は2023年分の「終戦特集番組」投稿です 

 

◎2023.10.06 今井  潤

                      

 マスコミ市民10月号【放送を語る会・談話室】~放送を語る会・大阪ホームページ「終戦番組特集」から~  平恵數(放送を語る会・大阪)

読み、高く評価したいと思います
 平さんの感想は、NHK・民放の終戦番組特集を総合的に見て書いていますが、話題になったNHKの「アナウンサーたちの戦争」について、

和田信賢アナの「大本営発表」で国民を戦争に煽り立てた罪の重さに絶句するシーンと、この番組がラジオを悪魔の拡声器にしたドラマと評価

できるが、アナ個人の葛藤と反省にとどまっていると大阪HPへの投稿も紹介されています。
 私がしっかり見たのは「もしも核兵器が使われたら」(8月21日)で、とてもリアルに描かれていて、秀作だったと思います。
他にも平さんが書いているように、ドラマやドキュメンタリーに注目作品が多く、見れなかったのが残念でした。

                            


「こころの時代」
『はだしのゲン』と父 翻訳者・坂東弘美
8月20日(日)午前5時~6時 Eテレ

 

服部邦彦(放送を語る会・大阪)

 

【番組内容】

 「はだしのゲン」は、6歳の時、広島で被爆し家族を失った中沢啓治さんが自らの体験をもとに描いた漫画である。

中沢さんは自分が目の当たりにした 広島の惨状だけでなく軍国主義に覆われた日本社会の問題も鋭く描き出した。

単行本10冊に及ぶ長編漫画 「はだしのゲン」は 現在24の言語に翻訳され世界に広がっている。

番組では、中国語に翻訳した坂東弘美さんへの密着取材を通して、その「思い」や行動、「はだしのゲン」を読むことの意味などを聞いた。

 坂東さんはなぜ中国に「はだしのゲン」を届けたいと思ったのか。

その背景には 日中戦争で出征した自分の父親が 現地で(おこな)ったことを知った衝撃があった。

坂東さんが「はだしのゲン」で最も引き込まれた登場人物は中沢啓治さんの父親がモデルであるゲンの父親・大吉であった。

大吉は 1945年86日の原爆で命を落とす前から日本の軍国主義や朝鮮人などへの差別に徹底して反対する姿勢を貫いていた。

坂東さんにとって、ゲンの父の姿は、国家の命ずるまま日中戦争に出征した自分の父親とは真逆の存在に見えた。

坂東さんの父・要三さんは戦地で撮った数多くの写真を自宅に持ち帰っていた。坂東さんは小学生の頃、偶然見たその中の一枚に大きな不安を抱く。

ひょっとして「お父さんは人殺したことあるの?」って 聞いたら、父が黙ってしまい、しばらくしてから「殺さなかったら俺が殺された」。

初めて浮かんだ父への疑念。

しかし、目の前にいる父親は人を殺したことがあるとはどうしても思えない いつも「優しい父親」そのものだった。

坂東さんには、父の戦争体験についての沈黙が心にのしかかり続けていた。

 20年以上が過ぎた頃、坂東さんに 父がどんな記憶を抱えてきたか知る機会が訪れた。

73歳になった父が 自分と孫に宛てた手紙で、胸に秘めてきた戦争体験を伝え始めた。父からの手紙は3か月間続き便箋にして343枚にも上った。

そこには中国の戦場で自分は何をしてきたのか娘にも語れず胸に秘めてきた記憶が克明に記されていた。

坂東さんの胸に刺さったのは 父の次のような告白だった。

子どもを抱き締めて、「殺さないで」って言う 泣き叫ぶお母さんの顔。まさか、父が寝首をかかれるといけないので先に殺したんだということを書いていて。更に狙われるといけないから 殺すんだという人間のおぞましさ。どういう顔をして人を殺したんだろう。

日本へ帰ってきて どういう顔をして家族をつくって命を育んでくれたんだっていう… 。私の体って、そういうものでできてるんだなって思った。

殺した人の命から生まれた命ということになる。だからこれは無駄に使っちゃいけない命じゃないかということ。社会へ返すこと。

私が受けたものを社会へ返すこと。父の過去を知ったことで坂東さんはその後の自らの生き方を大きく変えてゆく。

 坂東さんが求めた人生の新天地は中国だった。

父・要三さんが亡くなった3年後、1996年に 坂東さんは単身中国に渡る。

坂東さんは 中国の人々の暮らしの中に入り一つ一つ中国語を身につけて行った。

「同じ人間同士つながることはできるのか」。まず本当の言葉で語り合うこと。

日本軍がやったとういう抗日戦争記念館が 中国中にできいる

いかに日本人が残虐なことをしたかというのが記念館になっていて 生徒たちの重点教育地点になっている。

『私たちが行くことによって交流が初めて生まれて、「あっ、日本人も悪いやつばっかりじゃ ないんだな」っていうふうに、実際に交流することで、戦争の話になると、そういうことは 打ち解けていくような気がした』

坂東さんは、「はだしのゲン」が 広島の被爆のみならず、民族差別や中国への加害の問題について描かれていることに注目し、この本こそが本当の関係を築く道を開くのではないかと考えるようになっていく。

 中国語の翻訳を決意した坂東さんに 手を差し伸べたのは 、親族が日本兵による悲惨な体験を持つ職場の仲間 王さんだった。

「はだしのゲン」を通じて戦争の実相をお互いに語り合い、核の問題についても共に考えた。およそ7年をかけた翻訳は2014年に完成。

坂東さんが次に出版社を探す。1年余り後、坂東さんの思いをくみ取ってくれる台湾の出版コーディネーターと出会った。

坂東さんたちが心血を注いだ 中国語の「はだしのゲン」は2016年台湾で出版された。

1巻の表紙となったのは、坂東さんが「はだしのゲン」で 強く惹かれたゲンのお父さんが 特高警察に連行される姿だった。

全10巻の表紙の色の変化には血で染まった焦土と化した広島が時代とともに平和を築く光となってゆく願いが込められていた。

坂東さんは 中沢啓治さんの妻・ミサヨさんと共に中沢さんの墓前に台湾で出版した 「はだしのゲン」を供えた。

墓碑には『人類にとって最高のタカラは平和です はだしのげん 中沢啓二』と刻まれている。「生きてらっしゃる間に 見せたかったね。」

中沢さんの妻は、『主人は「はだしのゲン」に出てる「踏まれても踏まれても麦になれ」ってあるでしょ?あれはね、父親の本当の言葉なんです。

それを思い出して、やっぱり人間愛ですよね。弱い人の味方になってね 頑張れっていう人間愛ですよ。』

 文化も歴史も異なる世界の人々に「はだしのゲン」のメッセージはどのように伝わっているのか。

坂東さんは自分のみならず、世界の翻訳者たちがそれぞれどんな思いを抱いて「はだしのゲン」に向き合ってきたのか  映像に記録し若い世代に知ってもらおうと考えた。

翻訳者たちのメッセージを集めた動画サイトを3か月前に立ち上げた。これまでに話を聞いた翻訳者は10人を超える。

坂東さんがぜひ話を聞こうと考えた 翻訳者がいる。浅妻南海江さん。「はだしのゲン」全巻を最初の外国語版としてロシア語に翻訳した人だ。

ソビエト連邦崩壊後、翻訳に取り組んできた浅妻さんはウクライナで新たな戦争が続いている今、何を思うのか。

「ゲンと今後、その世界に望むこと? どういう思いですか?」

『9.11以降 たくさんの戦争が起きてますけれど、結局戦争は駄目だって思っている人たちの向こう側に戦争をしてもお金がもうかったり権力、利権、石油とかそんなものが入ると思ってるような人たちもいるということ。きれいな人たちばっかりで伝えれば分かってくれる---、そんなに やさしいもんでないっていうことが--ずっとこの間の戦争、きれいごとでは済まない現実を前に「はだしのゲン」はどう伝えるべきか。やっぱり人間の善意を信じてるというか、 そういうようなところも 残していかないと。ゲンの果たす役割というのはあると思う。やっぱり偏見とか 差別とかっていうことは非常に憎しみを生む。 憎しみを生んだら何かの拍子で戦争になったりするもので、そういうことだから、やっぱり相互理解っていうのですかね、お互いに理解し合うということをこれ教育の問題だと思うのですけど。想像力を養ったり人を理解したりするような、そういうような教育が各国できていればいい世界ができると思いますけど。』

 そんな中で、坂東さんは 父の形見となった着物をほどき 自分のシャツや帽子に 仕立て直している。なぜそれを身に着けて暮らそうとするのか。

それは父が戦争体験の手紙に添えて送ってきた最後の言葉が自分に突きつけられた課題だと考えているからだ。

 今年8月6日。 原爆投下から78年目の夏を迎えた広島。坂東さんは平和記念公園の近くに建つ 一つの碑を訪ねた。「無名戦士之碑」。

名も知れず軍国主義やあらゆる差別に抗い続ける苦難の道を歩み、亡くなっていった人たちなどを追悼する碑だ。

中沢啓治さんが「はだしのゲン」で描いたゲンの父のモデル、中沢さん自身の父・晴美さんもまたそうした人の一人として登録されている。

『ちょっとつらいですね。父は平和運動をして捕まった人でも何でもなくて、戦地へ出かけていった方です。でも父が書き残さなかったら、黙ったまま口をつぐんだまま死んでいたら私が知りえなかったことばっかりだからね。 教えておいてくれてよかったなって。

戦争へ行った人、戦争に行かないと言って平和のために戦った人、全部知って自分は、じゃあ何をなすべきか今をね、ちゃんと考えたいと思う。』

過酷な戦争の時代に生きた人々、その存在を忘れることなく。坂東さんは自分が今という時代に生きる意味を考えてきた。

「今も現実に戦争が起きていて、ほんとに日々、その苦しみでうちひしがれている人がいるわけで、そのことを思うと、何でこんな苦しみを再生産してるんだろうって。鬼でも何でもない普通の民でしょ? もっと言えば善良な民が、権力者、強欲な人のために駆り出されてしまう。だからそうしないで、こう生きるには 何が必要かということは常に考えさせられる。しかたがなかったで済まされることかというのが今の問いですね。」

番組の最後は次のような中沢さんの言葉で締めくくっている。

2012年12月19日  中沢啓治さんは 73歳でこの世を去った。中沢さんは「はだしのゲン」に込めた思いを記した一冊の本を残している。

『わたしの遺書』、その中で、中沢さんは 次のような言葉でしめくくっている。

『つらいことがあっても明るく前向きに生きる強い男の子にゲンを描きました。「はだしのゲン」の漫画の中には、ゲンの父親が語る「ふまれてもふまれてもたくましく芽を出す麦のようになれ」というセリフが何度も出てきます。僕たちには、きっと負けない「麦の精神」があるのです。

「はだしのゲン」がこれからも読み継がれていって、何かを感じてほしい。それだけが私の願いです。』

 

 8月の番組にふさわしい、戦争、原爆を許さない思いを「はだしのゲン」を取り上げて考えさせられる優れた番組だと思った。

最近、広島市が「はだしのゲン」を平和教材から削除したり、松江市が 学校図書館での「はだしのゲン」の貸出、閲覧を制限する動きが出ており、

これらに抗議、撤回を求める動きが広がっている。

「はだしのゲン」は今の時代にこそ多くの人々、子供たちに読んでほしい本だと思う。

 

                  

                                            

 髙野春廣(放送を語る会・名古屋)

 「ヒューマニズム」という言葉を久々に思い起こした。
 『はだしのゲン』の作者・中沢啓治さんのお墓の前で、妻のミサヨさんが「人間愛ですよね。弱い人の味方になってね。がんばれっていう人間愛ですよ。」と坂東さんに話しかける。「踏まれても、踏まれても元気を出せ、というのがゲンのテーマです」とも言う。
人類にとって最高の宝は平和です。と刻まれている丸みをおびた横長の墓碑の映像が良い。
「資源のない小さな国の日本は平和を守って世界中と仲よくして貿易で生きるしか道はないんだ」「お前らは戦争の熱病にかかりだまされているんだ」「いまに戦争のばからしさがわかる!冷静な正しい目でみることをおぼえろっ」漫画の一コマ一コマがテレビ画面いっぱいに写し出される。ゲンの父親のこのセリフは、今の日本の状況の中で、一層かみしめたい。
坂東さんの父親は、日本軍の一員として中国の上海・南京に行く。「殺さなかったら、俺が殺される」という体験もする。大人になってはじめてこのことを知り、坂東さんはショックを受ける。その後、中国の中学、高校の日本語教師募集のポスターを見て応募
し、訪中。折を見て、父親の足跡をたどる。「すいません、すいません」と言いながら、中国の人たちとの交流を深める。こうして中国のくらしの中に入り、中国語を身につけていく。さらに、中国国際放送局で働くことになり、何でも話せる親友を得る。その親友らと『はだしのゲン』の中国語訳に取り組み、7年間かけて、全10巻を完訳。
  台湾での出版は、2,016年に実現したが、中国大陸では、10社に及ぶ出版社に掛け合ったが、未だ成功していない。でもあきらめず交渉を続けていくという。
『はだしのゲン』は、世界24の言語に翻訳されている。
坂東さんは、翻訳者たちのメッセージを伝える動画サイト『ゲンの翼』を3か月前にたちあげた。その中で、モンゴルのキム-ソンイさんは「普通の人の人生を描いた、それがすごくいいんですよ。普通の人がどんな人生を送っていたか、戦争についてどう思っていたか、モンゴル人に伝えたいんですよ」と言っている。


番組を見逃した方、『ゲンの翼』はいつでもYou Tubuでご覧いただけますので是非どうぞ。

 

 

 

 渋沢理絵(放送を語る会)

 

 『はだしのゲン』中国語翻訳者である坂東弘美さんは坂東さんのお父様が生前に体験された戦争に兵隊として闘っていた戦争の話を聞いたことがなかったそうです。しかしお子さんの戦争についての宿題に手紙で応える形で知らなかったお父様の戦時中のことを知ることになります。番組では坂東さんのお父様の戦時中の思いと『はだしのゲン』作者の中澤啓治さんの思い、坂東さんの『はだしのゲン』を中国語翻訳し、発行するまでの思い、取り組みについて描かれています。
坂東さんのお父様による手紙には、初めて語る戦争の記憶、自分が戦時中してきたことに対しての後悔が綴られています。戦時中、母親が必死に泣きながら子供を抱きかかえ殺さないでくれと懇願したのに銃殺したことや隠れていた人々を全員殺したことなどが手紙にあり、殺さなかったらこちらが殺されていたと綴ります。子煩悩で子供達のためにブランコを手作りしてくれる優しいお父様だったそうで、坂東さんの記憶にある父とはかけ離れていた父の戦時中の姿であったそうです。坂東さんが戦争のことを聞こうとしたらけして話さなかったそうなのですが、それは思い出すとつらくてできれば思い出したくない記憶だったのだろうと私は思います。坂東さんのお父様も『はだしのゲン』作者の中澤啓治氏も戦後、戦争を漫画にし戦争の怖さを伝えるとともに反戦を訴えた中澤氏と坂東さんのお父様は対照的なようで戦争を二度と繰り返してはいけないとの反戦の部分では共通していると私は思います。『はだしのゲン』作者の中澤氏は番組の中で『はだしのゲン』の描写が怖すぎるという投書があったそうだが、それに対して中澤氏は「恐ろしい漫画に映ってよかった。にたにた笑いながらあの漫画を読んでいたらおかしい。怖いなと思われることに感謝したい。」と述べています。私はあの漫画をちゃんと読まなければいけないと思います。怖いだろうがそれが戦争の姿、事実なのだから事実を知らないといけないと思います。『はだしのゲン』は24ヵ国語に翻訳され世界に広がっています。読まれなきゃいけない漫画だと思います。目をそらしてはいけない、きれいごとだけじゃない、反戦のメッセージや戦争の姿が描かれています。
坂東さんは『はだしのゲン』を翻訳するにあたり、わかりにくい、想像しにくい日本特有の風習が『はだしのゲンの』中に出てきます。例えば千人針は中国の人には伝わらない言葉です。中国の人には古着もよくわからず、戦後古着をなんで売ってるのだと疑問に思われたそうです。いろいろと工夫されて『はだしのゲン』中国語翻訳版が完成されているとのです。坂東さんの『はだしのゲン』に対する熱い想いが協力した皆様の心を揺さぶったのだと思います。

 

 



【映像の世紀バタフライエフェクト】
「太平洋戦争を“言葉”で戦った男たち」 8月23日午後11時50分~0時34分
                   五十嵐吉美(放送を語る会)

  番組は、ローマ字の「コウサンセヨ/コロサナイヨ/ブキヲステロ/テヲアガロ/ダマレ」から始まった。日本語を繰り返し教えている。1941年12月真珠湾攻撃で開始された太平洋戦争。当時アメリカには日本を知る人がほとんどいなかった。急きょ制作された映画「我々の敵 日本人」。駐日大使を10年務めたジョゼフ・グルーが解説を担当――天皇ヒロヒトは神で、国民は土地から人々まで天皇の所有物だ———と。日本との戦争に「言葉は武器」と考えたアメリカは、日本語堪能な士官の養成を極秘裏に進めた。
  暗号の解読や捕虜の尋問にあたった日本語情報士官、ボルダーボーイズと呼ばれた人――14歳まで日本で育ったオーティス・ケーリは専門をいかせると志願、敗戦後、昭和天皇の地方巡幸をアドバイスしたと言われる。「源氏物語」に惹かれていた友人のドナルド・キーンも日本語のわかるアメリカ人がいないことを知り、志願。日本人は狂信的な民族と思い込んでいたが軍人の残した日記を読み、同じ人間であることを理解。その後日本との交流、文化の紹介に貢献、日本国籍を取得して亡くなった。エドワード・サイデンステッカーもボルダーボーイズの一人で、復興に努力する日本人の働きぶりに目をみはり日本文化を研究。その後川端康成のノーベル文学賞受賞に貢献する。エール大学で法律を学び弁護士資格をもつテレファー・ムックは占領したテニアン島で、子どもたちの学校を開校、その後の交流も描いて、それぞれの日本とのかかわり、日本との懸け橋となった男たちのドキュメント。
  時間の制約にもかかわらず発掘映像を駆使して、私たちが知らない戦争を見せて
くれた。なかでも【映像の世紀】と銘打った番組ならではの、映像の持つ記録性、おのずと暴露されるリアルな真実、戦争そのもの残酷さが、テーマの外側にあふれ出した。
  1944年アッツ、サイパン、テニアン島を攻め落としたアメリカ軍は、その進軍の記録をカラーフィルムでしていた。島の洞窟めがけて真っ赤な圧倒的な火力で焼き払う。整備した島の飛行場を飛び立った爆撃機は日本の都市の上空から爆弾をバラバラ、バラバラと落とす。ひそかにテニアン島に持ち込まれた原子爆弾をエノラ・ゲイに登載、離陸、広島、長崎上空で炸裂するキノコ雲。その下で、焼き尽くされた街にあふれる虚ろな人々、道端で寝ているのか死んでいるのかわからない母と子、汚れた裸の姿、
はだしで検束されるやせ細った戦災孤児たち、ノウテンキな昭和天皇の地方巡幸など、記録された映像は、戦争の無意味さ、無残さを見せつけたのだ。  なかでもテニアン島を陥落させ上陸した米軍の映像記録を見るのは、私ははじめてであった。当時サトウキビの生産で1万人が暮らしていた島。9500人が捕虜となり2000人は子どもだった。列をなして投降してくるなかの幼い兄妹とみえる子どもがアメリカ兵士から何やらお菓子のようなものをもらいお辞儀をするシーンもとらえている。
  子どもたちのために学校をつくることにしたテレファー・ムック。廃材を活用して3カ月で開校した「テニアンスクール」。机を前に子どもたちの笑顔がはじけている。整列して体操、算数、理科を日本語で指導することが将来の子どもたちに大切だと考えたムック。校長の池田と対立したのは、男女共学をめぐってだった。池田校長は、女子は体力だけでなく知力も男子に劣ると主張。決着はすぐあきらかに。成績上位者は男女同数であった。ムックの希望は、戦争は嫌なもの、子どもたちが平和を願うような教育だった。  46年後の1991年、「テニアンキャンプ学校」同窓会が開かれ、妻と来日したムック。池田校長との対面。手には若かりしムックと池田校長の写真が握られていた。成績上位の女子の上岡さんは教師となって同窓会に出席した。「日本語はすっかり忘れたが、みなさんのことは忘れていない」とテレファー・ムックの晴れ晴れとした表情、2008年に死去。彼の言葉が残された——「戦争中であっても普通の暮らしの中にあっても、私たちはあらゆる機会を通じて関わり合うべきです。ともに歩み寄り、積極的に働きかけ、そして幸せや平和を目標にすべきなのです」。
 この番組のスタッフに感謝したい。

 



【映像】のもつ力 ~二つの作品(テレビ番組と映画)を視聴して~

2023.08.26 K.F(放送を語る会・大阪)  

 

◎ news23   「特集:106歳  戦争の記憶を絵に」

 

 栃木県に住む現役の理容師・箱石シツイさん(106歳)。

彼女は、東京オリンピックの聖火ランナーを務めた方で、ディレクターが聖火リレーの取材を重ねる中で箱石さんが何度も語ったのは戦争の記憶。

ディレクターは、写真にも映像にも残されていない箱石さんの戦争の記憶を絵にして伝えることができないかと考え、法廷画家の根本真一さんに依頼する。そして、出来上がった絵を見ながら改めて箱石さんの証言を聞くという内容だった。

 

 私の印象に残った絵と証言は・・・

 

【絵①】空襲警報下、座布団を背中に乗せて赤ちゃんに覆いかぶさる母親

「赤ちゃんだけは助けようと思った。赤ちゃんはあやしてくれているものと思って笑っていた。」

【絵②】窓越しに見る空襲

「遠くに見えた空襲、音と光が花火のようだった。」

【絵③】召集令状が届き、二人の子供を抱きしめる夫

「夫は、家の二階で顔中涙だらけにして二人の子どもを長い時間抱き続 けていた。」

【絵④】応召した夫との面会と農家のトマト

「面会時『水も飲ませてもらえない』という夫のために、農家を訪ね回 って、やっとトマトを譲ってもらった。

『子どもの顔を一目見たかった』という夫の言葉は本当に辛かった」

 

 箱石さんは子供2人を連れて、実家の栃木県那珂川町に疎開。

親戚の家に身を寄せながら1945年の終戦を迎え、御主人の戦死の知らせが届いたのは終戦から8年後の1953年。

 

【絵⑤】遺骨受領

「箱の中身は小さな位牌だけ。

 ただの板切れ、ずいぶんバカにしていると思った。

 何年も待ったのに板切れだった。悔しかった。

 指の爪でも何でもいい、本物が欲しかった。」

【絵⑥】雨戸を閉め切った暗い家の中の母子

「絶望の中、子供と一緒に死のうと考えた。

 親戚の人たちから涙ながらに説得され、子供たちのために生きようと決心した。」

 

 箱石さんは最後にこう言葉を結んだ

 

「私みたいな苦労した人はいっぱいいる。

  戦争ってやるもんじゃない。誰もがそう思っているでしょうね。

  それでもやるんだから。今のウクライナなんか本当にかわいそう。

  こういうの(再現した絵)を見ると胸が詰まる。

  思い出してぞくぞくする。

  こういう時代が来なけりゃいいね、これから戦争なんかなくて。」

 

 以前、展覧会で見た「高校生が描く原爆の絵」、講演会で見た「大東亜戦争・戦争画」。

写真と違い、絵には作者の主観が入ることになるが、伝えたいことは強く心に響く。

今回の番組でも、再現された絵が加わることで、戦争体験者の証言をよりリアルに感じることが出来た。

 

妻と母親としての戦争体験を埋もれさせない柏木ディレクターの企画に拍手を送りたい。

 

《 8/18放送(14分)》

             

◎ 映画「ひろしま」(1時間44分)

 

 以前、知人から「私、若いころに映画に出たことがある」と聞いた。その映画が『ひろしま』だった。

一度見てみたいと思っていたが、今年の8月、大阪の映画館で二週間の限定上映があると知った。

 もうひとつ《見なければならない》という気持になった出来事がある。最近、外国の方と話す機会があり、《外国の人たちは自分の国の近現代史を自分の言葉で説明する》ことを知った。

広島・長崎と二度の原爆被害を受けた国の人間として知っておくべきことだと思った。

 

 平日、25席ほどのミニシアターが満席だった。

1953年に公開された映画なので、終戦から8年後に作られた作品だ。

教職員組合が制作したもので、多くの市民や団体から延べ88000余人が協力したという。

 映画は、主に二人の教師(岡田英次・月丘夢路)とその生徒たちと家族を描いていく。

被爆シーンは時間をかけて克明に描写されていた。

終戦間もないころの撮影なので、スタッフやキャストにも実際に体験された方も多くいたであろうし、街にはまだ戦争の傷痕が残っていたと思う。

資料映像も挿入されているが、違和感は全く感じなかった。

がれきの中を我が子を探し回る母親(山田五十鈴)、家屋の下敷きになった妻を救えなかった夫(加藤嘉)などの鬼気迫る演技も胸を打つ。

 

 「新しい戦前」とも言われる現在に通じる場面もあった。

原爆で家族を失って戦争孤児となり、定まった職を持たない青年が工場に勤め始める。その青年が教師に訴える。

「僕は工場を辞めました。工場が急に大砲の弾丸を作り始めたんです。

 ぼくはそんなものは作りたくなかった。

 殺人狂時代という映画を見ました。

 戦争でたくさんの人を殺したら英雄になるのに、ほかの人殺しは死刑になるといっています。先生、戦争はまた始まるんですか?

また、女子学生が言います。

「戦後の広島には立派な教会がいっぱい建ちました。

 朝夕、平和を訴える鐘が広島の空に響いています。

 しかし、また誰かが戦争の準備をしているのではないでしょうか?」

戦後間もない時期に、現代に通ずる警告が込められているのに驚いた。

 

 広島市民たちの手により《被爆の実像を後世に残す》という一致した強い思いを感じさせる作品。

映画の中で原爆症について嘲笑する学友たちに「クラスのみんなや先生に知ってもらいたい。世界の人たちに知ってもらう前に、まず日本の人たちに知ってもらいたい。何より広島の人たちやクラスのみんなに知ってもらいたい。」と発言する男子学生。

 この映画で訴えたかったのはこの男子生徒の思いだったのではないか。

 

 

【追記】

この映画「ひろしま」はカラー化された全編が視聴できます。          

 ひろしま / Hiroshima (1953) [カラー化 映画 フル / Colorized, Full Movie] - YouTube  

                           



2023.08.24 安藤晴美(青森)
 NHKスペシャル「原子爆弾・秘録~謎の商人とウラン争奪戦~」
 【8月6日放送】
                   
 今年の夏も戦争にまつわる番組が多く放映され、知らないことがまだまだあるんだと思い知らされました。NHKスペシャル「原子爆弾・秘録―謎の商人とウラン争奪戦」は、一瞬のうちに21万人の命を奪った広島・長崎で使用された原子爆弾の原材料ウランをアメリカに売り込んだ商人が書き残した3万ページの資料に基づいて報じられたものでした。
 その商人エドガーサンジェはベルギーの最大の財閥ユニオンミンエール社の一人の商人としてベルギーの植民地だったコンゴで銅の生産を任されていました。そこで偶然出合ったのが純度の高いウラン鉱石で、当時ウランの活用方法はなかったが、いつか活用方法が見つかれば、市場を独占できると先行投資したものの、ウランの用途はみつからないまま1937年に閉山した。
 しかし、その後ドイツの科学者がウランの価値を発見し、その当時ヒットラーが台頭してきており、ドイツが核を手にすることを恐れ、1940年末にベルギー領のコンゴにあったウラン1200トンを秘密裏にニューヨークへ出荷し、スタテン島に保管された。1941年12月8日真珠湾攻撃でアメリカが日本に宣戦布告をしたことを受け、サンジェはアメリカに売り込みを開始し契約が成立。アメリカ、イギリス政府はコンゴの鉱山から99年間の専売権の契約も。
 アメリカは開発中だった原爆の研究を再開。原爆投下は戦争を早期に終わらせるために核の力を示すことが必要だったとする。そして、1945年7月16日ニューメキシコ州で最初の核実験に成功し、その3週間後8月6日の朝広島に、そして8月9日長崎に2発の原子爆弾を投下した。一商人が手渡したウランでつくられた原子爆弾によって広島で14万人、長崎で7万人の命を無差別に奪った。一命をとりとめた人々もやけどや放射線で苦しめ続けられることになる。
 サンジェは、戦争を終わらせることに著しく貢献したとして外国人には異例な大統領からの勲章を授与された。しかし、サンジェの手記には、核実験を繰り返し、欲望を加速する国家に対し恐怖がつづられている。
 コンゴでは終戦後7年間1万人が過酷な労働の下、ウラン採取を続けさせられた。ほとんどが肺の病気で亡くなっていったとも。コンゴがベルギーから独立する1960年まで広島型原爆の3500発に匹敵するウランを採掘し、核実験は194回繰り返された。ユニオンミニエール社の売り上げは年間2000億円に達しヨーロッパ有数の鉱山会社に成長し、サンジェは名誉会長まで上り詰めた。

              

 この番組を見てとてもやるせない気持ちになりました。戦争の裏で儲ける死の商人が暗躍する時代はなくしていかなくては…。


2023.08.20 大林清(放送を語る会・大阪)

 

 8月19日(土)は俳句の日・バイクの日。エッセイストの吉永みち子さんが スポーツ紙のコラムで、「八月は 六日九日 十五日」という俳句を(故)永六輔さんがラジオで紹介していた記事を知り、録画していたNHK終戦特集番組を視聴しました。その感想です。

 

NHKスペシャル

「原子爆弾・秘録~謎の商人とウラン争奪戦」

・ウラン鉱石がアフリカ・コンゴ共和国から産出されていたとは知らなかった。

 番組では原子爆弾の仕組みは放送されなかったのでネットでから基礎知識を得る。改めてとてつもない殺りく兵器をアメリカが製造し広島と長崎に使用した。まさに戦争犯罪だと思う。

 

歴史探偵

「消えた原爆ニュース」

・コミック的な構成の番組ながら、今回の「消えた原爆ニュース」は的を射た内容だった。

 広島、長崎の原爆報道をGHQが禁止、検閲、統制まで。報道の扉を開いたのは京都大学生と

ノーベル賞の湯川博士だったとは知らなかった。

 

 戦後78年、第2次安倍政権下で当時の高市総務大臣が「行政指導に従わない放送局は電波停止に

する」との国会発言とNHK(元)籾井勝人会長が「政府が右と言うことを左とは言えない」発言

は記憶に新しい。このような動きから放送局側は「政権へ批判的なコメンテーターを降板させるこ

とに・・・」と推察する。 報道の統制や自主規制は形を変えて「新しい戦前」とも思える動きが

見え隠れする。 マスコミ人の更なるジャーナリスト精神に期待するものである。

 

 吉永さんは、今年もNHKが戦争特番を組んでいて、「制作現場の良心がまだ残っていることがうれしい」とも述べている。また、「戦争回避が理想と言うと笑われるようになったのが、2023年8月なのである」と結んでいる。

 



NHKスペシャル「アナウンサーたちの戦争」

    NHK総合 2023年8月14日(月)午後22時か 

 

太平洋戦争では、日本軍の戦いをもう一つの戦いが支えていた。ラジオ放送による「電波戦」。

ナチスのプロパガンダ戦に倣い「声の力」で戦意高揚・国威発揚を図り、偽情報で敵を混乱させた。

行ったのは日本放送協会とそのアナウンサーたち。

戦時中の彼らの活動を、事実を元にドラマ化して放送と戦争の知られざる関わりを描く。

(NHKホームページより) 

 


 渋沢理絵(放送を語る会)

 

当時の国民にとって太平洋戦争はラジオニュースから始まった。12月8日大本営からの第一報を和田信賢アナが書き取り、その原稿を館野守男アナが読み上げ国民は熱狂した。この和田信賢アナウンサーを軸に物語が展開する。

新人アナウンサーの研修の様子が描かれる。正しい情報で一人でも多くの人を助けることがアナウンサーの仕事だと語られる。亡くなった兵士の代わりに兵士の思いを代わりに和田アナウンサーがラジオで代読するのだが、そのシーンが胸にささる。ある時、内閣情報部からアナウンサー達の読み方が生ぬるい読み方だと注意され、原稿が破られる。中にはヒトラーを見習う読み方をすべきだなどと言う方もいて、私はヒトラーっぽい読み方なんて嫌だ、見習いたくないと思った。
 和田アナウンサーの仕事を勉強したいと実枝子アナウンサーが言い、街の様子をアナウンスする和田アナウンサーの様子を描くシーンがあるのだが、私はそのシーンが好きだ。街で暮らす人々の様子がいきいきと伝わる読み方だ。どのように人々が生活しているのかよくわかり、想像もできる。そこで住んでいる人々の景色、生活がひしひしと伝わってくる。和田アナウンサーの実枝子アナウンサーに対する「結婚しないか」とのプロポーズには驚いた。素敵なプロポーズだと思う。
 戦場へ向かうアナウンサーの仲間たちを祝うシーンがあるのだが、妻の実技子さんが外で嘆くシーンに共感する。実技子さんは和田アナウンサーのラジオからの声が好きだったけど、変わってきたと指摘した。和田アナウンサーは戦地に向かう人々を応援したり、戦況を細かく伝えていたつもりが戦争が悪化する中で自分の応援、情報は戦地に若者を人々をけしかけているだけなのではないかと思い悩むようになる。以前、野球を実況した青年たちは特攻隊となり命を落とす。フィリピンのマニラ放送局に行った仲間はたくさん死亡し日本に戻らなかった。
 和田アナウンサーのやるせない思いはよくわかる。確信のもてない情報がニュースになることも怖い。なにが真実でなにがうそかわからず伝えている。アナウンサーの仲間が「きれいごとはたくさんだ!」と叫ぶシーンで和田アナウンサーが「信用のない言葉ほど惨めなものはない」という。この言葉に同感する。和田アナウンサーは葛藤する。青年たちと語り合う中、将来の夢としてアナウンサーになりたかったという青年もいた。若くして死ななければならない運命、お国のために死ななければならない運命なんてつらすぎる。アナウンサーにだって、アナウンサーではなくてもなににだってなれる未来がないなんておかしい。未来ある青年たちが死ななきゃいけない世の中なんておかしい。青年たちでなくとも誰が死んでもよくない。ある青年に和田アナウンサーが「どうせあんたは戦地に行かないのだろう」といわれ、和田アナウンサーには僕らの気持ちなんてわかるのか、ふざけんなといわれる。そう言われても仕方がない。こっちは死ぬんだぞ、あなたは生きてアナウンサーとして生きるのだろうとのやるせない思いがでてる。確かにこちらは戦地に赴く人々のやるせない気持ちを代弁しているのだけだ。ただ頑張れ!と無責任に応援して、戦争のよい情報だけを伝えて、日本が勝っていると伝え続けてはいないか。自責の念が和田アナウンサーを責める。和田アナウンサーは「戦地に行きたくない」との青年たちの声を伝えていなかったのではないか。でもだからといって和田アナウンサーはどうすればよかったのか。マニラ放送局に行ったアナウンサーたちも懺悔の言葉を口にする。「言葉はなんの役にもたちませんでした」と嘆き、飢えとマラリアで死んだ兵士たちの話をする。アナウンサーたちは「日本は勝っている」と伝え続けた私達のせいだとした。「ラジオは夢の機械だったが私達が悪魔の拡声器にしてしまった」とのセリフもある。重いセリフだ。和田アナウンサーの「やめましょう、こんなことは」とのセリフが印象的だ。ラジオはいい面もあるが悪い面もある。実技子アナウンサーの友達のアナウンサーが空襲で幼い子どもと共に死んだことことがわかったとき、悲しかった。女性の社会進出を生前語っていてよい友人だった。

戦争はかけがえのない人を奪う。夢のある若者のかけがえのない命を奪う。一生懸命に生きていたたくさんの命を奪う。戦争をしていいことおこらない。戦地に向かう若者たちを送るアナウンサーの仕事はつらすぎる。アナウンサーとして戦争に加担してしまった責任は重い。重い責任を丁寧に描いているドラマだと思った。そんな中でも「虫眼鏡で調べ望遠鏡でわかりやすく」伝えようとした和田アナウンサーはすごいと思う。戦争を応援した責任はあるが、それに向き合い悩んでいた。自分ならどうしただろうと考えるドラマだった。またエンドロールから知ったのだが、和田アナウンサーの妻の実技子アナウンサーはアナウンサーに復帰したとのことだ。前向きな力強い素敵な方だと思った。他の方もそれぞれ頑張られていた。和田アナウンサーも頑張られていた。つらい嫌な思いをしてアナウンサーという仕事を辞めず続けている方もいらして素敵なことだな、アナウンサーという仕事はやはり素敵な仕事だなと思った。

 

 山村恵一(放送を語る会・大阪)

 

太平洋戦争の戦意高揚の旗振りとなったラジオ。携わったアナウンサーの群像ドラマだった。番組は当時の新人女性アナの独白から始まる

言葉には力がある」 「言葉で世界を変える魔法。それはラジオだった」しかし、ラジオの魔法は幸福ではなく、国民を戦争に駆り立てる兵器となった。

 

1941年12月8日 連合艦隊の真珠湾電撃作戦で太平洋戦争は始まった。日本国民がそれを知ったのはラジオの臨時ニュースだった。

臨時ニュースを申し上げます」「 大本営陸海軍部 12月8日 午前6時発表」「 帝国陸海軍は 本8日未明 西太平洋において アメリカ イギリス軍と戦闘状態に入れり」  大本営海軍部 午後1時発表  帝国海軍は ハワイ方面のアメリカ艦隊 ならびに航空兵力に対する決死的大空襲を敢行せり。シンガポールを爆撃し 大なる戦果を収めたり

 大本営からの第1報を書きとったのが和田信賢アナ、その原稿を高揚して読み上げたのは館野守男アナだった。バックには軍艦マーチが流され否が応でも戦意発揚と放送なった。長期にわたる日中戦争のなか、ラジオから流されるニュースに国民は熱狂し沸き立った。戦争に反対する声はこの大波に押し潰されて、悲惨な道を歩むこととなった。

ドラマは、テレビ実験放送に集まるアナウンサーたちのエピソードが紹介された。「カラスが12羽」(松内)、二・二六事件の「兵に告ぐ」(中村)「双葉山70連勝ならず」(志村)関東大震災で家族を亡くした今福アナは「正しい情報がないために10万人が犠牲になった」「正しい情報の伝達で一人でも多くのひとを助ける」そのために我々の仕事はある」と語ったが、そうはならなかった過酷な現実を見ることになった。

ドラマの主人公の和田信賢アナは「虫眼鏡で調べて 望遠鏡でしゃべる」と語る。

 日中戦争の慰霊・鎮魂放送で、和田アナの戦死者が憑依したような語りに、「これでは国民は戦意喪失だ!」との強い叱咤がされた。日独伊3国同盟が締結され、内閣情報部や陸海軍などの情報事務を一元化する情報局を設立。 新聞雑誌やラジオへの情報統制を強化した。

情報局はアナの読み方まで「なまぬるい・勢いがない」などと指示、女の声など無用だまで言わしめるようになる。ただ、アナウンサーは指示に従っただけだろうか。むしろ、自ら進んで戦勝に向けて高揚発揚の放送をしたのではないのだろうか?

開戦ニュースを読んだ館野アナに、一同が「米英の思い通りにさせるか」「日本人の心意気を感じた」につづけて、「万歳「万歳」をくりかえしている。あとは、挙国一致、家庭も先陣、国運を賭しての闘いなど敵への憎しみを煽る国威発揚放送の一本道をたどったのである。

この状況に疑問を呈したアナもいたが、「アナウンサーはいまや国家の宣伝者 アジテーターである」「マイクが運ぶのは国家の意思だ」にかき消されるのである。戦線が拡大するに伴い、南アジア各地に国策放送局が建てられアナウンサーも赴任し、現地での日本化やアメリカの戦意を挫く放送、いわゆる電波戦の戦士とされ、多くのアナウンサーや職員が還ることが無かった。

アッツ島の戦況で和田アナは「全力を挙げて壮烈なる攻撃~全員玉砕と認む」と。それまで使われていなかった「玉砕」に「玉のように砕け散る美しい言葉」と、続けて「あなたの言葉には力がある、その力が国民を歓喜させ安堵させ背に意を発揚させる」と評される

その後、確かめようのない「大本営発表」を繰り返し放送し、大人だけでなく子供たちまでもその戦果に狂気する事態に誘ってしまうのである。

無条件降伏の受諾に際し、行音放送の前に「あまりにも多くの国民が死んでいった。それは・・・私たちのせいだ。」「ラジオが現れた時、夢の機械と喜びんだ。知らない国の知らない人の様子が聞ける」「しかし私はそれを使って死ねと呼びかけた。我々は夢の機械を悪魔の拡声器にしてしまった」

戦後、巷で子供から「大本営発表」と声をかけられ、和田アナは大きな罪に絶句する。

名前になじみのあるアナウンサーが多く出てくる。彼らが戦争にどうかかわったのだろうか、抵抗はあったのか弾圧は?に興味があったが、アナ個々の群像劇に終始していてリアルさが足りない印象を受けた。戦争遂行に進んで関わっていったアナ集団の責任は重大と考える。個別の懺悔や反省が見られるが、日本放送協会の責任があいまいに終わっている弱さがあると感じた。

南方の放送局には、多数の技術職員も赴任、職場で先輩にその話を聞いた覚えがあります。

戦後のNHKの発展は平和の下でこそと思います。戦争に参加していれば願うべきこともなかったことでしょう。ゆえにNHKは平和を希求し国民に隠さず正確な情報提供をと思う。

 

  小滝一志(放送を語る会)

 

ラジオを「悪魔の拡声器」に変えた放送人の責任
 番組の冒頭、タイトルの下に小さく「これは事実に基づくドラマです」の表示が出る。
「言葉には力がある。言葉で世界を変える魔法、それはラジオだった」と新しく生まれたメディアに大きな期待を寄せて歩み出した戦前の放送人の苦い悔恨と自省のドラマである。
 番組は、型破りの名物アナウンサー和田信賢を主人公にストーリーが展開される。
時は、日中戦争から太平洋戦争へラジオが国民を戦争に駆り立て総動員する道具として最大限に利用された時、1939(昭和14)年から敗戦まで。
 「情報局」が設置され、新聞・雑誌・ラジオへの情報統制が強化され、放送担当課長は「放送局は、我々の指導の下、世界の熾烈な電波戦を戦う本拠地」と宣言する。放送局内には「読み方まで指示されるんですか」との反発もあるが、「情報局が正しい」「プロパガンダが戦況を左右する。ヒトラーを見習わなくちゃ」と同調するものも多い。
 新人アナウンサーに「虫メガネで調べて望遠鏡でしゃべる」と意味深なアドバイスする主人公和田信賢アナは靖国神社の招魂祭実況中継で「お母さん、嘆いてはいけないよ。俺は救国の英霊となって永遠にお国の為に生きるんだから」と語り、情報局の軍人から「これじゃ国民は戦意喪失だ!」と激怒される。そんな和田だが開戦の臨時ニュースに戦意を煽る軍艦マーチをかぶせるような一面も描かれる。
 開戦とともにアナウンサー仲間では、「歴史的決戦の時に俺たちは重要な役割が任されている」「敵を憎しむように読め、アメリカ、イギリスにはケモノ偏をつけて突撃ラッパのように読めと。国民に憎しみを植え付けるなんて恐ろしいことですよ」「それは違う。我々アナウンサーは、今や国家の宣伝者アジテーターなんです。マイクが運ぶのは国家の意思だ」などと激論が交わされる一方、軍部・情報局の方針で170名もの放送局員が電波戦の戦士として南方に派遣され各地に100を越える放送局が開設された。
 日々、戦況放送に携わる主人公和田だが、初めて使われる「玉砕」の言葉に疑問を感じ、国の秘密任務に使われている愛宕山の旧放送所の知人から「負け続けだ!」と悪化する戦況を知らされ、マニラ放送局帰りの同僚アナから「ウソのニュースを電波に載せてジャワのオランダ軍を混乱させるのが任務だった」と聞かされ、信用の無い言葉を伝え続けるみじめさに気付く。
 1943(昭和18)年10月21日神宮外苑の出陣学徒壮行会。実況放送を任された和田アナは事前に、「戦争は殺し合いをするところだ。君たちのホンネを聞きたい」と学生たちにインタビューを試み、彼らのホンネを実況放送にどう盛り込むか苦しむ。
 壮行会当日、学生のホンネを実況放送に盛り込むことのできない和田は、良心の呵責、無念さに耐え切れず現場から逃げ出す。
 スタジアム通路に逃げ込んだ和田の内心の絶叫が映像化される。「私が聞いた学徒の言葉であります。誰にも言えないこの思い。『正直、怖い』『死にたくない』『生きたい』この言葉を私はどのように聞けばよかったのでありましょうか。どうかお聞きください、国民のみなさま。彼らは二度とここには帰ってこないのであります
 1945(昭和20)年8月、終戦を知らせる臨時ニュースを和田に読ませようとする情報局総裁(元日本放送協会会長)下村宏と和田の対話に放送人の深い悔悟が吐露される。
下村「おそらく軍や民間人が決起して反発が起きる。まさに一億玉砕だ」
和田「それは私たちのせいだ」
下村「ラジオが表れた時、私は『夢の機械』だと喜んだ」
和田「しかし私はそれを使って『死ね』と呼びかけた」
下村「そうだ。我々は『夢の機械』を『悪魔の拡声器』してしまった。だからこそこれ以上犠牲を出したくない。国民も軍も納得できるよう陛下の言葉を砕いて説明して欲しい。それができるのは君しかない」
 ラストシーン、ナレーションでアナウンサー仲間の戦後が短く伝える。
 ラストカットは、戦後和田夫妻が街で出会った少年の「大本営発表・・」の一言、それを聞いて呆然とする和田のアップ。
それはどんなに悔いて改めても消すことのできない戦前の放送人の犯した過ちの責任を象徴するカットではないだろうか。幼気な少年に戦意を煽る大本営発表を刷り込んでしまった責任。出陣学徒へのインタビューで「これを聞いてどうしようってんだ。あんたは助けてくれるのか。どうせあんたは行かないんだろう」と詰め寄られながら送り出した責任・・・等々。
 私には、このラストカットは、戦前の放送人の犯した過ちを忘れず、その教訓を今日に活かそうとする制作者・今の放送人の決意とも受け取れた。
 NHKの政治報道が政権寄りと批判され、一時「アベチャンネル」などと揶揄された現状を思い起こす時、この番組は今日的な意義ある力作と評価したい。
 ドラマの中では、「放送は国の監督下に置かれていた」「情報局が置かれ情報統制が強まった」など、当時の状況がコメントでさらりと語られるが、軍の厳しい情報統制が具体的に描かれるシーンが少なく、情報局や軍に同調、迎合するアナウンサー仲間の背後の事情が今一つ伝わってこないことが惜しまれる。




特集ドラマ「軍港の子 よこすかクリーニング1946」 

   NHK総合 8月10日 22:00~

 

2023.08. 13 五十嵐吉美(放送を語る会)
 以前から私は日本という国が戦争責任を果たそうとしないこと、戦災孤児や空襲被害にあった国民への謝罪や保障がないことに対して怒りを感じていた。忍従を強いたこと、そのことをもっと取り上げてほしいと思っていた。8月10日朝、「しんぶん赤旗」を開いたら、NHK特集ドラマ「軍港の子」きょう放送との見出しで番組が大きく紹介されていた。企画・演出が34歳の若手であることに驚き、「今の子どもたちに生きる力を与える作品を作りたい」との田島彰洋さんの思いがどのようなドラマになったのか、夜の番組視聴を期待して待った。脚本は大森寿美男。
 米軍の巨大軍艦が停泊している横須賀港。よこすかクリーニング」の表示がある古びた建物、母娘が車でやってくる。この店の主の祖父がなくなったので店じまいをするためだ。孫娘が見上げる小川今日一の表彰状からドラマはスタート。
 小川今日一(13歳)は、横浜大空襲で母親を失い、引き取られた親戚のクリーニング屋で虐待に耐えかね逃げ出した。逃げ込んだ先では戦災で親も住む家もなくなった子どもたちが集団でスリやかっぱらいで命を繋いでいた。米兵相手の女性の援助で、進駐軍の洗濯をすることで何とか生き延びようとしたが、それも断たれた。どうするのか。
 手を差し伸べられるべき戦争被害者の幼い子どもたちを襲う困難、いわゆる“浮浪児狩り”など絶望に追い込む戦後の日本社会にあって、子どもたち自らが助け合って生きた。少年今日一は「学校に行きたい。もっと強くなりたい。自分の力で自分の好きなように生きられるようになりたいんだ!」と決意、施設に収容されることを選ぶ。
 主人公を演じた小林優仁が「“僕たちはこう生きた”と言っているようだった。逆に“君たちはどう生きるの”と問いかけられているように感じました」(「しんぶん赤旗」より)と、このドラマの核心を語っている。ドラマでも彼の演技は清々しく、涙を禁じえなかった。
 以前NHKのドキュメントで、東京大空襲で焼け出され、上野地下道にたむろしていた「浮浪児」と呼ばれた子どもたちのその後を追った番組があった。その番組で彼らの「戦争」を知った。1945年3月の大空襲は100万人の被災者をだし、1948年厚生省調査では沖縄を除き全国では12万余の子どもたちが孤児となった。当時は戦災孤児とは言わず「浮浪児」と呼んでいたように思う。犯罪をおかす悪ガキのような扱いで、まだ就学していなかった私自身もそう受け止めていたように思う。
 子どもたちに責任はない。当時の子どもだった被害者たちが空襲被害者への「謝罪と補償」を国に訴えたが2013年には敗訴が確定した。国の責任は問わない「国家無答責」という考え方をとるのだ。そして戦後78年となる。あ~あモヤモヤが…。
 「軍港の子」のラスト――海岸で、施設から逃げ生きられたが妹は施設で死んでしまった少女は「今日一といたい、だからあたしも」と決めるが揺らぐ心。「幸せになっても妹は許してくれるかな」と今日一に問いかける。「幸せにならなかったら怒るよ、きっと」と二人はしっかりと手をつなぎあう。やがて中学校を卒業した二人が「よこすかクリーニング」を営むのだ。(◆余談=このシーンは、「おしん」のラスト、海を見ながら自分たちが歩んできた過去を振り返るあのラストと重なって見えたのだが、意図していたのだろうか?)           
                   



[歴史探偵]  消えた原爆ニュース NHK総合  8月9日 午後10:00~10:45

 レギュラー出演者  佐藤二郎(探偵所長)、渡邉佐和子アナ(副所長)、近田雄一アナ(歴史探偵)

                                                    ( 同タイトルの番組に複数の投稿がありました。到着順に掲載しています ) 

 

 2023.8.10 五十嵐吉美放送を語る会)

   この番組は2021年春から全国放送されているNHK大阪制作の歴史教養番組。俳優・佐藤二朗が探偵として謎を解いてゆくという設定。原爆の被害は被爆者の証言や活動で現在世界に知られて、核兵器禁止条約に結実したが、なんと戦後日本では6年間も公にできなかったという。その真相と事件に迫った興味深い番組だった。
 「なぜ被爆の真相が明らかにされなかったのか」これが第一の謎。新聞報道では敗戦8月、9月には新型爆弾の脅威が報じられていたが、10月にはほとんど記事が消えている。「朝日」9月15日付が鳩山一郎の「原爆投下は国際法違反、戦争犯罪」発言を掲載。それが当時のGHQマッカーサーによって「業務停止」とされ、その後プレスコードができ原爆の熱戦や爆風、放射線の被害実態は「事前検閲」で報道されなくなった。
 当時アメリカが核兵器開発をするために米国民にも国際的にも残虐さを知らせたくない思惑があって、反対世論を起こさせないための情報コントロールがあった。実際被爆地には12月まで連合国の記者も足を踏み入れることができなかったという。
 敗戦後NHKは内幸町の放送会館をGHQから明け渡し命令。3階と5階を使用していたが。上下の4階、6階にGHQがいて一字一句検閲されたという。当時の検閲は、戦前日本政府がおこなった伏字ではなく完全削除され、どこを検閲したのかわからないものだという。1948年には検閲制度はなくなるが、プレスコードは残り禁止条項のマニュアル化①米軍人の個人名の報道②共産党を支持の報道③原爆の報道がそれであった。背後に発行停止処分や軍事裁判の恐怖が。関係者は臆病になって、ときが経過した
 それを打ち破った事件――ノーベル賞受賞の湯川秀樹博士も「立派」と評価した京都大学学生の取り組みだった。京都大学医学部病理の授業で、残存放射能の人体に及ぼす影響を知った小畑哲雄(96歳)さんは当時医学生。知らなかった原爆被害を知ったからには知らせる責任があると、「原爆展」を企画。ところが大学側が占領下のため資料の提供を拒み、被爆地広島に原爆の実態を求めて出かけた。予想もしなかったことに被爆者からは追い払われる始末。そのころ被爆者は病気が「うつる」などの差別を受けていた。学生たちの熱意にやけどの背中を撮影させた被爆者吉川(きっかわ)清さん。
 1951年7月京都大学の「原爆展」で1センチも盛り上がったやけどの生々しい実態をみて、当時の死んでいくもののうめきや痛み苦しみを感じ、原爆の恐ろしさを実感した3万人。学生たちの知らせなければの頑張りが大きな一歩を切り開いた。
 ではなぜ、学生たちが立ち上がったのか…。学生たちは当時、何らかの形で戦争を経験し、朝鮮戦争の勃発、自衛隊の発足へのきな臭い動きに、ふたたび戦争で核兵器が使用されるのではと危機感があったのではないか、ゲストのコメント。その後原爆展は各地で開かれ、1952年「アサヒグラフ」が7年前の被爆地の写真を「初公開」と特集するなど、原爆の恐ろしさが伝わっていった。
 スタジオで佐藤「探偵」は「ありのままを知る大切さ」を強調。「知ったからには未来のために伝えるべき責任がある」――強くくり返された言葉が残った。          

      

                          

2023.8.11  アーチャン(放送を語る会・大阪)

 「NHKスペシャル」でも連日、終戦特集番組の続く中、この歴史番組も終戦に視点を移し新聞記念館や、当該者を訪ね探偵。

 1945年8月、広島と長崎に原爆投下され被害者は20万人を超えた。今ではその実態をいつでも確認することが出来るが終戦後6年、その凄惨さをとらえた写真はGHQの検閲など巧妙な情報統制や、様々な自主規制によって真実の報道が大きく制約されていた。

 終戦を迎えた当初は残虐な被爆実態を報道していたが、朝日新聞の有力政治家・鳩山一郎(後の総理大臣)の「原爆投下は戦争犯罪だ」とした記事の掲載を機にGHQは2日間の発刊停止を命令、更に「プレスコード」をはじめ報道の規則を通達し事前検閲を徹底した。

 その後、核兵器の開発を進めていたアメリカは反対世論を抑える方向だったが、GHQは日本で民主化政策をも進めていたため軌道修正ともいえる事前検閲を僅か3年で終わらせた。こうした状況下、広島の作家が『屍の街』と題する被爆体験を綴ったルポルタージュを中央公論社から発刊したが、初版にあった被爆者の数や後遺症の惨状を表現した部分は編集者により削除され、また新聞社では共産党の支持報道や原爆に関する報道は差し止めされる事態が常態化。GHQによる検閲は終わったが占領は続いたため、発行停止処分を恐れた出版業界やメディア上層部では自己規制が蔓延、報道統制が続いた。

 終戦から6年、核廃絶を訴えていた湯川秀樹博士が高く評価していた出来事があった。京都大学の病理学部の講師が被爆の残酷さを研究し原子爆弾症と名付け講義、それに呼応した学生が「原爆展」を企画。大学側の資料提供などの支援拒否を受けるが、生徒自ら現地調査-被爆者のトラウマなど様々な困難に遭遇するが、生徒の趣旨に賛同した被爆者が現れ、凄惨な放射線被害の写真展開催に成功―3万人を超える見学者を迎えた。これが被爆の実態を伝える第一歩となり、「アサヒグラフ」に掲載されるなど原爆報道が進展した。

こうした使命感を伴った献身的な学生運動の背景を、隣国の朝鮮戦争や日本再軍備の警察予備隊の発足などに対する危機感からの反戦運動としてとらえようとしたコメントに共感。

題名からはGHQ占領下での報道規制問題と思われたが、視聴してみると反戦、体制からの表現の自由獲得闘争という今も続くテーマだった。

                                           


【 管理者の感想です】

 探偵所長である佐藤さんのリアクションコメントが、視聴者の共感を呼びいいですね。佐藤さんはおそらくは進行表だけ目にしていて、リポートビデオは初見でないかと思います。 用意されたコメントならば、ばれますもの。

「ブラタモリ」で「武器を持つと戦争したがる」とのタモリさんのコメントもそうでしょうね。       

2023.8.12  平林光明(放送を語る会・大阪)

 1945年8月の終戦直前、広島と長崎に落とされた忌まわしい2発の原爆。いまだ被害は続いているが、何故か詳しい状況が伝えられない6年間の空白の時期がある。特に原爆の残虐さが伝わる写真、放射線の影響を伝える記事は全く姿を消していた。

 番組はこの謎を日本新聞博物館から調査を始めた。その結果9月半ばまでは「時が経っても影響が残る」記事などが掲載されていたが、GHQの体制が整う10月には見当たらなくなった。きっかけは9月5日に朝日新聞が報じた鳩山一郎氏のインタビューだった。 

 この中で鳩山氏は「原爆投下によるの国民殺傷は毒ガス以上の国際法違反、戦争犯罪」と糾弾していた。この記事に対してGHQは強硬に反応。朝日には2日間の発行停止処分、全メディアにプレスコードを出し事前検閲を通告した。NHKが入っているビルは3階と5階にNHKを押し込め、挟み込むように4階と6階にGHQが入居した。その検閲ぶりは「箸の上げ下ろしにまで」と当時の職員が回顧するほど徹底していた。

 この検閲は日本の民主化と矛盾するという批判から48年に終了するが、「原爆症は完全に消滅」など、記事の内容には全く変化が無かった。メディアによる自主検閲が続けられたのである。この現象について山本武利早大名誉教授は「江戸時代以前からお上に弱い日本人の国民性」と分析していたが、今にも続くメディアと権力の関係だけに、この一言で済ませていいのか釈然としなった。

 この閉塞状況を打破したのは京大の学生たちだった。講義で残存放射能の怖さを学び、「知った以上は伝えなければ同罪」と原爆展を企画する。大学からの協力を得られず、自ら現地に赴いて取材や聞き取りを重ねる。原爆展では原爆の実態を絵や写真を使って伝え、放射能の怖さをパネルを使って科学的に伝えることに徹した。この原爆展が多くの人に感銘を与え各地で同様の展覧会が開かれようになった。メディアの自主規制もこの中で溶けて行った。

 真実はどんな権力をも打ち破る力を持つことを教えてくれた番組だった。

 夏になると毎年戦争に関する特集が組まれる。大事なことだが特番やスペシャルでなくとも、レギュラー番組でも工夫すれば戦争に迫れることを証明した良い企画だった。欲を言えばせっかくNHKに対する検閲にも触れていたのに、「箸の上げ下げ」とも言われたGHQの検閲の実態を1例でもいいから紹介してほしかった。

  余談になるが、私も小学6年生の時夏休みで和歌山の親戚を訪れた際、近くの小学校で開かれていた原爆展を観に行った。展覧会といってもわずか十数枚の写真が展示されていただけだったが、初めて見る写真に大きなショックを受けた。中でもコートを引きずって歩いているように見えた人が、実はコートでなくただれた皮膚を引きずっていた1枚が、今でも脳裏から離れない。私を“軍国少年”から反核運動に向かわせたきっかけの1つであった。私も新聞記事から「原爆は普通の爆弾」と信じ込まされていただけに、真実を伝えることの重要性を実感している。 

                    



 

「終戦特集番組・2023年」の投稿 をお願いします。

 

 徳川幕府の下270年の間対外的な戦争をしなかった国が、明治維新後いつしか10年ごとに戦争をする国になっていました。

そして、太平洋戦争に突き進みアジアと日本国民に悲惨な戦渦を

もたらしました。その痛切な反省から平和憲法と国民の運動が78年間にわたり「平和」を守ってきました。

 しかし、いま、その「平和」の思いは崖っぷちに立たされていることを感じます。「新しい戦前」と言ったタモリさんは別の番組で「武器を持てば戦争をしたがる」とも感想を述べましたが、岸田政権の軍事費の大幅増強、武器輸出の緩和など戦争がすぐそこにとも思います。声高に叫ぶことはしないがタモリさんの鋭い感性に敬服しています。戦争の実体験をもつ人が少なくなるなか、その継承が「平和」に向けた課題であり、マスメディアの責務であるといえます。終戦特集番組を視聴すること、意見交換・発言をすることが、

メディアにその役割を果たさせ「平和」にむけて私たちができる行動の一つと言えます。以下のフォームからの投稿をお待ちします。

◆ドキュメント’23(日本テレビ系)

 8月 6日 深夜0:55~「伝承の期限消えゆく被爆者の声」

 8月13日 深夜0:55 「でくのぼう~戦争とPTSD」

 8月20日 深夜0:55~「あの日は消えない ヒロシマ被爆者は今」

 8月27日 深夜0:55~「変わりゆく自衛隊の実像」

テレメンタリー2023 (テレビ朝日系)

 8月 5日 前4:50~ 「彷徨い続ける同胞」

                (地域により放送日時が異なります)

 8月13日 後1:55~ 「僕たちは戦争を知らない 戦禍を生きた女性たち」

     (ABÇテレビ 15日放送(時間未定)

 ◆BSテレ東

 8月15日 後5:58~「池上彰の戦争を考える SP2023」 続報

 

 

 



以下は2022年分です

終戦77年を迎えます。

身をもって戦争を体験された世代も少なくなってきています。

ロシアのウクライナ侵攻で、世界が戦争に巻き込まれる恐れが現実味を帯びてきています。

「戦争」を伝え続けることで、平和を希求するのはマスメディアの責任でもあります。

昨年は「被曝・終戦76年関連番組」(旧ホームページ)には、NHK スペシャル、ETV特集、NNNドキュメントなど24件の投稿をいただきました中でも、終戦ドラマ(総合テレビ)には多くの方から感想が寄せられました。昨年の投稿の閲覧はこちら

今年も「終戦特集番組」を開設します。投稿をお待ちいたします。

 

注:みなさまからの投稿は「夏の特集番組一覧」の下段に表示!       

 

 「終戦特集番組」の放送情報は、判明次第掲載します。

 以下のPDFファイルをダウンロードしてください

 (放送局に都合により変更されることがあります) 

 

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「2022年・夏の特集番組」一覧はこの【PDFファイル】をダウンロードしてください。
2022年・夏の特集番組(08.05 ver.).pdf
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  注:「2022年・夏の特集番組」一覧は最下段に移動しました。【HP管理者】


2022.09.15 平林光明(放送を語る会・大阪)

 24時間テレビ スペシャルドラマ『無言館』 読売テレビ(日テレ系列)827日放送

                  

 長野県上田市に1997年に開館した「無言館」(戦没学生慰霊美術館)は、先の戦争で亡くなった美術学校生の遺作を展示しようと作られた美術館で、当初は3780点余だったが、2010年には1081000点を超える作品が展示されている。

ドラマは開設に至る実話を描いたもので、劇団ひとりさんが脚本を書き、初めて監督したドラマとしても話題になった。

                  

 上田市で美術館を経営している画商の窪島(浅野忠信さん)は、懇意にしている画家の野見山(寺尾聰さん)から、画学生の出征前の絵を紹介する展示館の設立を提案されるが、素人の絵を集めてもと、今一つ気乗りがしない。ある日、野見山に同期だった学生の最後の絵を見せてもらおうと、無理やり実家に同行させられる。ところが家族から出征前の慌ただしい時間を縫って描いた1枚の絵を見せられ愕然とする。実家近くの何の変哲もない田舎のあぜ道を描いた風景画に、出征前の荒ぶった感情の戦争画か何かを想像していた窪島には、故郷を心に刻み込んだような余りにも普通な絵に彼らの真情を知りたくなる。

そしてこの日から、幾多のエピソードを織り込みながら2人の収集旅行が始まる。

                                  

 2人の訪問に感激したある家では、心づくしの夕食でもてなし一泊してもらうことになる。ところが夕食に箸をつけようとすると、兄(でんでんさん)が弟の思い出をとうとうと話し出し箸が進まない。家人の注意で止めるまで同じことの繰り返しに、兄のはけ口の無い弟への思いに引き込まれる。朝まで兄と飲み明かした窪島に、彼は「自慢の弟でいじめや親のびんたには必死で守ったが、戦争からは守ってやれなかった」と悔やんでいた言葉は胸を打たれた。

 絵を預かって欲しいという女性(由紀さおりさん)の依頼を受けた窪島は、ひとしきり夫の思い出話を聞いた後、ベッド脇の壁に飾られている2枚の絵をいざ外す段になって必死の拒否にあう。「50年一緒に生きてきたのに明日からどうすればいいの。やっぱり棺桶に入れてもらう」という訴えに手が止まる。同じ呼び出しを何度か繰りかえした後「私が持っているより、いつまでも生きていられる」と涙ながらに提供に同意する。

                            

 亡くなった人間の絵を巻き上げて商売するのかといった誹謗にも耐えなが ら開館式にこぎつけた窪島は、喜ぶ遺族を見ながら「結局俺は彼らから絵を奪ってしまったのかな」と弱音を吐く。それに対して「絵を奪ったのは戦争だよ」と励ます野見山の言葉に「無言館」の意義が集約されていた。

                   

私としてはここでドラマが終わっても十分良い作品になったと思う。

必然的に多くなるベテラン陣の好演で引き締まった画面になったし、無言館の持つ意義も伝わった。

しかしひとりさんは、無言館の構想から完成まで幾多の苦労を乗り越えて目標を達成するという、予定調和的なドラマになるのを嫌ったのか、この後にもう一つのエピソードをやや長めに付け加える。それは提供した遺族もモデルが誰か分からない一幅の「裸婦像」である。

その記事を偶然新聞で目にし、鹿児島から上田を訪れ50年ぶりに自分を描いた絵に対面する女性の物語である。

出征を予感した恋人の頼みでモデルを引き受けるが、結婚も出来ないまま召集され、ひたすら待ち続ける女性の人生を描き、戦争に壊された青春群像を表したのだと思う。ドラマの評価は人さまざまであり、このエピソード自体も戦争の犠牲を描いたものであるが、既に戦争の理不尽さは十分描かれており、屋上屋を重ねた感がしないでもなかった。

                       

                 


2022.08.28 渋沢理絵(放送を語る会)
 NHKスペシャル「ビルマ絶望の戦場」 8月15日(月)午後10時〜
                              
 番組では「インパール作戦」を伝えている。「インパール作戦」は地獄の作戦ともいわれる。インパール作戦での戦死者は16万人ともいわれる。
それでも戦いを止めなかったのはどうしてか。元兵士、当時を知るビルマの市民の証言、東條英機氏の演説、アウンサンスーチー氏の父親、高木俊朗記者などの言葉から考える。
「インパール作戦を続けろ」と上官から指示された部下たちは、明らかにインパール作戦をこれ以上続けていてもよくない、撤退すべきだと思っても、上官に言えなかったのではないか。言いにくい雰囲気があったのかと。いくら言いにくい雰囲気があったとしても勇気を持ち言わなくてはいけない。忖度してはいけない。言わなかったら、撤退せず戦いを続けるという意見になってしまう。上官に怒鳴られても言うべきことは言うべきで、戦いを続けるという上官と同じ意見だとされることが私ならば嫌だ。おかしいことはおかしいと言いたい。目上の人であっても言うべきことは言わないとだめだ。
 ビルマの首都ラングーンには日本語学校があり、日本語を学ぶ。どうして学ぶのかだが、大東亜共栄圏の建設のため、現地の人々に日本語を学んでもらい、日本語を話せるようになってもらいたいのだ。このあたりからも日本側の無謀さがみえる。
「インパール作戦」はたくさんの死者を出し、失敗に終わった。戦死した遺骨が道に並べられた「白骨街道」と呼ばれる街道もあった。これだけ現地が悲惨な状況にも関わらず、現状を見ず、日本軍を撤退させず戦い続けたことはやはりおかしなことだ。誰か気づいた人が撤退を言うべきだ。言わないことで被害が拡大する方が私は嫌だ。言わなかったと後悔することも嫌だ。
番組内で上官は「戦争を続ける辛い気持ちを察してほしい」とあったが、辛い気持ちを言ってくれないとわからない、はっきり言われないと察せない、気付かない人もいる。インパール作戦が続いたことで被害が大きくなった責任は上官にもあるし、指摘しなかった部下にもあるのではないか。
ビルマの被害の状況に目をそらした上官もよくないが、従った部下もよくない。よくないが従わざるしかない状況、やむにやまれぬ状況だったのかもしれないが、やはり言わなくてはいけないと思う。勇気を持って言わなくてはいけない。
 この番組が伝えたかったことは、私がこのモニターで書いていること以外にもあるだろう。
その全ては伝えきれないが、これだけは是非伝えておきたいと思う。
このビルマでの戦争では妊婦が亡くなった。この妊婦はビルマで普通に生活していただけである。戦争は普通に暮らしている人々を巻き込む。
平穏な日常を奪うのが戦争だ。新しく生まれる命とその母親の命を奪った。このような悲劇がたくさんあったのだ。
私は戦争の全てを知っているわけではないが、戦争は当たり前の日常を奪い、普通に暮らしている人々の命を奪うものだ。戦争はそういう一面もある。
戦争をはじめた人はよく考えて戦争をはじめたのか。戦争を回避することを考えてほしい。私も考え続けたい。
                            

2022.08.16 渋沢理絵(放送を語る会)
 関口宏のもう一度!近現代史SP 本土復帰50年沖縄の過去と今  BS-TBS 8月14日(日) 18時〜
                  
 番組の出演者は関口宏氏と近現代史研究家の保阪正康氏だ。

沖縄の戦前は「琉球王国」だったが大日本帝国のもとに「沖縄県」になったとした。真珠湾攻撃をきっかけとして太平洋戦争に突入する。本土決戦のために沖縄は捨て石になってもらおうとの「捨て石作戦」がとられた。

私は捨て石として沖縄のみなさんには犠牲になっていただこうというような考え方の「捨て石作戦」は沖縄の人達に失礼だと思う。沖縄の方々も本土の方々も等しく同じ命であり、そこに重い軽いもない。綺麗事だと言われるかもしれないが亡くなっていい命なんて一つもない。沖縄が犠牲になるのは仕方無くない。「捨て石作戦」に同意できない。
 ガマの中での惨劇に嫌気がさす。沖縄の言葉を話す者はスパイだと疑われ、子供が泣き叫ぶと殺せと日本兵に言われたという。日本兵はギリギリまで追い詰められ殺せと命令したのだろうが、それでも私は殺してはだめだったと思う。誰かが命をかけてでも止めないといけない。止めるのはとても勇気がいることだ。果たして私にそれができるかどうか。わからないがただそうですねと同意はできない。弱いかもしれないが闘うと思う。
 よく知られている「白旗の少女」の写真、降参する意志を示す白旗を持ち歩く少女の姿である。この少女は比嘉富子さんといい、番組の出演者が以前にインタビューした中で新たなことがわかった。まず比嘉さんの後ろにいた兵士は比嘉さん自身はいることを知らず歩いてたそうだ。白旗は降参するという意味だということを知っていて掲げたのではなく、ガマにいらした老人に白旗を掲げてガマを出ると降参を意味すると教わったらしい。出演者の保阪氏によると白旗が降伏を意味することを知る日本人は少ないそうで、そのことを知っていたご老人は日清戦争か明治時代の戦争の降伏の仕方を知っていた数少ない人の一人だったかもしれないとのことである。知らなかったことである。
 番組ではマッカーサー、吉田茂氏、サンフランシスコ平和条約、佐藤首相とニクソン大統領の非核三原則も取り上げる。

非核三原則には知られていない密約がある。アメリカの緊急時には核の持ち込みを認めるという密約だ。アメリカの都合のよい取り決めが非核三原則には含まれている。アメリカは沖縄返還をしたが、暗にベトナム戦争への日本の協力を求めている。日米繊維交渉の皮肉めいた言葉である「糸」を売って「縄」を買うという言葉も生まれる。経済的にもアメリカを助ける役割を日本は負う立場だ。本土復帰後も変わらない日本の負担。アメリカ軍による事故も後をたたない。暴行事件も起きた。終戦から77年経ち、沖縄本土復帰から50年が経過しても沖縄の負担は軽くはなっていない。このことは変わらない。

 困難かもしれないがよくなる方向へ考えることをやめないと再確認した。

             


2022.08.15 アーチャン(放送を語る会・大阪) 

『報道特集』特集番組2本 TBS 813日(土) 1730分~

                        

特集① 「ウクライナ侵攻とメディア」

まだ爆撃音が聞こえるキーウの公共放送局「ススピーリネ」に金平氏が入る。戦時下の異例の放送体制で5つの公共と民間の放送局が統一、「団結ニュースマラソン」と名付け、全放送局の電波は同じものを放送している。

放送開始前、スタジオを施錠し部外者の侵入を防止。編集長は「出来る限り中立性を守るよう努め、両者の立場を伝えるという原則に基づき活動。このような状況ではロシア側の取材は、発言をそのまま放送できないので国際機関や各専門家の考えを伝えている」と放送の基本姿勢を語った。

メディアセンターでの国防省の会見では「ウクライナに栄光あれ」と国民を鼓舞する言葉が続くが、会見で被害の詳細の負傷者数の発表はされず。金平氏がその数の公開を要求したところ、「戦時中は情報公開のルールがあり、このルールは防衛や安全のために必要なもの、死者の数は公開しない。言えるとすればウクライナ側の死者数はロシアよりかなり少ない。その数は数千人単位と述べておく」と応えた。この見解に金平氏がウクライナの記者に会見は開かれたものと信じているか尋ねると、「戦時中は公開しても良い情報と、そうでないものを区別するために自己検閲が必要になることがある。国防省や兵士にしてはいけない質問がある。外国のメディアが情報を深く知ろうとすることも理解するが、兵士や民間人の命が何よりも大事だ。そのため特定の内容に関して質問しないことがある」と回答。さらに金平氏はメディアの自己規制の是非を上層部に問い質していた。

ススピーリネの会長にインタビュー。

戦時下の放送局と政府の関係について聞く、政府は特定の情報発信を強要することがあるかの問いに「いい質問ですね」と前置きし「政府は常に圧力をかけようとする、私にはニュースの制作・編集の権限はない、それは現場の編集長が持っている。民主主義国家でも政府が圧力をかけるが、編集長やキャスターがNOと突き返すものと判断している」と回答、一方で【記者個人の忖度】を懸念し、「将来的な課題は自己検閲だろう。それをはねのけ自分たちを守る唯一の方法は【ジャーナリズムの規範を厳守】する事だ」の金言。---日本のどこかの放送局上層部にも聞かせてやりたい答えが返っていた。

                 

特集② 「戦後77年 戦争とメディア」

メディアは情報統制の犠牲者なのか、あるいは戦争を煽った共犯者なのかの前置き。

空母4隻を喪失したミッドウエー海戦から逃れた帰還者は、軍上層部が1隻喪失の虚偽報道をしていたと訴える。陸海軍を統括する天皇直属の最高軍事機関・大本営は戦況が悪化していたことを隠し、天皇まで騙していた。

陸軍が戦意高揚のために作らせた【戦う兵隊】という公開されなかったドキュメンタリー映画。敗戦状況の中の兵隊の映像を見た検閲官は、これは【疲れた兵隊】だと激怒。映画製作者の亀井文夫は「戦争に協力するつもりはない。戦況を素直に表現する姿勢だった」と。---これぞジャーナリストの鑑!! しかしその後、監督は治安維持法違反で逮捕された。

映画研究科は「当時の映画は戦意高揚の作品が好まれ、民衆もそれを見て感激した」軍の言論統制により国民が駆り立てられ、戦況が悪化するにつれメディアがその一端を担うようになった。活字メディアまでが軍の意向に沿うようになった。

朝日新聞の書庫に残された紙面には戦意高揚のパレードなどの勇ましい写真を全面にしたものがみられる反面、戦況悪化を知らす写真などは、検閲部より【掲載不可】の印が打たれていた。また記事差し止め事項一覧表というハンドブックも示され、こうした文書は部外流出禁止の通達文書も残っていた。一部の記者は外国の短波放送を聞き戦況悪化の真実を知りながら虚偽報道を続けた。

映画監督の伊丹万作氏(十三の父)はエッセイの中で多くの人がこの戦争で騙されていたと記していた。「いくら何でもわずか一人や二人の知恵で一億の人間を騙せるわけがない。つまり日本人全体が夢中になって互いに騙したり、騙されたりしていたのだろうと思う」と。映画評論家・吉村英夫氏は「騙す側と騙される側を結合させたのがマスメディアだった」---メディアへの限りなく重~い苦言。

終戦の日を迎えるにあたって、新しい貴重な資料や証言が戦後77年の今も続々と公開され続けることに感謝。さらに非戦へ向けてのメディアの役割の重要さを再確認―さすがの報道特集だった。

 

最後に金平氏が取材を通じての箴言「真実を戦争においても犠牲にしてはならない」

 

                 

 管理者より TBS、NO WAR プロジェクト つなぐ、つながるは、86日(土)から15日(月)まで、報道の各番組が戦争の現実を伝え、今、そして未来に教訓をつないでいく企画を放送しました。 報道特集では「戦争とメディア」をシリーズで放送。

TBSfree で配信中です。以下のリンクで視聴できます。

 

              報道特集 「戦時下のウクライナメディア 」 TBS FREE

                   「戦後77年 戦争とメディア」

2022.08.18 山村惠一(放送を語る会・大阪)

 

 アーチャンさんの「報道特集」への投稿に同感です。77年前とウクライナ侵攻のいま、戦時下のメディア状況が似ていることに危惧しています。先の大戦がはじまったころ、大衆は戦争情報を求めて新聞購読数が急増したそうだが、大衆の側も「勝った勝ったまた勝った」などの気持ちのいい情報に熱狂し、メディアもそれに呼応するような報道をつづけ大本営発表にいたったのではとも思う。

 報道特集でもウクライナの国防省が会見冒頭「ウクライナに栄光あれ」に続けて情報に制限が伴うのは当然であるとし、テレビ局ではニュースの間にも放送を鼓舞するキャンぺーンが流され、記者も「戦時中は情報を区別するため自主検閲が必要」と自らの判断で取材制限することもあると回答している。

 

 西日本新聞社は戦争中アメリカの短波放送(VOA?)を傍受して太平洋の戦況悪化を把握していたが、それでも大本営発表の「戦果」を掲載し続けていた。西日本新聞社屋には戦争報道の反省から編集綱領が掲げられている。その最初に「言論の自由と独立を守り 報道の公正、真実を貫く」と記されている。戦時中の報道は勝つための報道という向きがあり、いまロシアの報道に繋がっているとしている。騙す側と騙される側を結合させてしまったのはマスメディアであり、取材した日下部キャスターは、ひとたび戦時下に置かれた時、全体状況に抗うことができるのか「正直自信が持てない」とつきつめたコメントを残している。 あたりまえのことだが、調査報道と自らの役割と責任を突き詰める「報道特集」は今のメディア状況のなかで出色と言える。

 


2022.08.15 平林光明(放送を語る会・大阪)

『仲間由紀恵・黒島結菜 沖縄戦 記憶の旅路』 NHK総合 81日 22時~2245

 

今放送されている朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』の主要キャストである仲間さんと黒島さんが、ドラマ収録前に、島を離れて久しいふるさとを訪ね「沖縄戦」を学ぶ姿を描く。他の番組に比して決して重いテーマではないが、沖縄でも戦後77年を迎え、あの悲惨な地上戦を知らない世代が圧倒的になっている。そんな中でシンボル的な役割を果たしている「ひめゆりの塔」を訪れたことのない人が増えていると聞いたことがあり、若い人たちの感覚を

知りたいと思い視聴した。

             

 40代の仲間さんは、本土疎開のために乗船した輸送船が撃沈され、子供やその家族1,400人以上が亡くなった「対馬丸記念館」と、父や弟の遺骨を探す高齢の女性をガマ(洞穴)に訪ね話を聞いた。女性は「尊い命を捨て石にされた戦争は2度とあってはならない」と繰り返しながら、いまだに遺品さえ見つからない作業を続ける気持ちを話した。

ドラマでも仲間さん演じる4人のきょうだいの母が、ボランティアとして遺骨収集作業に通うシーンがある。

お盆で皆が集まった夜、それまで頑なに話さなかった沖縄戦の悲惨さを伝え、自らも抱きかかえた弟を亡くした思いをボランティアの動機として明かす。この設定と演技を超えて子供たちに話す姿に、ガマの経験が活かされていたと感じた。

                

 一方、故郷を離れて沖縄戦の記憶が薄れていくのが怖いという20代の黒島さんは、年齢も近い「ひめゆり学徒隊」を追った。

南部の糸満市にある「糸数アブラチガマ」に入り学徒隊の手記を朗読した。

アブラチガマは学徒隊の最後の従軍地になった所で、解散を受けてバラバラに戦地をさまよう中で犠牲者が急増した悲劇の場所である。

普通に楽しい時を過ごしていた少女たちが、訳も分からず戦争に巻き込まれる怖さを自分の身に置き換え、他人ごとではないと痛感する。

その後「ひめゆり平和祈念館」を訪ね、元学徒で初代館長の島袋淑子さん(94)に直接学徒時代の毎日を聞いた。

島袋さんの話では、自決しようと手榴弾の栓を抜きながら、シューという音を聞いた瞬間手がちぎれると驚いて投げ捨て、結果的に助かったという潜在的な生への気持ちが非常に印象的だった。

黒島さんもガマでは手記を朗読する女優の顔だったが、島袋さんの話を聞くうちに表情が変わって行き「私に何ができるのでしょうか」と尋ねていた経過に、若者世代の戸惑いと何かしなければという気持ちの変化が感じられた。

黒島さんの女優としての変化を期待したい。

           

 

私事になるが、私も沖縄には度々お邪魔している。オスプレイが普天間に配備された10年前、民主的ツーリストの企画で「沖縄平和の旅」に参加した際、初めてガマを体験した。それが「糸数アブラチガマ」で、ヘルメットをかぶっていても頭を何度も岩にぶつける狭い急坂を下りると奥は意外に広かった。全長270メートルで住民200人が避難していた。そこに閉鎖された南風原(はえばる)陸軍病院の傷病兵600人が移ってからは、地獄絵図になったという。画面では案内標識なども整備されているようだが、沖縄にはまだまだ知られていない戦跡が沢山あることを思い知った次第である。

                                  


2022.08.14.  今井 潤(放送を語る会)
 NHKスペシャル「原爆が奪った”未来”~中学生8000人・生と死の記録~」 
8月6日放送

    

 1945年8月6日広島の中心部には8000人の中学生が集まっていた。
CGで中学生たちが集まってくる様子をあらわす、39校8000人。
なぜ中学生は集まってきたのか。
建物疎開のために動員されていた。
 90歳2名の方の証言
石崎睦子さんの日記で詳細にその日の行動を見る。
原爆による急性障害が起きた。
親も子供を探して市内にはいった。2992人
放射性物質が大量に存在していた。
なぜこれほど多くの生徒が命を落としたか。
軍の生徒動員に学校側は反対したが、中将は軍刀で床をたたき、学徒の出動は必至と強調した。
こうして、8月6日これまでで一番多い8000人という膨大な犠牲につながったのだ。
米国イエール大学精神科医(95)投下のあと17年後、あの日の生徒75人から聞き取り調査した。

「被爆者らが経験したトラウマを私は『死の刻印』と呼んでいる」
広島大学鎌田医師は24人の女性を40年以上調査したが、24人中9人が乳がんを発症した。
ラストコメント
77年前を生きた中学生たちの記録はその重い教訓を今の時代に突きつけています。
               
この番組は決して我々が忘れてはいけない歴史的事実を示してくれました。

               


2022.08.14.  今井 潤(放送を語る会)

 NHKスペシャル「イサム‣ノグチ 幻の原爆慰霊碑」 BS1 8月5日 21時10分~


 米国人と日本人の間に生まれたイサム・ノグチは彫刻の道に踏み出すが、日本でも米国でも差別に合い苦しむ。日米大戦では日系人強制収容所に入り、スパイの容疑をかけられる。
1950年広島を訪れ、建築家の丹下健三と会う。原爆慰霊碑の設計をめぐり、ノグチは期待を持つが、建築家の重鎮に「原爆を落としたアメリカ人にやってもらいたくない」と却下される。1952年の新聞には「誇り傷つけられたイサム野口」、却下の理由は発表されていない。
ノグチは自伝の中で「広島に行きたかった。罪の意識を感じていた。私なりの償いの表現をしたいと思ったのだ」
イサム・ノグチは日米で多くの勲章を与えられた芸術家だったのだが、自らのアイデンティティーを求め続けた人だったと私にはうつりました。

 


2022.08.12 渋沢理絵(放送を語る会)
 NHKスペシャル「戦火の放送局〜ウクライナ記者たちの闘い〜」 8月7日(日) NHK総合 21時〜
              
 NHKスペシャル「戦火の放送局〜ウクライナ記者たちの闘い〜」を視聴した。

戦時下のウクライナの5ヶ月間を記録した番組で、ウクライナ兵士のひつぎのシーンが冒頭にあり、ウクライナの今を象徴している映像だと思い、ウクライナの心の一部がかけるような悲しい気持ちになった。その後、スムイ支局の記者やハルキウ支局の記者、アナスタシア支局の記者らがウクライナの戦況を伝える。記者の方々は命がけの取材をされているなと頭が下がる思いだ。取材者の子どもさんが亡くなられたお話、家がロシア軍の爆撃で破壊されもう住めなくなったということなど、皆さんの語る話を聞く。

 私は番組内でインタビューされるウクライナの人達のお話を聞くと、悲しい気持ちになる。なんでこんな目にあわないといけないのか、平和な生活があったのに破壊されてと悔しい気持ちになる。愛する家族がいなくなった悲しさを想像すると泣けてくる。
 ロシア軍の砲撃は軍人だけではなく民間人も殺していることを番組は伝える。ウクライナの住民は「ロシアには親近感があったが、ロシア軍の残虐な行為に悲しんでいる」と語る。私はロシア軍の残虐行為に怒りがあるし、戦争犯罪だと思っている。
ウクライナの公共放送である「ススピーリネ」について、中立の立場が理想だが今の現状ではそれができないと伝えている。
 ロシアとウクライナは道端で亡くなられている兵士の映像を互いにプロパガンダだと主張している。自作自演だと主張している。

真実を私達は知りたい。ウクライナの住民達の声に共感する。ロシア軍は全部持っていていき、もうなにもとるものかない。フライパンや鍋も攻撃でなくなった。私は私達の大事なものを奪っていくものが戦争だと改めて思った。ロシア軍によるレイプ事件もこの番組内で取り上げていた。強姦や窃盗や殺人や憎むべきことがたくさん行われている。それが戦争だ。そんなのはもうたくさんだ。
 番組内ではシングルマザーの女性の苦労されたことも伝える。ウクライナ放送局「ススピーリネ」の女性記者・アナスタシアさんもシングルマザーであり、仕事と子育てを頑張っていらっしゃる。仕事と子育ての間で悩む姿も伝える。番組内で一度体調を崩されるが復活される様子を伝える。

私は復活されてすごいなと思うとともに、あきらめたくない何かに突き動かされたのかな、仕事を続けたい、伝えなければという使命感みたいなものもあったのかしらと思う。

 最後のバスターミナルのシーンで、ウクライナ放送局「ススピーリネ」の女性記者・アナスタシアさんは娘さんを避難させるため見送る

アナスタシアさんはウクライナに残り戦場の様子を伝える。ドネツクでインタビューすることを選ぶ。あがき続け、闘い続ける、どんなに悲しくても現地でありのままの様子を伝え続ける仕事を続けることをアナスタシアさんは選んだ。

そんな姿は娘さんから見ても、視聴者の私から見ても、誰が見てもみんなかっこいいな!すばらしいな!と思うのではないか。

少なくとも私は大変でも記者を続ける決断をしたアナスタシアさんを応援したい。

                


2022.08.10 諸川麻衣
『ETV特集 侍従長が見た 昭和天皇と戦争』 8月6日


 2021年12月に2回シリーズで放送された『ETV特集 昭和天皇が語る 開戦への道』の続編にあたる番組。海軍大将から侍従長となった百武三郎の初公開の日記、太平洋戦争中の昭和天皇の動向が、発言内容だけでなく口調や健康状態に至るまで克明に記されていた。
 開戦当初、戦勝に「天機麗し」かった天皇だが、ミッドウェー海戦の敗北に強い衝撃を受けた。ガダルカナルの戦いで陸海軍が対立し、作戦がうまくゆかなくなると、自ら乗り出して両者の協力を求めるた。戦局が悪化してゆく中、天皇は「敵に一撃を与えた」上での講和を模索し続けた。
 今回の取材で、天皇が、国内では受信が禁じられていた短波放送や元イタリア大使の松田道一による毎週1回の進講などから、海外の情報をかなり正確に得ていた事実も明らかになった。独ソ戦でのヒトラーの敗北、イタリア降伏など、「明日は我が身」として聞いたのではなかったろうか。
 百武三郎日記には、従来知られる内大臣・木戸幸一の記述とは異なる事実もあり、注目される。しかもそれは単なる戦争の裏面史、天皇裕仁の個人史ではない。明治憲法下の天皇は、「立憲君主」として、政治に関しては内閣、軍の統帥に関しては参謀本部・軍令部の輔弼によって天皇大権を行使することが想定されていた。つまり、絶対主義的専制君主のように、一個人として恣意的に統治したわけではない。だからこそ、1930年代になるまで、天皇を国家機関の一つと捉える「天皇機関説」が正統的な憲法解釈だったのである。にもかかわらず明治憲法には、天皇の下に国としての政策統一を図る機関や仕組みがなかった。そのため、陸海軍の対立に直面して昭和天皇は、「立憲君主」の枠を超え、自らが積極的調停者として動かざるを得なかった。

番組は、戦時中の天皇の懊悩が、明治憲法がそもそもはらんでいた欠陥の顕在化であることを浮かび上がらせる。

その点で、この後、いわゆる「終戦の聖断」に至る過程を百武日記がどう記しているか、さらなる続編が期待される。

また、731部隊の細菌戦、軍慰安婦制度などの戦争犯罪行為を天皇がどこまで把握していたのかも(大陸命・大海令であれば当然承知していたことになるのだが)、百武日記の記述が知りたいところである。

                    


2022.08.08.  K.O.(放送を語る会・大阪)

NHKスペシャル「戦火の放送局〜ウクライナ 記者たちの闘い〜」 放送日: 202287日 21時~2150

<番宣情報>

母国が戦場となったときジャーナリストたちは「戦争」をどう伝えるのか。鳴り響く防空警報の下、臨時拠点からの放送・配信を続けるウクライナ公共放送。ロシア軍の侵攻から5か月あまり、長期取材から見えてきたのは、ロシア側が仕掛けるプロパガンダの実態や、ウクライナ政府から課される戒厳令下の報道規制、そして家族や友人たちの命が危険にさらされる中で、何をどう報じていくのか苦悩する職員たちの姿だった。

    NHKプラス配信中 8月11日(木)午前2:30 ほか 放送予定へ  

<モニター評>

・ウクライナ公共放送「ススピーリネ」をネット検索すると、ウクライナ公共放送PBCPublic Broadcasting Company of Ukraine)は、2017年1月、キーウの国営放送局の傘下に、全国20余りの国営の地方放送局が入る形でスタートした。現地では、ウクライナ語で「公共」の意味のSuspilne(ススピーリネ)とも呼ばれている。今回のドキュメンタリーはNHK独自の取材、カメラも入っての合同制作か。→ 戦時下の映像、記者コメント、市民インタビューから改めて残酷、悲惨さに胸が痛い。同時にロシア(プーチン)への怒りが高まる。

・番組の核「女性記者アナスタシヤさん」が戦時下で冷静な現場リポートがよくできるなーと敬服。しかし、子どもの死について取材した時、自らも母としての感情から涙声での「亡くなった子どもたちの映像をもう撮影したくない」の発言は戦場カメラマンなら誰しも思うことではないか。日本の各TV局も現場リポートで女性記者が多く登場するが、ススピーリネTV局の女性職員の多さに驚いた。 CNNの戦場記者も女性だった。 

・ススピーリネ公共放送のミコラ会長に戦時下でのメディア報道「公平、公正」であるのは難しいか?の問いに → 戦争が終わってからの応えですねと。どれくらい公平公正でいられたかは、後で評価されるべきと。  この件に関し私思考は、これだけロシアの卑劣蛮行を目の当たりにすると報道ジャーナリスト精神は消える。公平公正な行動はできない。ロシア悪を憎む行動に出るだろう。 それが更なる戦争行為をあおることになる。歴史が証明している。ゆえに、報道は常に国民目線で政権批判も視野に入れてこそ公共放送NHKだ。


2022.08.06 山村惠一(放送を語る会・大阪)

 所さん事件ですよ「78年前のフィルム 映っていたのは…」総合テレビ 7月28日 23:00~

 

不安を掻き立てるBGMに沸きあがる黒煙、堅苦しい「要地遮蔽」の文字がスーパーされたモノクロ映像のオープニング。ワイプ画面の所ジョージは「ナニコレ?」とつぶやき、「要地遮蔽???」と木村佳乃の二人の司会者は一様に驚いた表情である。

NHK総合テレビで放送された 所さん事件ですよ「78年前のフィルム 映っていたのは…」の冒頭シーンです。ホームページによるとこのフィルムは78年前、第8陸軍研究所が製作したもので、太平洋戦争中に重要拠点をB29の空爆から煙幕で守ろうとした実験映像で、50万人近くが命を落とした本土空襲の裏で何が起きていたのか?日米それぞれで行われた「実験」を通じて考えると示されている

自衛隊の資料によると、このフィルムが製作されたのは、マリアナ諸島が占領されてB29が進出してくる時期と一致していて、その状況下で「軍需工場が爆撃を受ける可能性も高くなってきた」ための実験であった。しかしB29の本土爆撃は無差別爆撃なので効果がなく実際には使用されることはなかった。「煙幕」は原始的な手法ともナレーションされている。この映像を初見であろう所さんは「爆撃から煙で隠した…もう勝ち目はない」とか木村さんは「まさか煙で…風向きによっては効果ゼロ」と率直なコメントをしている。

同時期にアメリカでの空襲に関する研究は、実験場に実際の日本の木造家屋を建てて「どうやったら都市に大火を発生させるか」「消火がむつかしいものにできるか」と焼き尽くすための新しい焼夷弾の研究をしていたものである。

 一方、日本では空襲時には逃げずに火を消す、逃げたものは懲役刑または罰金刑の「防空法」があり、爆撃の犠牲を甚大化させている。その手引書の「火たたき」や「手袋で焼夷弾も熱くない」などを目にして木村さんは「ちょっとこれなんて…」と呆れた表情である。 所さんは「みんなが同じ方向を向いちゃうのがいちばん怖い」「今のネット時代もちょっとしたことで同じ方向をむく…これも暮らしにくいこと」と。

 ゲストのリュウチェルさんは、沖縄での平和教育を紹介し若い人にも考えてほしいこと、今のままではまた戦争が起きてしまう危機感を持っているとし、本郷和人氏(東京大学史料編纂所教授)は、太平洋戦争の戦史研究は戦争の残酷さを明らかにすることとが平和のために重要と述べている。

 所さんは「太平洋戦争って今からちょっと前じゃないか」「80年位前の話をもうないものだと思っちゃっている」木村さんは「勝つために手段を択ばない、戦争はそうなってしまう」とし、本郷は「戦争は力と力のぶつかりあいだが、そこに行くまでに政治が外交が経済があり、どこかで止めるチャンスがある」冷静に一人一人が判断していくことだとした。

「煙幕」は兵器工場を守るため、「新焼夷弾」は無差別に焼き尽くす爆撃のため、日米ともに「軍事研究・実験」は市民の命を守る思いは全くないことが示された番組であった。エンディングで所さんは「戦争を始める人は甘いものが食べたりないのでは、けんかになりそうになれば、周りがまあまあ羊羹でも食べてれば」と笑いにしていたが、戦争に対して大上段に構えずとも、平易なことばで、平和をかたるこの番組に「やったね」と拍手を送りたい。  

 

当時2歳だった姉(山村カヨ子)は1945年3月14日の大阪大空襲でこの焼夷弾の直撃を受けて犠牲となったが、彼我の圧倒的な力の差にもかかわらず、戦争を始めその継続に国民をかりたてて、絶望的な犠牲を強いた人間の愚かさに改めて怒りを覚えた。

 


 

2022.08.02 渋沢理絵(放送を語る会)

 NHK特集「そして、トンキーもしんだ」を視聴【改訂版】  8月2日 (火)  午後18時10分からBSプレミアムで放送

     
 歌手のさとう宗幸さんと2人の娘さんに「そして、トンキーもしんだ」の絵本を語る。

上野動物園の園長の根本さんとさとうさんとのやりとり、当時の職員による日記など貴重な映像が流れた。
 上野動物園の象の”トンキー”と”ワンリー”、当初2匹の象を殺処分せずに地方へ疎開させる案が出ていたのだが、変わり、トンキーとワンリーも前に殺処分された象の”ジョン”のように殺処分されることになる。

上野動物園の職員は激しく抗議したが、当時の日本政府のプロパガンダ的な側面もあり、なぜこんなときに生かしとくのだという空気もあり、仕方がない決断だと伝えられる。職員側としては納得はできないが、時代の流れにのらざるえない。それは職員達は辛いことだが上の判断を受け入れるしかない。職員達の気持ちを思うと泣ける。この判断は職員達にとっても殺される動物達にとっても辛いことだし、悲しいことだ。

トンキーがもっとえさが欲しくて職員に芸をしたことや、仲間のワンリーの亡き骸にそっと鼻をのばし、いたわったことや、隠れて職員達は動物たちに少ないがえさをやっていたことなどが番組内で描かれ、私は知らなかった事実に驚き泣いた。戦争とは無意味なことと思った。

戦争で良い思いをする人は一握りの人たちで、多くの人は悲しい思いをする。動物達もだ。

いいことは一つもない戦争をなぜ人はするのか、戦争しない方法はあるのか。動物園の動物達を守る方法はあるのか。殺処分は仕方がないことか。

仕方がないことではない。やむを得なかったと殺してしまったら、深い後悔が残る。動物達を殺さない方法はあるのかと問われれば困る。

しかし、こんな悲しい思いをしない方法はあるのではないか。やむを得なかったと諦めたくない。諦めてしまったらだめだ。

当たり前に動物が動物園にいること、私たちが楽しく観賞できることは平和な現代だからこそだ。戦時中は当たり前なこともできなかったのだ。私は戦時中の不自由さを憎む。私は不自由さと闘っていきたい。当たり前のことが当たり前にできる世の中になってほしい。そんな世の中にするために私のできることをやりたい。
 「そして、トンキーもしんだ」の絵本を知っていたので、話は知っているつもりだったが、改めて知ったこともあった。私は知っている気になっていたなと思った。戦争は悲しいことだ。戦争で喜ぶ、得をするのは一握りの人達で多くの人達は悲しい思い、悔しい思いをするのが戦争だ。当たり前の些細な日常の喜び、楽しみもなくなる。「そして、トンキーもしんだ」を観賞して、戦争反対の思いを強くした。

 





特集ドラマ「軍港の子 よこすかクリーニング1946」

        NHK総合 8月10日22:00~ 

 

2023.8.13.  五十嵐吉美(放送を語る会)
 以前から私は日本という国が戦争責任を果たそうとしないこと、戦災孤児や空襲被害にあった国民への謝罪や保障がないことに対して怒りを感じていた。忍従を強いたこと、そのことをもっと取り上げてほしいと思っていた。8月10日朝、「しんぶん赤旗」を開いたら、NHK特集ドラマ「軍港の子」きょう放送との見出しで番組が大きく紹介されていた。企画・演出が34歳の若手であることに驚き、「今の子どもたちに生きる力を与える作品を作りたい」との田島彰洋さんの思いがどのようなドラマになったのか、夜の番組視聴を期待して待った。脚本は大森寿美男。
 米軍の巨大軍艦が停泊している横須賀港。よこすかクリーニング」の表示がある古びた建物、母娘が車でやってくる。この店の主の祖父がなくなったので店じまいをするためだ。孫娘が見上げる小川今日一の表彰状からドラマはスタート。
 小川今日一(13歳)は、横浜大空襲で母親を失い、引き取られた親戚のクリーニング屋で虐待に耐えかね逃げ出した。逃げ込んだ先では戦災で親も住む家もなくなった子どもたちが集団でスリやかっぱらいで命を繋いでいた。米兵相手の女性の援助で、進駐軍の洗濯をすることで何とか生き延びようとしたが、それも断たれた。どうするのか。
 手を差し伸べられるべき戦争被害者の幼い子どもたちを襲う困難、いわゆる“浮浪児狩り”など絶望に追い込む戦後の日本社会にあって、子どもたち自らが助け合って生きた。少年今日一は「学校に行きたい。もっと強くなりたい。自分の力で自分の好きなように生きられるようになりたいんだ!」と決意、施設に収容されることを選ぶ。
 主人公を演じた小林優仁が「“僕たちはこう生きた”と言っているようだった。逆に“君たちはどう生きるの”と問いかけられているように感じました」(「しんぶん赤旗」より)と、このドラマの核心を語っている。ドラマでも彼の演技は清々しく、涙を禁じえなかった。
 以前NHKのドキュメントで、東京大空襲で焼け出され、上野地下道にたむろしていた「浮浪児」と呼ばれた子どもたちのその後を追った番組があった。その番組で彼らの「戦争」を知った。1945年3月の大空襲は100万人の被災者をだし、1948年厚生省調査では沖縄を除き全国では12万余の子どもたちが孤児となった。当時は戦災孤児とは言わず「浮浪児」と呼んでいたように思う。犯罪をおかす悪ガキのような扱いで、まだ就学していなかった私自身もそう受け止めていたように思う。
 子どもたちに責任はない。当時の子どもだった被害者たちが空襲被害者への「謝罪と補償」を国に訴えたが2013年には敗訴が確定した。国の責任は問わない「国家無答責」という考え方をとるのだ。そして戦後78年となる。あ~あモヤモヤが…。
 「軍港の子」のラスト――海岸で、施設から逃げ生きられたが妹は施設で死んでしまった少女は「今日一といたい、だからあたしも」と決めるが揺らぐ心。「幸せになっても妹は許してくれるかな」と今日一に問いかける。「幸せにならなかったら怒るよ、きっと」と二人はしっかりと手をつなぎあう。やがて中学校を卒業した二人が「よこすかクリーニング」を営むのだ。(◆余談=このシーンは、「おしん」のラスト、海を見ながら自分たちが歩んできた過去を振り返るあのラストと重なって見えたのだが、意図していたのだろうか?)