9月9日 楠本宏(放送を語る会・大阪)
当ページ「終戦特集番組」に、2021年、22年、23年の3年で累計55件の投稿がありました。
本年も各放送局の終戦特集番組の視聴投稿を募集します。
募集にあたりNHK、および、TBS、テレビ朝日、フジテレビ、日本テレビ局に対し、それぞれの公式ホームページを通じて「終戦関連番組」の放送予定について質問しました。(6/20)
NHKふれあいセンター、テレビ朝日視聴者センターから回答がありました。両局とも、一覧できる放送情報はなく、サイトや放送告知から予定を取得してほしいとの内容でした。 他の民放キー局からの回答は届いていません。(7/14現在)
この夏の放送は、パリ五輪一色になりそうですが、「終戦特集番組」の放送情報、視聴投稿を投稿フォームにてお寄せください。
管理者より(9月1日)
当ホームページ「終戦特集番組」に、13人の方から計27件(8月31日現在)の投稿をいただきました。
ありがとうございます。
これまで、投稿日の順で掲載していましたが、本日から、番組の放送日順に並べ替えて掲載します。
これからも投稿を受付いたします。引き続きよろしくお願いいたします。
追記:9月1日に1件投稿がありました。投稿数は28件/14人となりました。
9月9日に1件投稿がありました。投稿数は29件/14人となりました。
9月21に投稿がありました。投稿は30件/14人となりました。
9月22日 渋沢理絵(放送を語る会 東京)
テレビ朝日開局65周年記念ドラマ「終わりに見た街」9月21日放送
「終りに見た街」を視聴しました。大泉洋さんが脚本家・田宮太一役で出演されてます。田宮一家が戦時中にタイムスリップしてしまう話です。認知症である祖母と今どきの子ども達、新しいことをはじめた妻に囲まれ日々ぼやきながら暮らしている毎日が一変します。知り合いの小島さんと息子もタイムスリップしていて、田宮一家と大きな変化に困惑しています。
戦時中の異常な場面もあります。兵士が因縁をつけられ上官に殴打されているの物陰から見ていて、別の兵士から何をしているかと問われ、タイムスリップ前にテレビ局のディレクターから渡されていた戦時中の資料にあるセリフを言ったら兵士の態度がコロっと変わり逃がしてくれました。主人公が天皇の名をだしたら態度を変えたのです。力を持つ天皇の存在はすごいな、それほどの力なのだと驚きました。
小島さんの息子が一度田宮家のもとからいなくなり、しばらくして戻ってきた息子は軍事青年になってました。周りに東京大空襲の危険を必死に伝えようとしている田宮に対し、みんながお国のために働いているときにとなんだと批判します。田宮の娘も同調します。妻は、現代ではペット用アクセサリーをつくっていましたが、戦時中では軍事用の物をつくっています。悲しいことです。
ニートだった田宮の息子・新也は、戦時中に同僚とともに生きる希望・目標を得ていきいきとしています。でも、父は父で一生懸命やっている行動であり、無駄なことだと決めつけてかかることはおかしいと、新也は自らの意に反することでも受け入れるべきだとします。
お国のために頑張れない人がいてもよいと思います。みんながみんな同じ方向を向いてなくてよいと思います。違う方向の人を非国民といい排除する方がおかしいと私は思います。戦時中だと言いにくいことかもしれませんが、言うべきことはきちんと勇気を持って言わなければならないと思います。おかしいことはおかしい、違うことは違うといわないといけないです。戦時中「日本は神の国」で日本の勝利を日本国民が信じて疑わず同じ方向をむいてバンザイをしているのは私からすればおかしなことです。その時代に生きていたらそうしていただろうか。わからないです。わからないですが、戦時中の日本は神の国なのだから負けることはありえない、みんなで一生懸命日本の為に自己を犠牲にしてお国の為に頑張ろうという空気には強い違和感があります。主人公はただ目の前にある危機を伝えたかったのだと思います。私は主人公の田宮さんを応援します。
ドラマの最後の場面で、またピカっと閃光が走り田宮は右手を失い廃墟の中倒れています。隣で虫の息の兵士に請われて水を飲ませてあげます。その兵士に「今は何年だ?」と聞くと「2千何年・・」と答えるだけでした。田宮の目には崩壊したビル群が見え、いまは現代かな?とも思えます。新也に似た顔の青年が小さい女の子(祖母の幼少期)をおんぶし、主人公の携帯をグシャと踏んづけて歩いていきます。これが「終わりに見た街」だったのです。
このドラマは、戦争中にその危険を伝えようと頑張った人がいて、その人をこうすべきだったと決めつけず、思いやりと想像する心を持ち接してほしいと訴えているのではないかと思いました。テンポがよく、クドカン(宮藤官九郎)らしいドラマで、ついていくのが大変でしたが視聴してよかったです。タイムスリップして現代の問題が浮き彫りになり、いきなり戦時中にきた人々は困惑しますが、変わらないこともあります。新たに気づくこともあります。大勢の意見、みんなの意見、長いものに巻かれるのではなく、いつの時代もたとえ少数派でも自分の意見を曲げないようにしたいです。おかしいことはおかしいと言える人でありたいと思いました。
8月29日 渋沢理絵(放送を語る会)
クロー
中絶手術をした医師が証言し、もう育っている命を殺してしまう手術をしなければならなかった悔しさを語り、つらい仕事であり、
国立市舞鶴病院で働くインタビューを受けた医師は102歳になら
その後番組では旧ソ連軍に強姦されたことが元福祉相談員の河島さ
番組では混血の女児が生まれること、1滴でも外国の血を日本に入
元福祉相談員だった河島さんが語ります。海に身を投げようとして
後に、この女性は亡くなられましたが、河島さんは、この女性がいたこと相談されたことを伝えなければ、この事実がなかったことになってしまうと思い、
この女性が受けたような性犯罪はささいなものではない、重大な犯
8月28日 平林光明(放送を語る会・大阪)
クローズアップ現代 終わらない戦争(1)「敵国人抑留」 NHK-GTV 8月27日 19時30分~20時
戦争が終わって79年たってもまだ知られていない歴史がある。「クロ現」は3回シリーズでその事実を追った。
第1回は「敵国人抑留政策」で「愛する日本に“敵”とされた外国人」というサブタイトルが付いている。日本人が“敵国人”として収容所に集められた政策はアメリカ、カナダ、ブラジルなどで実施され、もう1つの悲劇としてドラマやドキュメンタリーなどでしばしば描かれている。
しかし同じことが日本でも行われていたことは、ゲストの鴻上尚史さん(作家)も「知らなかった」というように私にも初耳だった。
「日本人の暴力から保護するため」というのが表向きの理由だが、実際は「スパイ活動の可能性がある」ということで、開戦と同時に1200人以上が検束され、およそ50カ所に抑留された。
その1人のイギリス人医学生は、“日本の母”(意味不明)を持つほどの親日家だったが、有無を言わさず検束され、収容所での毎日を日本語の日記で書き記している。それによると当初は成人男性だけだったが1942年頃からは女性や高齢者も対象にされ、戦況が悪くなってきた43年半ばからは目立って待遇が悪化したことが記されている。そのことは収容所の担当警察官の録音テープからも、警察官が次々と徴兵され補充であてられた警察官の質の低下がモラルの低下を生んだことが伺われる。イタリアが降伏してからは検束の対象はイタリア人にも広がり、待遇も悪化して50人以上が医者にもかかれず亡くなっている。
こうした事実がほとんどの日本人に知られていないのは、収容所の痕跡が残されず目につかないのも大きな原因の1つで、鴻上さんも「負の歴史をきちんと見つめることも必要。コロナ下でも排除の論理が幅を利かせたように、属性に関わらず隣人と接することが必要」と述べていたのが印象的だった。
今年の朝ドラ「虎に翼」で触れられていた軍部の「総力戦研究所」も初めて知ったことで、調べればまだまだ知られていない事実が転がっているような気がする。
8月26日 和歌山 K.O.(放送を語る会・大阪)
あさイチ「二階堂ふみの沖縄旅」
番組を見ていて、数年前に放送を語る会・大阪の メンバーと沖縄旅行をした思い出へタイムスリップ。
和歌山で知り合った友人(先輩)が、退職後に沖縄で平和ガイドとして活躍中だ
普天間基地や辺野古埋め立て基地などを現場で熱く語られることに感服。
最近、その友人と音信が途絶えていて心配していたところ、亡くなられたとの訃報が・・・。 合掌
思い出が走馬灯のようにめぐる中、
「あさイチ」番組で「
そのコーナーインタビューで”PW”という言葉があり字幕訳は戦争捕
・沖縄戦で米軍は捕虜(軍人と軍属)と民間人(非戦闘員)
作業現場などでは、上着の背に、
今後も「
8月27日 山村惠一(放送を語る会・大阪)
映像の世紀 バタフライエフェクト 「太平洋戦争 日米プロパガンダ戦」 8月26日放送
国民を戦争に駆り立てるプロパガンダに映像は大きなインパクトとなる。太平洋戦争で日米双方ともが新聞・ラジオ・映像(フィルム)を戦争遂行に総動員した実態が当時の実映像で伝えられている。米国では戦死者のリアルな映像や日本の狂気を見せつけて敵愾心を煽る。が、次第に厭戦につながるような映像は姿を消していく。日本でも「鬼畜米英」「大本営発表」と国中が虚情報であふれ、戦意発揚のために使える情報は誇張され都合の悪い情報は隠される。
いまもウクライナやパレスチナガザ地区の戦闘で、激しいプロパガンダ戦がありフェイク情報がまかり通っている。ブチャにおける市民の虐殺はウクライナ側の自作自演として示した映像が、ロシアのフェイクとその「証拠映像」から確認されたこともある。映像をくまなくファクトチェックをしたメディアが暴いたものだった。
現代のネット社会は、情報を隠そうとしても隠しきれない世界である。反面、生成AIなどで、「本物以上」の偽の映像・音声が流されている。一般の国民は、その情報の真偽を確かめる手段を持っていない。信頼できるメディアのファクトチェックが頼りである。
この番組のように、メディアも文化も戦争に総動員されることになれば、再び国民は熱狂の渦に巻き込まれるのではと危惧する。戦争の反省を忘れず、権力から自立したメディアであれと期待する番組であった。
太平洋戦争で米軍兵士の心に郷愁を持たせる放送をした「東京ローズ」が釈放後に「自分が引いたカードで人生が変わってしまったのは、私が最初で 私ひとりでも そして最後でもないのです」と語ったことばが、戦争が止まないいま、重い。
9月9日 楠本宏(放送を語る会・大阪)
NNNドキュメント24「戦前リアル」
去年アメリカの有力なシンクタンク「CSIS」が、台湾有事のシミュレーション結果を公表しました。最も可能性が高いとされるシナリオは、アメリカ軍は岩国・嘉手納・横田・三沢から出撃、中国はすぐさまミサイルなどで日本の米軍基地を攻撃する。米軍基地が攻撃で使用できなくなることを想定し、戦力分散でどこへでも戦力を展開できる能力を強化、日本の米軍基地相互に戦闘機を乗り入れ訓練を行っている。それにハワイやアラスカ基地からも米軍機が訓練で飛来している。
米軍機が自衛隊基地の飛行場を使った訓練も行われており、シミュレーションでなく現実のものとして動いている。「CSIS」は、日本の民間空港も使用できるようにすべきと提言をしている。
私は台湾有事になれば日本の民間空港や港が米軍に使用される恐れがある。日本政府がアメリカに対して民間施設の使用を拒否するとは思えない。米軍基地・自衛隊基地がないから安全と思っていても、日本の中で安全な場所が無くなると思うと恐ろしい。
8月31日 山村惠一(放送を語る会・大阪)
NNNドキュメント’24「戦争リアル」 8月25日(日) 24:55【拡大枠】放送 制作:山口放送
米軍基地を抱える山口県岩国と沖縄の住民の意識と「戦争のリアル」が伝わる番組だった。
第一に、米軍基地移転に反対の民意には補助金や交付金を凍結する脅迫めいた「ムチ」を打ち、容認市長には凍結を解除する、交付金・補助金の「アメ」を振舞う政府のやり口に怒りを覚えた。移転反対の市長をひっくり返し、容認派の市長(5期連続)の下にある岩国は、教育・育児環境に恵まれ生活がしやすい自治体に住んでいて、中には「貰うなら大きなアメをもらいたい」との市民の発言もあった。
第二に、アメリカのシンクタンクの報告では、「台湾有事」の際、アメリカ軍基地がミサイル攻撃を受けることを想定しているが、民間に及ぼす被害は報告されていない。 岩国・沖縄の市民には、生活のすぐ隣に米軍基地があることの懸念、戦争に対する感情に温度差が見られた。
「軍は市民を守らなかった」と戦争の実相が語り継がれている沖縄では、駐屯が進む自衛隊基地も攻撃され、民間の被害が実感をもって語られている。一方、岩国市民は、「恐れ」は口にしても「そうはならないのでは」とか、それより生活にと「恐れ」に向き合うことを避けているのではと感じた。
市長の姿勢で施策に差異を付け、選挙に影響を及ぼす事態は民主主義国家といえない。また、「戦争にならないと思いたい」の心情は、原発事故の際の「安全神話」と同じ響きで聞こえた。
番組は、先の大戦から79年。私たちが生きているのは「戦後」と言えるのか としている。
8月25日 渋沢理絵(放送を語る会)
ETV特集「弁護士たちの
ETV特集「弁護士たちの
多くの市民が犠牲になった無差別爆撃は意味があったのか否かを伝
番組内で午後23時47分ごろに、ハリー氏の手紙が紹介されます
この一連の攻撃は国際法に反する攻撃であると訴え続けた大久保弁
8月20日 渋沢理絵(放送を語る会)
NHKスペシ
8月18日(日)午後21時からNHK総合で放送のNHKスペシ
米兵の音声はこれまで扱わ
日本軍による「バンザイ突撃」と米兵たちが呼んでいる突撃が印象
人をそこまで追い詰める戦争
最後の一人を殺すまでやめないとの戦いへの執念は戦争の怖さ・狂
サイパン戦の戦いは凄まじく
原子爆弾投下を美化したくないです。美化したくないと
8月30日 平林光明(放送を語る会・大阪)
NHKスペシャル「“一億特攻”への道」~隊員4000人 生と死の記録~ NHK総合 8月17日 21:00~22:15
番組欄に「取材15年」とあるように、担当ディレクターがコツコツと4000人の名簿をもとに故郷や生家を訪ね関係者の声を拾い集めたり、米軍側の映像をもとに特攻機の操縦者を特定したりして作品を構成しており、制作者が自らナレーションを務めるほど思い入れの強い力作であった。
◎司令官自らが「統率の外道」と語る特攻が始まったのは、戦況が悪化した1944年10月のフィリピン戦線で22人が先陣を務めた。当初は戦況が好転するまでの一時的作戦とされたが、安直な作戦として通常化された。この頃主に対象にされたのは10代の予科練出身の少年兵で、「仲間に死なれ自分もいずれは」と覚悟している“使い頃のクラス”とされていた。
その中の1人を福岡県八女市に訪ねたが、“軍神”とあがめられ、婦人雑誌の巻頭グラビアを飾るヒーローに祀り上げられていた。分厚い和紙の束の追悼文が作られ、次代の特攻兵を生み出す道具に利用されていた。
◎この特攻は軍令部総長から明治天皇に奏上された。天皇は「そこまでやるのか」と驚きながら「よくやった」と否定しなかった。このひと言が軍の正式作戦として広まった決定的役割を果たしていると思われる。「一遍勝ってから有利な講和」を目論む「一撃講和派」が利用し、「強硬派」も便乗した。
広島県の江田島にある海上自衛隊第一術科学校に遺品が収納されているが、「体当たりでは勝てない」と確信しながら飛び立っていった隊員の遺書は哀れだった。
それでも特攻を後押しする歯車が回り始めた。その中心を担ったのはマスコミだった。ニュース映画、ラジオ、「1億総特攻」を大見出しにする新聞。さすがに出陣前の隊員の遺言を流したNHK ラジオの放送には賛否両論が渦巻いたというが。いつの世でも世論を誘導してきたマスコミの役割を自戒しなければと思う。12月をピークに一時減っていた特攻が大幅に増えたのは45年3~6月の沖縄戦の時期だった。この時の主力には少年飛行兵に加えて学徒動員組が充てられた。学徒動員兵はそれまでの徴兵猶予に対する世間の反発に加え、自ら将官として先頭に立たねばならない立場があった。
学徒兵には「熱望」「望」「否」という志願調査が行われたらしいが「否」と書けるわけもなく、ほとんどが「否」に近い「望」だったといわれる。「こんなために親が大学を出したのではない」とわめく人もいたが、指名されたら全員があきらめの境地で飛び立っていった。
現代の戦争では無人機やドローンが特攻が果たした役割を担う。人の命がドローンと一緒という非常識、非人道的発想に一層怒りを覚える。
制作者も同じ思いを15年の取材にかけて描いたと思う。ただ残念なことに作品からその怒りが伝わってこないのが残念だった。
私も以前鹿児島県南九州市にある「知覧特攻平和会館」を訪れた際、若いはつらつとした遺影と出撃前に残した家族あての遺書を順に読んでいくだけで、涙が止まらなかった経験がある。事実は雄弁かもしれないが、同じようなエピソードやインタビューを淡々とつなぐ構成には75分は長かった。率直なところ途中で疲れてしまった。
それと「1億特攻」の掛け声の中、各地の部隊で色々な特攻兵器が考案された。人間魚雷「回天」の水中特攻、モーターボート型「震洋」の水上特攻が知られているが、片道燃料で沖縄に出撃した「戦艦大和」もある意味特攻と言える。制作者は特攻を「神風」と言われた航空機特攻に代表させているが、4000人というのは航空機特攻だけの数字なのかよく解らなかった。
これだけ多くの犠牲の上に作られた新憲法を改定し、日本を「普通に他国と組んで戦争する国」に変えようとする軍国主義勢力の動きが激しくなっている中、8月の「戦争を振り返る作品」の役割はますます大きくなっている。制作者には失礼な注文もしたが、皆さんの頑張りを祈ってやまない。
8月21日 府川朝次(放送を語る会)
NHKスペシャル ”一億特攻”への道 ~隊員4000人 生と死の記録~ 8月17日放送
この番組を見ながら、私は遠い昔のことを思い出していた。終戦の年私は小学校に入学した。当時巷では「同期の桜」が流行歌のごとく歌われていた。
「貴様と俺とは同期の桜」で始まり、「咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国のため」と結ばれるこの曲を、私は友達と大声で歌っていた。
意味もよくわからないまま、でも得意げに声を張り上げていた記憶がある。今回、表題の番組に接し、そうした子供の行為さえもが「特攻」を美化し、若者たちを死に導くための装置の一つに組み込まれていたことを痛感した。
「特攻」、特別攻撃隊は1944年10月にその第1陣「神風特別攻撃隊」が編成されたことに始まる。マリアナ沖海戦で艦載機400機、空母3隻を失った軍上層部は、通常の戦法ではアメリカに太刀打ちできないことを知った。考え出されたのが敵の航空母艦に飛行機ごと体当たりする「特攻」戦法だった。
10月末、レイテ沖海戦で「敵」空母を撃沈し戦果を挙げたことに可能性を見出した軍は、その後「特攻」を攻撃の柱として位置づけるようになっていく。その結果、終戦までに4000人近い若人が飛行機とともに散っていったと、この番組を担当した大島隆之ディレクターは報告している。彼は15年にわたって特攻隊とは何だったのかを追い続けてきたのだ。
そして明らかにしたのは、海軍兵学校や予科練のように教育によって〝率先して命を投げ出す"特攻精神を醸成していくだけでなく、特攻隊を取りまく周辺に、その行為を美化する装置が様々張り巡らされていたという事実だった。
それに最も寄与したのがメディアだった。ニュース映画は特攻隊員の出撃場面に「機上にあるのは神にして人にあらず、これは神々の出陣である」とのコメントを添えた。この映画に感激した大会社の社長は社員に、銃後にあるものも特攻隊と同じような強い崇高な精神を持たねばならぬと訓示した。
「一億特攻」なる言葉を編み出したのは新聞だった。ラジオは連日特攻機の出撃の様子を美辞麗句をならべたてて放送していた。当時わずか7歳に過ぎなかった私が「同期の桜」を何なく歌えたのも、繰り返しラジオから流れてくるこの曲を覚えてしまったからだった。
特攻隊員を送り出した福岡県八女市では、50校に及ぶ小学校の教師が、それぞれ戦死した隊員の追悼文集を作り、特攻行為をたたえた。また、香川県の村では「軍神」の碑を建立し特攻隊員を顕彰した。そうした行為は青年たちに死を厭わない、むしろ誇らしいと思う精神を植え付けていったであろう。
さらに、そうした「死を美化する」総元締めともいえる国の装置が用意されていた。靖国神社である。この番組では靖国については触れていないが、冒頭紹介した「同期の桜」の4番には次のような歌詞がある。
貴様と俺とは同期の桜
離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社
春の梢に咲いて会おう
「靖国で会おう」は、出撃する若者たちの合言葉になっていた。
哲学者の高橋哲也氏は、靖国神社とは死者を「追悼」する施設ではなく、戦死を称賛し、美化し後に続くべき模範とする「顕彰」の施設だったと定義している。
特攻隊の出撃は沖縄戦でピークに達する。この戦いでは練習用の複葉機まで投入された。
高く飛べず速度も遅いこの飛行機に積まれたのは大型の爆弾だった。当然のことながらこれらの飛行機は、相手の船に到達する前にすべて撃ち落されてしまった。おそらく出撃を命じた上官たちも、この作戦が相手に損害を与えることが千に一つもないことを承知していたであろう。まさに時間稼ぎ、数合わせのためにだけ繰り出された愚策であった。
「一億特攻への道」は特攻の賛否については何も触れていない。ただ事実の積み重ねから構成されている。それがかえって虚心に一億特攻の狂気に迫ることを可能にしている。
昨今、防衛大学校の学生や自衛隊員たちが集団で靖国神社に参拝することが常態化してきている。そこで彼らが何を見、何を教え込まれているかはわからない。しかし、私は特攻隊を正当化するために用いられた様々な精神論や装置がまたぞろ息を吹き返してきているのではないかと危惧している。いたずらに死を美化してはならないと考えるからだ。
特攻隊を作り上げた時の司令官でさえ、「統率の外道」といったという、人間を弾丸に使うという狂気の沙汰がまかり通った時代。私たちはそれを過去のこととだけとらえてはならないのではないか。
8月19日 五十嵐吉美(青森)
「グランパの戦争―従軍写真家が遺した1千枚」 NHK総合 8月16日放送
太平洋戦争中、米軍従軍カメラマン、ブルース・エルカスは、激戦地
戦前、内務大臣で「慰安婦」制度を作ったと言われる坂信彌が、夫を
オランダに戻り、それらの調査結果も踏まえ、祖父の不都合な写真
8月17日 高野春弘(名古屋)
「徹子の部屋」8月15日放送
8月15日放送の「徹子の部屋、ヒロシマ原爆被害者・田戸サヨ子」を見ました。「道端に沢山の人がうずくまっている。水をください…。日赤つれって…。あんなにたくさんの人が死んでいると麻痺してくるんです…。」淡々としたサヨ子さんの話に、じっと耳を傾ける徹子さん。
8月11日には「戦争を語り継ぐ・徹子の部屋特別編」(1時間7
『三波春夫さんは、終戦直前の満州で体験したソ連軍との戦闘を語
「なんていうかな、あたらしい戦前になるんじゃないですかね」と
8月16日 K.O(和歌山)(放送を語る会・大阪)
NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争 1944 絶望の空の下で」モニター感想 放送日:8月15日
今回の放送はシリーズ4回目の制作。真珠湾攻撃から半年後に戦況は悪化し、1944年のサイパン島で移住生活していた1万の人々も犠牲となった。日本の委任統治領だったサイパン島で生活していた14歳の少女、砂糖多津さんのドキュメント手記。
アメリカ軍の占領支配後に父母は殺され少女は捕虜となった(半ば救済かも)。同時期、このサイパン島からB-29の本土空襲が激しくなる。
東京大空襲などで戦火が市民に及ぶ。追い詰められた日本軍は、人間を兵器にした戦闘機の体当たり「特攻」や帰路不能な「人間魚雷・回天」など
無謀な作戦へ踏み出す。その犠牲となった若者たちが思いを書き残した日記録や集団疎開で残した小学生日記は貴重な資料だ。
多くの若者や市民の命を奪ったのは誰か! 戦後、数々の事象検証で天皇制憲法と日本軍、政府の横暴な無策行為が招いたことは明明白白だ。
改めてサイパンはマリアナ諸島の中で日本軍の要島だった。
サイパン島の戦いとは?|NHK戦争を伝えるミュージアム 太平洋戦争をわかりやすく|NHK戦争証言アーカイブス
下記アドレスで過去の「新ドキュメント太平洋戦争」のYouTube動画が見られる。
[NHKスペシャル] 当時の日記や手記から太平洋戦争を追体験する | 新・ドキュメント太平洋戦争1941 開戦 | NHK (youtube.com)
過去にJCOM日本映画Chで「戦争と人間」(監督:山本薩夫)や「日本で一番ながい日」(原作:半藤一利)からも知識を得る。
娯楽映画ながら史実に基づく皇軍、日本軍と抵抗した人たちの弾圧も描かれている。この二本は8月15日前に終戦特集番組としてNHK-BSで放送して欲しい映画だ。
8月22日 Y. T(放送を語る会・大阪)
特集ドラマ「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」 NHK-GTV:8月15日放送
山村恵一さんの投稿(8/16)を読ませていただきました。
その時々のシーンが思い出されました。
この時期の「特集」というと少しばかり見る方が身構えてしまうタ
「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」というタイトルはや
ドラマを見ているうちに引き込まれ、最後まで見ていました。
木村多江さん演じるお母さん、子供に怪我をした田中さんへお手伝
祭が終わったのに自治会の人たちがなかなか解散せず田中さんが家
「ご機嫌なとこ すみませんねぇ!もう遅いので ここ空けて下さい!田中さん おけがされてますし 家に入れなくて困ってます はい お開き お開き!」と凛とした姿勢で自然に対応していて好感が持てました
このお母さんの影響が大きいのかなぁ。
このドラマ、田中さんと同じように戦争を話すきっかけに、あるい
8月21日毎日新聞朝刊の、質問コーナー「なるほどり」で戦没者
戦争をおこさないためにも、戦争を語り記憶を風化させないことは
このドラマもそのきっかけになればいいなと思います。
8月18日 福井いく代(放送を語る会・大阪)
特集ドラマ「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」 NHK-GTV:8月15日放送
最初は小学生と田中さんという老人の話かと思っていたが、田中さん
戦争中は《お国の為》と教育され、戦後は全く違う教
又、物事の本質を見
このドラマはサラッと進められていましたが、戦争を考えるにはとても良いドラマだと思いました。
8月16日 山村惠一(放送を語る会・大阪)
特集ドラマ「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」 NHKGTV:8月15日放送
戦闘シーンもなく、声高に「反戦」を叫ぶこともないが、意識していないと簡単に「平和」が壊されてしまうことを考える特集ドラマでした。「いまが一番幸せ」という戦争体験者の神社の管理人(田中さん)と大きなギャップがある世代の少年たちの交流から、戦中、戦後、その次、そして、今の子供世代の心情を揺さぶる「戦後79年の日」にふさわしいものでした。とくに田中さん役の岸部一徳さんの穏やかな演技が素晴らしい。
6年生の少年が遊び場にしている地元の神社守(田中さん)は、「お地蔵さん」(おじいさん)のようで得体が知れず気味悪いものだった。少年から借りた「スケボ」で転んで田中さんは右手を骨折。少年たちは田中さんの身の回りのフォローに通うようになる。
ひとり暮らしの田中さんには少年たちの訪問が待ち遠しく嬉しく、一方、当初身構えていた少年たちも田中さんの優しさに触れ次第に気持ちがほぐれて、田中さんが「どうしてひとりなのか」に関心を示すようになる。重い口を開いた田中さんは、父も兄も戦死して、この地の空襲で母と妹を亡くし、少年たちと同じ年頃で天涯孤独となったこと淡々と語りかけた。
祭りの日、氏子(戦後とその次の世代か)たちの田中さんに対する振る舞いを目にして、怒りを覚えた少年は、田中さんを「語り部」として、その戦争体験を全校生徒と親たちと地元の人に聞いてもらうことを企画、実行する。
田中さんは、国中が戦争遂行の熱情につつまれ、父や兄の出征に「ばんざーい」を叫び、二人の戦死の報に仇打ちをと考える軍国少年であったこと、
空襲で自らは足に大やけどを負いながら生き延びたが、母と妹は還らぬひととなり、その後、周りの人の助けを受けながら今まで生きてきたことを語りかけた。ちょっと意地が悪い(そうではないが)質問に、戦争中は何も知らされず知ろうともしないで軍国少年になってしまったこと。そして、戦後、誰もが「なかったことに」にと考えてしまったこと。周りに流されずに自分の頭で考え行動することの大事さ。いまは「平和」が好きで戦争はやってはいけないと、その思いを熱く語る田中さんであった。質問に導かれるように心の奥底にしまい込んでいた田中さんの思いが吐き出された瞬間で、思わず上手い演出だと感じた。 最後に1年生からの質問「一番好きな食べ物は?」に、田中さんは迷わず「チョコバナナ」と応える。祭りで疎外されていたとき、少年が買ってくれて並んで食べたもので、そのキラキラで柔らかく甘い食べ物に、亡くなった妹のことに思いを馳せながら、少年との深い絆、「友達」を感じる田中さんであった。それは少年もおなじ思いであった。緊張のあとにホッとさせてもらったシーンでした。
だれも戦争の責任を総括していない、誰かが始めた戦争に「一億総火の玉」と熱狂し、敗戦後は一転して「一億総懺悔」に豹変したことに、田中さんは自分の頭で考えることが忘れてはならない大事なことだとも語った。
現在もウクライナやガザなどで殺戮が止まない。周辺危機事態を理由に国会審議も経ずに核による核抑止力を容認し、軍事費の大幅拡大に突き進み、またもや国民に情報が隠されているいま、いつの間にか「戦前」に戻ってしまうことに警鐘を鳴らすドラマでもあった。
私事になりますが、1945年3月の大阪大空襲の焼夷弾で私の姉は母親の胸で犠牲となりました。母親はこのことを亡くなるまで話すことはありませんでした。ただ、「また戦争になれば、私はその前に死ぬ」と。その哀しみの思いがいまも心に残っています。
8月15日 山村惠一(放送を語る会・大阪)
・長崎スペシャル(NHK長崎)「こども放送合唱団”わかば唱歌隊”~平和をつなぐ歌声~」
戦時中から「音楽は楽しい場所で」との信念を曲げず、今も平和につながる種を蒔いた一人の指導者を追いかけたいいドキュメンタリでした。
丸坊主とおかっぱの子供たちがなにやら楽しそう。1944年にNHK長崎放送局で撮られたこども放送合唱団”わかば唱歌隊”の写真です。唱歌隊は当時ラジオで歌声を放送していて、その指導をしていたのが合唱団員にいた姉妹のお父さんでもある岡山先生でした。当時、「勇ましい先生」の中で、岡山先生は「軟弱な先生」と称されたが、子供たちに軍歌や戦争のうたを歌わせることはなく、子供たちは戦争の雰囲気を感じることがなかったそうです。岡山先生の音楽を介して平和な世界にと、教育は技術ではなく信念であるとその軸はぶれなかったが、長崎の爆心地近くの学校で被曝した岡山先生が、その後、故郷の福島・三春に帰られた際、すでに疎開していた姉妹は、亡くなったと思っていたお父さんの姿に驚いたそうである。先生はその後、東北各地の校歌の作曲を手掛けながら、合唱の指導を続けられた。音楽を介して平和にとの信念は変わらず、教え子たちは異口同音に”先生との出会いは私を平和にしてくれた。歌っていると皆が幸せだった”とその教えが息づいている。娘の姉妹が”わかば唱歌隊”の団の唄を再現し、現在の長崎放送合唱団の子供たちが歌う(♬~わかば わかば わかばのこどもは ほらねほらね かわいいいお声でしょ~♬)、先生の信念とその種がいまも平和の花を咲かせ続けていることに希望を見る思いがしました。戦争体験者が減り手掛かりが細くなる中、情報を丁寧に拾いあげ「戦争」と「平和」をつないでいこうとするディレクター(金澤さん)にありがとうです。
8月21日 K. F(放送を語る会・大阪)
人間魚雷「回天」の基地・大津島を伝える二番組
8月14日、海の特攻『回天』の基地・大津島を紹介する二つの番組を視聴した。
①読売テレビ 【かんさい情報ネット ten.】《Let's GO!若一調査隊》山口SP「大津島・人間魚雷・回天の戦跡・若者たち・命懸けの出撃」
②NHK-Eテレ《戦争遺産島》「大津島・特攻兵器の訓練基地となった島」
◆大津島(おおづしま)
真っ青な海に囲まれた山口県・大津島。
その青い海と今も残る回天出撃桟橋などの戦争遺跡、時が止まったような印象を受けた。
敵の目に触れない孤島、魚雷試験場があった大津島が回天訓練基地(全国に4つの回天基地)になった。
大津島にある記念館の前に実物大の「回天」が展示されている。
全長・14.75m、直径・1mの回天は別名『鉄の棺桶』と呼ばれる真っ黒な船体。
大津島には、特攻魚雷・回天:43隻、特攻船・震洋:9隻があったという。
◆徹底した極秘作戦
志願に応じた若者にも知らされず、訓練の中でその任務を知ることになる。
島の住民との接触も許されず、出撃前の帰宅時でも口外禁止。
住民との間を隔てる高く分厚いコンクリート壁が今も残っている。
桟橋への長い運搬用トンネル工事を担ったのも、まだ少年と言っていいような若者たち。
十分な重機もなく、ほとんど人力による作業だったと容易に想像できる。
兵舎も急造のバラック宿舎だったという。
島の大人たちは湾内を走り回る魚雷をみて『あれは人が乗っている』と見抜いていた。
◆無謀な特攻作戦
回天は潜水艦により運ばれ、目標の敵艦近くで切り離される。
潜望鏡は極力使わず、コンパスと時計だけで潜航・航行し敵艦に体当たりする「人間魚雷」。
湾内での訓練でさえ死と隣り合わせで、15人が死亡したという。
事故で湾内に沈んだ回天の中で、性能の改善点をメモ書きにして残した兵士もいた。
回天開発者の一人でもあったこの兵士は、酸素が尽きるまでの時間、死の恐怖と闘いながらである。
1944年11月から出撃が開始される。
この作戦により搭乗員:106人死亡、整備員なども含めると145人が死亡。
死亡した搭乗員は17歳から28歳、平均21歳だった。
アメリカ側の統計資料では、撃沈3隻・大破小破数隻 成功率は2~3%。
◆若者に思いを馳せて
①出撃桟橋で声を詰まらせる若一案内人・コメンテーター
『この齢になって思うのは・・(絶句)・・若者の輝き、可能性を実感できる。こういう状況にした大人たちに責任を取ってほしかった』
②ナレーション
『戦争が無ければ全く違った未来が待っていたはずの若者たち・・・若者たちの壮絶な日々と命の尊さを語りかけている。』
劣勢が明らかになっていた終戦一年前の無謀な特攻作戦。
《戦争を始めたこと》そして《戦争を終わらせなかったこと》、二つの大きな過ちを犯し、そして誰も責任を取らない。
その歴史にも学ぼうとせず、「軍備」だけを唱える風潮に深刻な危うさを感じる。
8月14日 五十嵐吉美(青森)
・NHK朝ドラ「虎に翼」 8月14日放送
毎日楽しみにしているが、第20週は、8月の被爆79年を迎えた
1954年の第5福竜丸事件が社会問題になっていた時、判事とし
5名の原告の略歴を
番組ではこの裁判の争点はと、具体的に5つを指摘。
国際法違反、
知られていない「原爆裁判」
9月1日 服部邦彦(放送を語る会・大阪)
ETV特集「隔離と戦禍~沖縄ハンセン病患者の受難」 Eテレ 8/10放送
1995年、戦後50年の節目に除幕した沖縄の「平和の礎(いしじ)」。
国籍や軍人、民間人の区別なく沖縄戦などで亡くなった20万人以上の名が刻まれた。そこに完成から10年近くたってようやく追加で名前を刻まれた人々がいる。沖縄戦のさなかに命を落としたハンセン病の患者たちだ。
ハンセン病…かつて癩(らい)病と呼ばれていたハンセン病は,らい菌によって末梢神経がおかされる感染症。
自然治癒する人もいたが重症化すると、顔や手足の変形を引き起こすことがある。特効薬がなかった戦前は不治の病とされ隔離政策がとられた。
ハンセン病は熱帯や亜熱帯地域で多発する傾向があり戦前の沖縄は本土に比べて 格段に患者が多かった。
沖縄には2つの国立ハンセン病療養所がある。宮古島にある南静園と沖縄本島北部にある愛楽園。
2つの施設はハンセン病を根絶する「無らい県運動」の拠点とされた。
沖縄本島・愛楽園287人。宮古島・南静園110人。沖縄にある2つのハンセン病療養所で強制隔離されていた入所者のうち、戦時中に命を落とした数だ。
近年、回復者たちが口を開きはじめ、研究者が録音した200時間の証言テープも見つかった。死因の大半が日本軍の隔離政策により地域社会から見捨てられ、治療も食料もない自然壕での自活を強いられたことにより命を落としていたのだ。ハンセン病が多発する沖縄では隔離収容が追いつかず多くの患者が地域社会にとどまっていた。奥座敷や屋根裏、家畜小屋 などで治療も受けられないまま暮らしていた。患者が見つかるとその家族まで差別の対象になった。
沖縄でのハンセン病患者の隔離政策が加速するきっかけとなったのが1941年に始まった太平洋戦争だった。戦局が悪化する中1944年沖縄に第32軍が創設された。およそ10万の兵力を集め民家や学校、公民館などを接収。将兵と住民が生活空間を共有するようになる。
癩(らい)菌の感染力は弱く感染しても簡単には発病しない。しかし当時の日本軍は将兵に感染が広がることを恐れていた。1944年5月 軍による患者の隔離収容が始まった。1945年に入るとアメリカ軍は宮古島に激しい空襲を繰り返した。南静園の外壁には 今も銃弾の痕跡が残っている。繰り返される空襲の中で職員たちは患者を置いて園から逃げ出した。職員がいなくなった南静園に入り込んできたのは日本軍の部隊。海岸沿いにある南静園を軍の防衛
線に組み込むためだ。日本軍に立ち退きを命じられた南静園の患者たちは海岸沿いの雑木林や自然壕に逃げ込むしかなかった。南静園を追われ戦火のもとに放り出されたのは大人だけではなかった。子供たちの悲惨な状況を目の当たりにしたとの入所者の証言が残っている。
南静園の自治会によると1945年の1年間で入所者の3分の1にあたる110人が亡くなった。
沖縄本島北部の愛楽園。1944年10月以降 度々激しい空襲を受け納骨堂や火葬場などを除きほとんどの建物が破壊された。
第32軍が創設されたのと同じ頃、沖縄本島北部の療養所愛楽園に新たな園長が着任した。ハンセン病に詳しい医師早田 皓。沖縄本島に600人の在宅患者がいるという情報を得ていた早田は、本島だけでも「無癩(らい)の島にしたい」…という意欲を持っていた。
ハンセン病を恐れる第32軍は在宅患者のあぶり出しと隔離に乗り出す。愛楽園では早田壕を掘りアメリカ軍の空襲に備えていた。愛楽園には早田壕があったため入所者は空襲による被害を免れることができた。
ところが1945年に入ると園の日誌に 記された死者の数は増え続けていく。前年の大量収容で重症患者が増えたことに加え食料や医療体制の不足が拍車をかけた。 田壕に入りきれなかった人は近くの自然壕に逃げるしかなかった。
1945年6月23日、およそ3か月に及んだ 沖縄での組織的戦闘が終了した。
愛楽園ではアメリカ軍の攻撃と上陸作戦による大きな人的被害はなかったにもかかわらず大量収容が本格化した44年9月から1年余りで 入所者の3割にあたる289人が亡くなった。遺骨は戦後生き残った入所者たちが集め 園内の納骨堂に納めた。
沖縄は戦後、日本から切り離されアメリカの施政権下に置かれたが2つのハンセン病療養所は再建され維持された。
日本本土に準じて沖縄で制定されたのが「ハンセン氏病予防法」。本土とは違い軽度となった患者は療養所を出ることが認められた。しかし公衆と接触の多い場所への出入りは禁じられ,社会会に根強く残る偏見を払拭するには至らなかった。
1996年 制隔離を定めた「らい予防法」が廃止された。これを機に全国の元患者が 国の責任を明らかにするため国家賠償請求訴訟を起こす。
その原告には多くの沖縄の元患者が名を連ねていた。
2001年熊本地裁は「らい予防法は憲法違反」だとして政府の法的責任を認める判決を言い渡した。
元患者たちへの聞き取り調査が 始まったのは翌年の2002年だった。
近年、回復者たちが口を開きはじめ、研究者が録音した200時間の証言テープも見つかった。
かつて兄弟で南静園に入所していた与那覇次郎さんのつらい体験も語られた。
戦後、長きに亘って過去を封印してきた回復者のひとり、上里 栄さん(89歳)は聞き取り調査に応じたあと小中学校をまわり、語り部となって人前で自身の体験をを伝えようと奔走している。
今年6月、愛楽園の神谷幸一さんが亡くなった。98歳。療養所の生活は80年近くに及んでいた。
神谷さんが 大切にしていたものがある。 自分で書き写した憲法第十三条だ。
「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法 その他の国政の上で 最大の尊重を必要とする」。
番組では、専門家による調査・記録と患者たちの証言テープを軸に“戦争とハンセン病”の実相に迫るとともに、収容所で生活した元患者さんたちの取り組みを取材した。
戦後79年 「戦争と平和」及び,沖縄の問題を考えるにふさわしい番組だった。
自公政権が沖縄・辺野古の新基地建設、憲法改悪の動きを強める中で、沖縄の負担軽減、憲法を守ることの重要性を改めて痛感した。
8月26日 小滝一志(放送を語る会)
生存者の証言、聞き取り調査の録音テープで綴る
~ ETV特集「隔離と戦禍~沖縄ハンセン病患者の受難」~ 8/10放送
1931年制定された「らい予防法」に基づき開設された沖縄の二つの国立療養所「国頭愛楽園(現沖縄愛楽園)」「宮古保養院(現宮古南静園)」入所者の受難の記録である。
それまでも隔離政策によってハンセン病患者は強制収容されていたが、1944年5月、軍人の愛楽園2代目園長により在宅患者の炙り出し、軍による患者の隔離収容が開始され、収容者は定員の倍の900人以上になった。南静園では、職員が入所者を置いて逃げ出してしまい、退所を命じられた入所者は、近くの自然壕などに避難するよりなかったという。乏しい食料・医療体制の下で、高齢者や子どもが次々と亡くなり、一日に5人も6人も砂浜に埋葬したと録音テープに記録されている。南静園では太平洋戦争末期1945年1年間で入所者の1/3にあたる110人が亡くなった。
番組の後半は、戦後、特効薬プロミンを服用して劇的に回復した上里栄さんが、社会復帰は果たしたが偏見と差別のなかで送った過酷な人生をたどる。入所者だったことを最後まで明かさなかったこと、小中学生に辛い体験を伝える語り部になったのは、1996年の「らい予防法」廃止、2001年の熊本地裁の違憲判決以後だったこと、亡くなった入所者が当初は平和の礎に刻銘されなかったこと等。
番組の最後で語る入所者の言葉、
「次に生まれる時には、子どもがいて、そういう平凡な家庭を望むよ。人間らしい暮しを」
が胸を打つ。
そして視聴者は気づかされる。入所者の過酷な人生は、戦禍だけがもたらしたのではなく、背後に社会の偏見と差別が根深くあったことを。
番組制作のきっかけは、担当ディレクターが1年前の夏休みに宮古島を訪れ、南静園の資料室に行ったことだったと聞く。番組で紹介されている資料は、2001年熊本地裁の違憲判決後開始された入所者の聞き取り調査の録音テープと「沖縄県ハンセン病患者証言集」で新しく発掘された資料ではないが、埋もれかけた資料に光を当て戦争体験を次世代に継承していくことは「8月のジャーナリズム」の大切な役割だと思う。
8月12日 アーチャン(放送を語る会・大阪)
・報道特集 戦後79年 「戦争と子供たち」 TBS 2024年8月10日(土) 18:00~18:50
終戦特集として、戦時に大人たちがどのように軍国少年を作り上げていったのかを取材していた。
開始早々、小学校の朝礼か?生徒を前に校長の言葉が『戦争に勝った方がいいと思うものは手を挙げ!』に全生徒が勇んで揃いの挙手。映画の中では教師がアメリカ軍の戦闘機の音を流し、生徒に機種を当てさせ、教科書を開くと、まず忠君愛国の精神を強調する教育勅語が載せられている。教育に留まらず娯楽にも-「少年倶楽部」の雑誌には手りゅう弾の構造や、投げ方が詳述。ただただ戦意高揚をめざし、子供を戦争の道具へ育てていた。
教育だけでなく、「護郷隊」というふるさとを守るために少年部隊が結成されていた。10代の少年たちは奇襲攻撃を専門にゲリラ戦を展開、今も沖縄に蛸壺壕と呼ばれた残壕がある。ゲリラ戦で命を落とした少年は160人、中には負傷して戦えないという理由で上官に殺された少年兵もいた。実働部隊として過酷な経験をした少年は、戦後も戦争状態と錯誤、PTSDの精神疾患で村を荒らしまわり、自宅の座敷牢に閉じ込められたという。その少年は現在95歳、幼くして受けた心の傷は未だに癒えないとか。
終戦を迎え軍国主義は否定-民主主義が普及する中、当時16歳だった元女子通信隊の女性は戦争に加担したという罪悪感から戦後何十年も当時の話をすることが出来なかった。しかし、学校の先生になったとき幼い子供たちの姿を見て、後に語り部の活動を始めたという。これも教育の場が切っ掛けだったことが、ちょと救われる思い。それでも先ごろ、「そこまで言って委員会」の番組で教育勅語礼賛している大学講師が、発刊した教科書が検定合格したと自画自賛していた。政権は憲法改正や軍事予算拡大に留まらず、軍国主義への道を再び子供へ準備しつつある。
視聴を終えて、メディアの葛藤を感じながら一刻も早い世界平和の方向転換を願う思いだった。
8月16日 小滝一志(放送を語る会)
改めて被爆の惨状を知る ~8/6放送NHKスペシャル「原爆 いのちの塔」を視て~ 8月6日放送
爆心地から1.5㎞の所にあったが倒壊を免れ、当時1万人の被爆者が押し寄せ、地元の人々が「いのちの塔」と呼んだ広島赤十字病院の記録だ。
自身も被爆して重症を負いながら治療を指揮した竹内釼院長の手帳、601人の病床日誌、生き残った二人の看護学生の生々しい証言などを基に再現シーンも織り込みながら、放射能による原爆症の痛ましい惨状、半数近くの重症・死亡者を出しながら献身的治療に携わった医療従事者の活動など、当時の院内の日々が記録されている。
当時陸軍の管轄下に置かれ、戦争末期の医療従事者不足で動員されていた十代の護学生の中で生き残った二人の証言がリアルで貴重だ。
被爆当時、多くの人々が治療を求めて病院に押し寄せたと言われるが、そのうち601人分の病床日誌が残されていて、まだよくわからなかった原爆症の症状が詳細に記録されており、「あの混乱の中でよくぞ残した」と医療従事者の緻密さ、誠実さに頭が下がる。
番組の末尾、竹内病院長が突然辞表を提出して退職する。それは支援を期待し病院の施設まで提供して協力した米国ABCC(原爆障害調査委員会)の「治療よりも調査・研究を優先する」姿勢への抗議と受け取った。番組末尾にこのエピソードが挿入されていることは、ABCCの方針に対する番組制作者の批判も込められていると考えるのは筆者の思い込みか。
この番組のナレーションは杉浦圭子アナである。被爆2世の杉浦さんだが「被爆40年の夏、初めて原爆・平和関連の番組を担当、学びが始まったのはそこから」と語り、父の被爆体験を聞き直し追体験した末に、「原爆を含めた被害だけでなく、日本の加害の歴史が見つめることが必要です」と言い切る(8/7朝日新聞「被爆国から2024紛争続く世界へ」)。番組が見る側だけでなく作る側をも鍛え、成長を促すことを改めて知らされる。
戦争と平和を取り上げる番組が集中する「8月のジャーナリズム」については、「加害の歴史に目が向いていない」との批判が以前からあり、佐藤卓己上智大教授(専門はメディア史、大衆文化論)は、日本が降伏文書に調印した9月2日に焦点を当て、戦争責任や加害の事実に目を向け、諸外国と歴史的対話する「9月のジャーナリズム」を提唱している(7/27 朝日新聞「オピニオン&フォーラム」)。こうした意見にも耳を傾けながら、今後の「8月のジャーナリズム」を見守りたい。
8月7日 放送を語る会・大阪 K.O(和歌山)
NHKスペシャル GTV:8月6日午後10:00~10:49
「原爆 いのちの塔」番組モニター感想
8/6(火)22時からのNHKスペシャル「原爆 いのちの塔」は見応えありましたね。
原爆の恐ろしさ、悲惨さは今までにも数多く報道されているが、
貴重な日赤病院病床日誌には当初、
アメリカはマンハッタン計画から広島を実験都市として扱っている
8/6が終わると潮が引くみたいに原爆報道はしぼんでいく。8/
朝8時から広島平和式典がNHK中継された。その中で、
「平和記念資料館を見学し被爆者の言葉に触れてください。
●5分のダイジェスト版は下記に。
本編のNスぺ「原爆 いのちの塔」再放送予定は8/14(水)午前2時23分から。(
[NHKスペシャル] 見つかった601人の病床日誌が語る原爆医療の実態 | 原爆 いのちの塔 | NHK (youtube.com)
●NHK広島局の担当CPが語る
NHKスペシャル「原爆いのちの塔」、チーフPが語る思い(TV
8月28日 楠本宏(放送を語る会・大阪)
ETV特集 戦艦大和封印された写真 8月3日 23時~
若い水兵13名の写真から、この番組が作られている。戦艦大和を取材していた新聞記者が元大和乗組員の水谷さんから写真を見せられた。
番組前半は13名の名前が書かれた写真から親族・知り合いを探す過程が刑事ドラマを見ているように進んでいく。13名中5名は親族など連絡
が取れたが、8名は連絡が取れなかった。
番組後半では戦後海軍反省会の録音から終戦後大和をアメリカに渡したくない、一億総特攻と言われ人命を消耗品のように考える中、大和を沖縄に出撃させることが決定される。3332人を乗せ海上特攻に出撃し撃沈され3056人が戦死した。
戦争について勝っても負けても意味がない、二度と繰り返さない、など戦争はしてはダメという事が戦争経験者・親族からいわれていました。元大和乗組員の水谷さんは孫に「おじいちゃん・おばあちゃんのせんそうたいけん」で「へいわをねがって」と戦争体験の手記を話しています。
番組を見て戦争をする愚かさ、人命を消耗品とした当時の軍部の考え方に、なんともいえない気持ちになった。二度と戦争をさせてはいけないと思う。
8月 9日 五十嵐吉美(青森)
・ETV特集「戦艦大和 封印された写真」 E テレ:8月3日(土)放送
この番組は広島・呉に配属されてから30年来取材を続けてきた元
「
渡辺さんは、取材する中で海上特高作戦を前に、命令で戦艦大和を降
そこに若々しい笑顔で
13人のうち5人のことが取材でわかり、紹介されています。写真
戦後生まれが87%。私も戦争を知らない。「戦艦大和」のことは
この番組によって1933年計画・建造時点から秘密
番組では、なぜ無謀な海上特高作戦を命じたのか、録音された海軍
水谷さんが「戦艦大和」の最期を知るのは数日後、東京の経理学校
私は今後、なぜ戦後も封印しなければならなかったのか、について
8月8日 放送を語る会・大阪 山村惠一
・ETV特集 「戦艦大和 封印された写真」 E テレ:8月3日(土)午後11:00~
番組タイトルから軍事機密に関わる重要なものだろうかと考えていた。その写真は、「大和」の乗組員の食事を賄う、13人の水兵たちの集合写真で肩を組み笑顔もみせている穏やかなものであった。モノクロだが、試合前にピッチで撮るプレーヤーと同じものを感じた。ただ、みんな同じ水兵服と着帽なが、戦争の匂いを感じさせる「写真」であった。撮影されたのは、1944年インドネシア・リンガ諸島に停泊中の「大和」艦内で、上官の目がない時間帯に撮られたようである。アルバムには四班交代勤務だったのか「大和四直員」とし、「兵員烹水炊所ニテ」とあり、水兵13人の名前とともに記されている。
この写真を持ち帰り保管していたのは、あの絶望的な海上特攻を前に転属移動命令をうけ大和を下船した笑顔の水兵(2008年に死去)であった。大和戦没者名簿によると写真の内の3名と撮影したカメラマンは戦死、残りの水兵たちは消息不明で、彼らは「写真」とともに海洋の底に沈んだと思われる。「写真」を残していた水兵の遺族(実弟)は、子供のころに一度、見せてもらったことがあるが、この写真は門外不出として、兄は戦争のことは一切語らず、笑う顔も見た記憶もないそうである。ただ、後に孫にだけ、「大和」ことを語っていて、その孫の作文の最後には、トラック島の海の美しさに続けて兄の言葉として「平和を願って」と残されている。
既に時代から遅れていた大鑑巨砲主義の「武蔵」「大和」であったが、戦況の悪化に「勝てないけど終わらせることもできない」日本の上層部が兵士の命も戦艦も消耗品として「一億総特攻」にでたことに怒りを抑えきれない。79年前のこととしてはならない。ウクライナに侵略したロシア・プーチンもそうである。戦争体験者が少なくなり限りある時間のなか、この封印された「写真」を掘り起こし、いまも取材を続ける元大手新聞社の記者や、番組を制作したNHKディレクターの調査取材の取り組みに、戦争の愚かさと「平和」への思いを繋げていく役割を見せてもらった番組であった。
8月6日 広島平和記念式典の日の放送について 放送を語る会・大阪 山村惠一
8月6日(火)午前8時から広島市で平和記念式典が行われた。NHKは式典を生中継で放送したが、民放各局(大阪)は中継もなく、その時間帯の民放局は、MBS(TBS系)はバラエティ「ラヴィット」でタレントのゲームを、朝日テレビ(テレビ朝日系)は「羽鳥モーニングショー」で株暴落とオリンピックの体操、カンテレ(フジテレビ系)も「めざまし8」で男子バレーボール、読売テレビは「す・またんZIP」で卓球などオリンピックの速報に終始していた。朝日新聞の朝刊(8/6)ラ・テ欄には、NHKはGTV・R1で「記念式典中継」と(8:00~)「おはよう日本」、「ニュース7」、「ニュースウオッチ9」それぞれで「広島・原爆」関連の項目があり、NHKスペシャル「原爆・いのちの塔」(午後10:00~)がある。ETVでもオリンピック枠が多く見られ、民放は、オリンピック競技中継に情報ワイド番組でもメダル獲得か?否か?に終始している。そんななか、ABCテレビは「大下容子ワイド!」で▽広島で「原爆の日」、「報道ステーション」で▽“模擬原爆”の実相、の項目がラ・テ欄に見られる。他の民放には「ヒロシマ・原爆・平和」の文言は無い。
もちろん各局とも、ニュース番組の中で「ヒロシマ・原爆・平和」が報道されることになるが、もともと、今年の放送がオリンピック一色になることの懸念があり、さらに史上最大の株価暴落も重なったが、「ヒロシマ」「原爆」「平和」がこうまで薄くなっているのかと愕然としている。
オリンピック休戦も叶わず、ウクライナやガザでの破壊や虐殺が止められない。さらに、核兵器が使用される恐れも高まっている、いまこそ、「平和」を考えさせてくれる放送をとねがうものである。
8月9日 長崎平和祈念式典の日の新聞ラ・テ欄
9日朝刊(朝日・大阪)のラ・テ欄を開いたが、NHKはGTV・R1で祈念式典生中継(10:45~)とニュース枠(おはよう日本、ニュース7、ニュースウオッチ9)で「長崎から平和の祈り」などの項目が紹介されている。民放では唯一、ABÇの「報道ステーション」で▽大使欠席の原爆式典”長崎の声”現地取材の項目のみ掲載されている。NHKも民放もラ・テ欄はオリンピック関連が占めていて、ニュース枠には前日の「南海トラフ臨時情報」が多く見られる。
8月15日 79回目の終戦の日のラ・テ欄から
NHKは全国戦没者追悼式の中継(日本武道館)、おはよう日本、ニュースウオッチ9で「終戦の日」を伝える。GTV午後7:30~NHKスぺシャルシリーズ新太平洋戦争”日記手記で1944年描く”が放送される。GTV午後9:00~特集ドラマもタイトルは”昔はおれと同い年だった田中さんとの友情「戦争って、ほんまにあったんやな」” も放送される。民放は、テレビ朝日の報道ステーションで▽79回目の終戦の日 風船爆弾の”新事実”の項目があり、関西テレビ(フジ系列)で▽八尾に残る戦争遺跡 特攻隊員が滞在した宿(関西エリアのみ放送?)項目 が見られる。その他の局は「戦争」「平和」などの表記はない。前日に岸田総裁の「不出馬」があったとはいえ、戦争を伝える熱が薄くなってきていると感じるのは私だけだろうか?
以下に「終戦特集番組」の情報を随時掲載して行きます。
(転載:NHKホームページより)
・日曜美術館 香月泰男のシベリアシリーズ Eテレ:7月28日(日)午前9:00~9:45
シベリア抑留を中心に自らの過酷な戦争体験を、57点もの絵に描いた香月泰男の『シベリア・シリーズ』。象徴化された作品を、絵に添えた香月の言葉を朗読しながら味わう
・戦争遺産島
Eテレ:午後10:30~(時間変更の場合あり)
日本の離島に姿を残す戦跡に空から迫った「戦争遺産島」。戦火の悲劇を克明に描く
7月31日(水) 奄美大島・加計呂麻島 200を超える戦争遺産が残る島
8月7日(水) 似島 1万人の被爆者が運び込まれた島
8月14日(水) 大津島 特攻兵器の訓練基地となった島
8月21日(水) 猿島 東京湾の要塞島
・ハートネットTV #ろうなん「8月号 手話で語り継ぐ ろう者・難聴者と戦争」 ①Eテレ:8月14日午後8:00~
ろう者、難聴者はどんな思いで戦争を生き抜いたのか。戦争は、差別・偏見を一層増長させ虐げられた。中には、”産業戦士”として軍需工場で働き誉れに感じたろう者もいたが・・・。
・ETV特集
「戦艦大和 封印された写真」
E テレ:8月3日(土)午後11:00~
日本海軍の最高機密だった大和は、多くの資料が処分され、艦内写真は極めてまれだ。写真は、乗組員の1人が「門外不出」と封印して残していた。分析を重ねると、撮影場所は烹炊所(調理場)。非公式なスナップ写真で、うち3人が大和と最後をともにしたことなどがわかってきた。
「昭和天皇 秘められた戦争工作」
E テレ:8月17日 (土)午後11:00~
終戦2ケ月前の御前懇談会で戦争終結の「聖断」が下された。番組では、当時の内大臣木戸幸一が戦後語った録音をもとに、知られざる終戦工作の内幕と、米ソの国際戦略を読み切れなかったとうじのにほん外交に迫る。
「弁護士たちのBC級戦犯資料 ~米・新史料が語る真実~」
Eテレ:8月24日(土)午後11:00~
BC級戦犯が裁かれた横浜軍事法廷。いま神奈川県弁護士会は裁判の再検証にあたり、当時、米軍法務部が作成した「再審査記録」に注目。記録をもとに、法の公正を守ろうとした日本人弁護士たちのBC級裁判を描く
「見捨てられた人々 ~沖縄ハンセン病患者の戦争~」
E テレ:8月30日 (土)午後11:50~
沖縄にある2つのハンセン病療養所で戦争中に多くが命を落とした。近年、回復者が口を開きはじめて証言テープも見つかった。死因のほとんどが米軍の攻撃でなく、地域社会から見捨てられ、治療も食料もない自然壕で自活を強いられて命を落としていた。
・NHKスペシャル GTV:8月6日午後10:00~10:49
ヒロシマ・ナガサキ戦争特集番組 2024年夏
「原爆”いのちの塔”~ドキュメント広島赤十字病院~」
被爆後、「命の塔」と呼ばれた広島赤十字病院の竹内院長の手帳。当時の医療記録の内実を知る貴重な資料。
・長崎スペシャル(NHK長崎)放送:8月13日午前4:20~
「こども放送合唱団”わかば唱歌隊”~平和をつなぐ歌声~
・NHKスペシャル 新・ドキュメント
GTV:8月15日午後7:30
「太平洋戦争1944 絶望の空の下で」
太平洋戦争の3年8カ月を追体験するシリーズ。戦局の転換点となった1944年6月のサイパン島での日本軍の「玉砕」。 追い詰められた日本軍の「特攻」作戦。市民が戦争に巻き込まれるとは、どういうことなのか・・・。
・英雄たちの選択
「昭和の選択 敗戦国日本の決断~マッカーサー”直接軍政”の危機~」
BS:8月19日(月)午後9:00~
BSP4K:8月14日(水)午後8:00~
昭和20年8月日本はミズーリ号での降伏文書の調印。そのとき、日本が恐れていた事態に直面した。進駐軍による「直接軍政」の発令がしさされた・・・。
・BSスペシャル 「平和の祭典の陰で~市民が見た戦乱のガザ~」
BS:8月15日午後11:25
パレスチナ自治区ガザでは、市民が「平和の祭典」オリンピックに目を向けることさえできず、爆撃から逃げ続ける。
開戦以来、戦果の暮らしを撮影してきた映像も交え、戦乱の実態を伝える。
・持論公論 GTV:8月15日午後11:15
裁判記録が語る”戦争犯罪”
・NHK特集「そしてトンキーもしんだ 子が父からきく戦争」(1982年放送)
BS4K:8月14日(水)午後6:00~
「空襲が激化する中、住民を保護するため」として、上野動物園で多くの猛獣が毒殺。象のトンキーも。後世に語り継ぐべき戦争秘話を”子が父から聞く童話”で悲劇の真相を探り、戦争の異常状態のもとで人と動物の交流を描く。
(1982年放送時に投稿がありました。 ページ下段へ)
・特集ドラマ GTV:8月15日午後10:00
「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」
スケートボードが大好きの小学6年生の小沢拓人(中須翔真)は、神社の管理人の81歳の田中喜市(岸部一徳)と出会い、田中の部屋で自分と同じくらいの少年が写っている写真を見つけます
・コネクトスペシャル 8月16日午前2:30
いのちのうたフェス2024 広島からいのちと平和を
・NHKスペシャル GTV:16日午後10:00
「グランパの戦争~写真家ブルース・エルカスが見た太平洋戦争」
祖父の撮影した太平洋戦争の激戦地・硫黄島や占領下の日本の写真を発見
・NHKスペシャル GTV:8月17日午後9:00
「”一億特攻”への道~熱狂と暴走のはてに~」
航空機による”特攻”だけでおよそ4000人が戦死。当時の日本人が特攻を”希望”とみなし、熱狂が支配していった実態を徹底調査
・NHKスペシャル GTV:8月18日午後9:00
”殲滅するまで終わらない”~サイパン島の戦い米軍録音記録~
・映像の世紀 バタフライエフェクト GTV:8月26日夜10:00
「太平洋戦争 日米プロパガンダ戦」
嘘と憎しみが激突した太平洋戦争日米プロパガンダ戦(番組予告より)
地域放送局制作の番組
(NHKプラスによる見逃し配信あり)
・原爆の日・生放送特番「ヒロシマを未来へつなぐ 2024」(広島県向け) GTV:午後1:05~6:00
広島局スタジオから生放送。戦争や平和、伝承に関する番組を紹介。被爆者の声とそれをつなぐわかものたちの取り組み、平和への思いを深める
・コネクト(広島・岡山・山口県向け)GTV:8月23日午後7:30~7:55
「それでも、伝え続ける~被曝者・小倉桂子さん1年の記録」
去年5月、G7サミットで各国首脳と面会した小倉桂子さんのその後の1年、桂子さんの抱えた苦悩・・・
戦後79年 戦争と平和を考える
日本テレビ系列 「ドキュメント’24」
・「生かされて~原爆投下79年目の決意」(制作:広島テレビ)
放送:8月4日 深夜1:05~
(再)8月11日(日) 8:00~ BS日テレ
8月11日(日) 5:00~/24:00~ 日テレNEWS24(CSなど)
13歳のとき広島で被爆、生き残った自責の念から「原爆ドームは崩れてしまえばいい」とあの日の体験を遠ざけていた。92歳となったいま、ウクライナ侵攻など世界が再び核兵器の脅威にさらされる中、79年目の決意を見つめる。
・ドキュメント’24
「学生たちの戦争~学徒出陣 ペンを銃にかえられて」(福岡放送)
放送:8月18日 深夜0:55~ 日本テレビ系
「学徒出陣」の元学徒兵(九州帝国大学)が記者に突き付けた「戦争ほどバカなことはない」との一言。この思いは、今の若者たちにどう響くのか。
・「戦争リアル」(山口放送) 放送:8月25日深夜0:55~
「台湾有事」の米中関係を背景に、日本も南西諸島に自衛隊基地を開設し、有事の際住民避難の計画策定にも着手。私たちが活きている今は、本当に「戦後」なのか
・ドキュメント九州「海の墓標」(テレビ長崎制作)
放送:キー局 フジTV未定
九州各放送局 個別放送(曜日・時間が異なる)
終戦後アメリカ軍によって、長崎五島列島沖合に海没処分された旧日本海軍の潜水艦24艦。海に眠る戦争遺構が伝えようとするものとは。
・ANN NEWSCH
「戦場ジャーナリストのエンディングノート」
(配信)Click ☞「命どぅ宝」80代半ばを過ぎた戦場ジャーナリストのエンディングノート 現場や沖縄で取材したベトナム戦争を若者に語り継ぐ【テレメンタリー】 - YouTube
・ANN テレメンタリー2024
「92歳 私の仕事 ~被爆者サーロー節子~」制作:広島ホームテレビ
放送:8月3日(土)早朝4:50分
2017年にノーベル平和賞を受賞したサーロー節子さん(カナダ在住)。92歳になったいまも「声を上げることをやめるわけにいかない」と活動を続ける。
サーローさんの「過去と今」を探る
・ ANNテレメンタリー2024(転載:テレビ朝日HPより)
・TBS 報道特集 終戦特集① 8月10日(土)18:00~
「戦後79年 軍国少年はどう作られ戦争に使われた?」
・TBS 報道特集 終戦特集② 8月17日(土)18:00~
「新たな戦前にどう抗らう」
・TBS『news23』特別企画 8月13日23:00~
“綾瀬はるか『戦争』を聞く”~沈められた民間の船~」
・徹子の部屋 テレ朝:8月15日13:00
広島原爆被害者 田中サヨ子
・NEWSランナー 関西テレビ(フジ系):8月15日午後6:00
特攻隊員の声なき声「戦争に勝てない・・」故郷・大阪・・
NHKラジオ第一
・「ニュースぺこぱxガチモン!~核兵器の現状、広島・長崎を考える~」
R1:8月5日(月)午後8:05~9:55
お笑いコンビ・ぺこパとボーイズグループINI
、広島・長崎で取材する記者らが出演。世界の核兵器の現状をテーマに議論する。
・広島原爆の日ラジオ特集
「母の願い 未来へつなぐタクト~指揮者・山下一史のヒロシマ」
R1:8月6日(火)午前9:05~
指揮者山下一史さんの音楽活動や母の被爆体験、広島との関りをドキュメントと朗読、ドラマでつづる。
・長崎原爆の日ラジオ特集
「食は命なり 87歳の料理研究家・脇山順子の原爆」
R1:8月9日(金)午後4:05~
・「ボイス~戦争体験者からのメッセージ~」
R1:8月12日(月)午後7:25~/
13日(火)~16日(金)午後7:20~
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以下は2023年分の「終戦特集番組」投稿です
◎2023.10.06 今井 潤
マスコミ市民10月号【放送を語る会・談話室】~放送を語る会・大阪ホームページ「終戦番組特集」から~ 平恵數(放送を語る会・大阪)
を読み、高く評価したいと思います
平さんの感想は、NHK・民放の終戦番組特集を総合的に見て書い
和田信賢アナの「大本営発表」で国民を戦争に煽り立て
できるが、アナ個人の葛藤と反省にとどまってい
私がしっかり見たのは「もしも核兵器が使われたら」(8月21日
他にも平さんが書いているように、ドラマやドキュメンタリーに注目
「こころの時代」
『はだしのゲン』と父 翻訳者・坂東弘美
8月20日(日)午前5時~6時 Eテレ
服部邦彦(放送を語る会・大阪)
【番組内容】
「はだしのゲン」は、6歳の時、広島で被爆し家族を失った中沢啓治さんが自らの体験をもとに描いた漫画である。
中沢さんは自分が目の当たりにした 広島の惨状だけでなく軍国主義に覆われた日本社会の問題も鋭く描き出した。
単行本10冊に及ぶ長編漫画 「はだしのゲン」は 現在24の言語に翻訳され世界に広がっている。
番組では、中国語に翻訳した坂東弘美さんへの密着取材を通して、その「思い」や行動、「はだしのゲン」を読むことの意味などを聞いた。
坂東さんはなぜ中国に「はだしのゲン」を届けたいと思ったのか。
その背景には 日中戦争で出征した自分の父親が 現地で行(おこな)ったことを知った衝撃があった。
坂東さんが「はだしのゲン」で最も引き込まれた登場人物は中沢啓治さんの父親がモデルであるゲンの父親・大吉であった。
大吉は 1945年8月6日の原爆で命を落とす前から日本の軍国主義や朝鮮人などへの差別に徹底して反対する姿勢を貫いていた。
坂東さんにとって、ゲンの父の姿は、国家の命ずるまま日中戦争に出征した自分の父親とは真逆の存在に見えた。
坂東さんの父・要三さんは戦地で撮った数多くの写真を自宅に持ち帰っていた。坂東さんは小学生の頃、偶然見たその中の一枚に大きな不安を抱く。
ひょっとして「お父さんは人殺したことあるの?」って 聞いたら、父が黙ってしまい、しばらくしてから「殺さなかったら俺が殺された」。
初めて浮かんだ父への疑念。
しかし、目の前にいる父親は人を殺したことがあるとはどうしても思えない いつも「優しい父親」そのものだった。
坂東さんには、父の戦争体験についての沈黙が心にのしかかり続けていた。
20年以上が過ぎた頃、坂東さんに 父がどんな記憶を抱えてきたか知る機会が訪れた。
73歳になった父が 自分と孫に宛てた手紙で、胸に秘めてきた戦争体験を伝え始めた。父からの手紙は3か月間続き便箋にして343枚にも上った。
そこには中国の戦場で自分は何をしてきたのか娘にも語れず胸に秘めてきた記憶が克明に記されていた。
坂東さんの胸に刺さったのは 父の次のような告白だった。
子どもを抱き締めて、「殺さないで」って言う 泣き叫ぶお母さんの顔。まさか、父が寝首をかかれるといけないので先に殺したんだということを書いていて。更に狙われるといけないから 殺すんだという人間のおぞましさ。どういう顔をして人を殺したんだろう。
日本へ帰ってきて どういう顔をして家族をつくって命を育んでくれたんだっていう… 。私の体って、そういうものでできてるんだなって思った。
殺した人の命から生まれた命ということになる。だからこれは無駄に使っちゃいけない命じゃないかということ。社会へ返すこと。
私が受けたものを社会へ返すこと。父の過去を知ったことで坂東さんはその後の自らの生き方を大きく変えてゆく。
坂東さんが求めた人生の新天地は中国だった。
父・要三さんが亡くなった3年後、1996年に 坂東さんは単身中国に渡る。
坂東さんは 中国の人々の暮らしの中に入り一つ一つ中国語を身につけて行った。
「同じ人間同士つながることはできるのか」。まず本当の言葉で語り合うこと。
日本軍がやったとういう抗日戦争記念館が 中国中にできいる。
いかに日本人が残虐なことをしたかというのが記念館になっていて 生徒たちの重点教育地点になっている。
『私たちが行くことによって交流が初めて生まれて、「あっ、日本人も悪いやつばっかりじゃ ないんだな」っていうふうに、実際に交流することで、戦争の話になると、そういうことは 打ち解けていくような気がした』
坂東さんは、「はだしのゲン」が 広島の被爆のみならず、民族差別や中国への加害の問題について描かれていることに注目し、この本こそが本当の関係を築く道を開くのではないかと考えるようになっていく。
中国語の翻訳を決意した坂東さんに 手を差し伸べたのは 、親族が日本兵による悲惨な体験を持つ職場の仲間 王さんだった。
「はだしのゲン」を通じて戦争の実相をお互いに語り合い、核の問題についても共に考えた。およそ7年をかけた翻訳は2014年に完成。
坂東さんが次に出版社を探す。1年余り後、坂東さんの思いをくみ取ってくれる台湾の出版コーディネーターと出会った。
坂東さんたちが心血を注いだ 中国語の「はだしのゲン」は2016年台湾で出版された。
1巻の表紙となったのは、坂東さんが「はだしのゲン」で 強く惹かれたゲンのお父さんが 特高警察に連行される姿だった。
全10巻の表紙の色の変化には血で染まった焦土と化した広島が時代とともに平和を築く光となってゆく願いが込められていた。
坂東さんは 中沢啓治さんの妻・ミサヨさんと共に中沢さんの墓前に台湾で出版した 「はだしのゲン」を供えた。
墓碑には『人類にとって最高のタカラは平和です はだしのげん 中沢啓二』と刻まれている。「生きてらっしゃる間に 見せたかったね。」
中沢さんの妻は、『主人は「はだしのゲン」に出てる「踏まれても踏まれても麦になれ」ってあるでしょ?あれはね、父親の本当の言葉なんです。
それを思い出して、やっぱり人間愛ですよね。弱い人の味方になってね 頑張れっていう人間愛ですよ。』
文化も歴史も異なる世界の人々に「はだしのゲン」のメッセージはどのように伝わっているのか。
坂東さんは自分のみならず、世界の翻訳者たちがそれぞれどんな思いを抱いて「はだしのゲン」に向き合ってきたのか 映像に記録し若い世代に知ってもらおうと考えた。
翻訳者たちのメッセージを集めた動画サイトを3か月前に立ち上げた。これまでに話を聞いた翻訳者は10人を超える。
坂東さんがぜひ話を聞こうと考えた 翻訳者がいる。浅妻南海江さん。「はだしのゲン」全巻を最初の外国語版としてロシア語に翻訳した人だ。
ソビエト連邦崩壊後、翻訳に取り組んできた浅妻さんはウクライナで新たな戦争が続いている今、何を思うのか。
「ゲンと今後、その世界に望むこと? どういう思いですか?」
『9.11以降 たくさんの戦争が起きてますけれど、結局戦争は駄目だって思っている人たちの向こう側に戦争をしてもお金がもうかったり権力、利権、石油とかそんなものが入ると思ってるような人たちもいるということ。きれいな人たちばっかりで伝えれば分かってくれる---、そんなに やさしいもんでないっていうことが--。ずっとこの間の戦争、きれいごとでは済まない現実を前に「はだしのゲン」はどう伝えるべきか。やっぱり人間の善意を信じてるというか、 そういうようなところも 残していかないと。ゲンの果たす役割というのはあると思う。やっぱり偏見とか 差別とかっていうことは非常に憎しみを生む。 憎しみを生んだら何かの拍子で戦争になったりするもので、そういうことだから、やっぱり相互理解っていうのですかね、お互いに理解し合うということをこれ教育の問題だと思うのですけど。想像力を養ったり人を理解したりするような、そういうような教育が各国できていればいい世界ができると思いますけど。』
そんな中で、坂東さんは 父の形見となった着物をほどき 自分のシャツや帽子に 仕立て直している。なぜそれを身に着けて暮らそうとするのか。
それは父が戦争体験の手紙に添えて送ってきた最後の言葉が自分に突きつけられた課題だと考えているからだ。
今年8月6日。 原爆投下から78年目の夏を迎えた広島。坂東さんは平和記念公園の近くに建つ 一つの碑を訪ねた。「無名戦士之碑」。
名も知れず軍国主義やあらゆる差別に抗い続ける苦難の道を歩み、亡くなっていった人たちなどを追悼する碑だ。
中沢啓治さんが「はだしのゲン」で描いたゲンの父のモデル、中沢さん自身の父・晴美さんもまたそうした人の一人として登録されている。
『ちょっとつらいですね。父は平和運動をして捕まった人でも何でもなくて、戦地へ出かけていった方です。でも父が書き残さなかったら、黙ったまま口をつぐんだまま死んでいたら私が知りえなかったことばっかりだからね。 教えておいてくれてよかったなって。
戦争へ行った人、戦争に行かないと言って平和のために戦った人、全部知って自分は、じゃあ何をなすべきか今をね、ちゃんと考えたいと思う。』
過酷な戦争の時代に生きた人々、その存在を忘れることなく。坂東さんは自分が今という時代に生きる意味を考えてきた。
「今も現実に戦争が起きていて、ほんとに日々、その苦しみでうちひしがれている人がいるわけで、そのことを思うと、何でこんな苦しみを再生産してるんだろうって。鬼でも何でもない普通の民でしょ? もっと言えば善良な民が、権力者、強欲な人のために駆り出されてしまう。だからそうしないで、こう生きるには 何が必要かということは常に考えさせられる。しかたがなかったで済まされることかというのが今の問いですね。」
番組の最後は次のような中沢さんの言葉で締めくくっている。
2012年12月19日 中沢啓治さんは 73歳でこの世を去った。中沢さんは「はだしのゲン」に込めた思いを記した一冊の本を残している。
『わたしの遺書』、その中で、中沢さんは 次のような言葉でしめくくっている。
『つらいことがあっても明るく前向きに生きる強い男の子にゲンを描きました。「はだしのゲン」の漫画の中には、ゲンの父親が語る「ふまれてもふまれてもたくましく芽を出す麦のようになれ」というセリフが何度も出てきます。僕たちには、きっと負けない「麦の精神」があるのです。
「はだしのゲン」がこれからも読み継がれていって、何かを感じてほしい。それだけが私の願いです。』
8月の番組にふさわしい、戦争、原爆を許さない思いを「はだしのゲン」を取り上げて考えさせられる優れた番組だと思った。
最近、広島市が「はだしのゲン」を平和教材から削除したり、松江市が 学校図書館での「はだしのゲン」の貸出、閲覧を制限する動きが出ており、
これらに抗議、撤回を求める動きが広がっている。
「はだしのゲン」は今の時代にこそ多くの人々、子供たちに読んでほしい本だと思う。
髙野春廣(放送を語る会・名古屋)
「ヒューマニズム」という言葉を久々に思い起こした。
『はだしのゲン』の作者・中沢啓治さんのお墓の前で、妻のミサヨ
人類にとって最高の宝は平和です。と刻まれている丸みをおびた横
「資源のない小さな国の日本は平和を守って世界中と仲よくして貿
坂東さんの父親は、日本軍の一員として中国の上海・南京に行く。
台湾での出版は、2,016年に実現したが、中国大陸では、10
『はだしのゲン』は、世界24の言語に翻訳されている。
坂東さんは、翻訳者たちのメッセージを伝える動画サイト『ゲンの
番組を見逃した方、『ゲンの翼』はいつでもYou Tubuでご覧いただけますので是非どうぞ。
渋沢理絵(放送を語る会)
『はだしのゲン』中国語翻訳者である坂東弘美さんは坂東さんのお父様が生前に体験された戦争に兵隊として闘っていた戦争の話を聞いたことがなかったそうです。しかしお子さんの戦争についての宿題に手紙で応える形で知らなかったお父様の戦時中のことを知ることになります。番組では坂東さんのお父様の戦時中の思いと『はだしのゲン』作者の中澤啓治さんの思い、坂東さんの『はだしのゲン』を中国語翻訳し、発行するまでの思い、取り組みについて描かれています。
坂東さんのお父様による手紙には、初めて語る戦争の記憶、自分が戦時中してきたことに対しての後悔が綴られています。戦時中、母親が必死に泣きながら子供を抱きかかえ殺さないでくれと懇願したのに銃殺したことや隠れていた人々を全員殺したことなどが手紙にあり、殺さなかったらこちらが殺されていたと綴ります。子煩悩で子供達のためにブランコを手作りしてくれる優しいお父様だったそうで、坂東さんの記憶にある父とはかけ離れていた父の戦時中の姿であったそうです。坂東さんが戦争のことを聞こうとしたらけして話さなかったそうなのですが、それは思い出すとつらくてできれば思い出したくない記憶だったのだろうと私は思います。坂東さんのお父様も『はだしのゲン』作者の中澤啓治氏も戦後、戦争を漫画にし戦争の怖さを伝えるとともに反戦を訴えた中澤氏と坂東さんのお父様は対照的なようで戦争を二度と繰り返してはいけないとの反戦の部分では共通していると私は思います。『はだしのゲン』作者の中澤氏は番組の中で『はだしのゲン』の描写が怖すぎるという投書があったそうだが、それに対して中澤氏は「恐ろしい漫画に映ってよかった。にたにた笑いながらあの漫画を読んでいたらおかしい。怖いなと思われることに感謝したい。」と述べています。私はあの漫画をちゃんと読まなければいけないと思います。怖いだろうがそれが戦争の姿、事実なのだから事実を知らないといけないと思います。『はだしのゲン』は24ヵ国語に翻訳され世界に広がっています。読まれなきゃいけない漫画だと思います。目をそらしてはいけない、きれいごとだけじゃない、反戦のメッセージや戦争の姿が描かれています。
坂東さんは『はだしのゲン』を翻訳するにあたり、わかりにくい、想像しにくい日本特有の風習が『はだしのゲンの』中に出てきます。例えば千人針は中国の人には伝わらない言葉です。中国の人には古着もよくわからず、戦後古着をなんで売ってるのだと疑問に思われたそうです。いろいろと工夫されて『はだしのゲン』中国語翻訳版が完成されているとのです。坂東さんの『はだしのゲン』に対する熱い想いが協力した皆
【映像の世紀バタフライエフェクト】
「太平洋戦争を“言葉”で戦った男たち」 8月23日午後11時50分~0時34分
五十嵐吉美(放送を語る会)
番組は、ローマ字の「コウサンセヨ/コロサナイヨ/ブキヲステロ
暗号の解読や捕虜の尋問にあたった日本語情報士官、ボルダーボー
時間の制約にもかかわらず発掘映像を駆使して、私たちが知らない
1944年アッツ、サイパン、テニアン島を攻め落としたアメリカ
子どもたちのために学校をつくることにしたテレファー・ムック。
この番組のスタッフに感謝したい。
【映像】のもつ力 ~二つの作品(テレビ番組と映画)を視聴して~
2023.08.26 K.F(放送を語る会・大阪)
◎ news23 「特集:106歳 戦争の記憶を絵に」
栃木県に住む現役の理容師・箱石シツイさん(106歳)。
彼女は、東京オリンピックの聖火ランナーを務めた方で、ディレクターが聖火リレーの取材を重ねる中で箱石さんが何度も語ったのは戦争の記憶。
ディレクターは、写真にも映像にも残されていない箱石さんの戦争の記憶を絵にして伝えることができないかと考え、法廷画家の根本真一さんに依頼する。そして、出来上がった絵を見ながら改めて箱石さんの証言を聞くという内容だった。
私の印象に残った絵と証言は・・・
【絵①】空襲警報下、座布団を背中に乗せて赤ちゃんに覆いかぶさる母親
「赤ちゃんだけは助けようと思った。赤ちゃんはあやしてくれているものと思って笑っていた。」
【絵②】窓越しに見る空襲
「遠くに見えた空襲、音と光が花火のようだった。」
【絵③】召集令状が届き、二人の子供を抱きしめる夫
「夫は、家の二階で顔中涙だらけにして二人の子どもを長い時間抱き続 けていた。」
【絵④】応召した夫との面会と農家のトマト
「面会時『水も飲ませてもらえない』という夫のために、農家を訪ね回 って、やっとトマトを譲ってもらった。
『子どもの顔を一目見たかった』という夫の言葉は本当に辛かった」
箱石さんは子供2人を連れて、実家の栃木県那珂川町に疎開。
親戚の家に身を寄せながら1945年の終戦を迎え、御主人の戦死の知らせが届いたのは終戦から8年後の1953年。
【絵⑤】遺骨受領
「箱の中身は小さな位牌だけ。
ただの板切れ、ずいぶんバカにしていると思った。
何年も待ったのに板切れだった。悔しかった。
指の爪でも何でもいい、本物が欲しかった。」
【絵⑥】雨戸を閉め切った暗い家の中の母子
「絶望の中、子供と一緒に死のうと考えた。
親戚の人たちから涙ながらに説得され、子供たちのために生きようと決心した。」
箱石さんは最後にこう言葉を結んだ。
「私みたいな苦労した人はいっぱいいる。
戦争ってやるもんじゃない。誰もがそう思っているでしょうね。
それでもやるんだから。今のウクライナなんか本当にかわいそう。
こういうの(再現した絵)を見ると胸が詰まる。
思い出してぞくぞくする。
こういう時代が来なけりゃいいね、これから戦争なんかなくて。」
以前、展覧会で見た「高校生が描く原爆の絵」、講演会で見た「大東亜戦争・戦争画」。
写真と違い、絵には作者の主観が入ることになるが、伝えたいことは強く心に響く。
今回の番組でも、再現された絵が加わることで、戦争体験者の証言をよりリアルに感じることが出来た。
妻と母親としての戦争体験を埋もれさせない柏木ディレクターの企画に拍手を送りたい。
《 8/18放送(14分)》
◎ 映画「ひろしま」(1時間44分)
以前、知人から「私、若いころに映画に出たことがある」と聞いた。その映画が『ひろしま』だった。
一度見てみたいと思っていたが、今年の8月、大阪の映画館で二週間の限定上映があると知った。
もうひとつ《見なければならない》という気持になった出来事がある。最近、外国の方と話す機会があり、《外国の人たちは自分の国の近現代史を自分の言葉で説明する》ことを知った。
広島・長崎と二度の原爆被害を受けた国の人間として知っておくべきことだと思った。
平日、25席ほどのミニシアターが満席だった。
1953年に公開された映画なので、終戦から8年後に作られた作品だ。
教職員組合が制作したもので、多くの市民や団体から延べ88000余人が協力したという。
映画は、主に二人の教師(岡田英次・月丘夢路)とその生徒たちと家族を描いていく。
被爆シーンは時間をかけて克明に描写されていた。
終戦間もないころの撮影なので、スタッフやキャストにも実際に体験された方も多くいたであろうし、街にはまだ戦争の傷痕が残っていたと思う。
資料映像も挿入されているが、違和感は全く感じなかった。
がれきの中を我が子を探し回る母親(山田五十鈴)、家屋の下敷きになった妻を救えなかった夫(加藤嘉)などの鬼気迫る演技も胸を打つ。
「新しい戦前」とも言われる現在に通じる場面もあった。
原爆で家族を失って戦争孤児となり、定まった職を持たない青年が工場に勤め始める。その青年が教師に訴える。
「僕は工場を辞めました。工場が急に大砲の弾丸を作り始めたんです。
ぼくはそんなものは作りたくなかった。
殺人狂時代という映画を見ました。
戦争でたくさんの人を殺したら英雄になるのに、ほかの人殺しは死刑になるといっています。先生、戦争はまた始まるんですか?」
また、女子学生が言います。
「戦後の広島には立派な教会がいっぱい建ちました。
朝夕、平和を訴える鐘が広島の空に響いています。
しかし、また誰かが戦争の準備をしているのではないでしょうか?」
戦後間もない時期に、現代に通ずる警告が込められているのに驚いた。
広島市民たちの手により《被爆の実像を後世に残す》という一致した強い思いを感じさせる作品。
映画の中で原爆症について嘲笑する学友たちに「クラスのみんなや先生に知ってもらいたい。世界の人たちに知ってもらう前に、まず日本の人たちに知ってもらいたい。何より広島の人たちやクラスのみんなに知ってもらいたい。」と発言する男子学生。
この映画で訴えたかったのはこの男子生徒の思いだったのではないか。
【追記】
この映画「ひろしま」はカラー化された全編が視聴できます。
ひろしま / Hiroshima (1953) [カラー化 映画 フル / Colorized, Full Movie] - YouTube
2023.08.20 大林清(放送を語る会・大阪)
8月19日(土)は俳句の日・バイクの日。エッセイストの吉永みち子さんが スポーツ紙のコラムで、「八月は 六日九日 十五日」という俳句を(故)永六輔さんがラジオで紹介していた記事を知り、録画していたNHK終戦特集番組を視聴しました。その感想です。
NHKスペシャル
「原子爆弾・秘録~謎の商人とウラン争奪戦」
・ウラン鉱石がアフリカ・コンゴ共和国から産出されていたとは知らなかった。
番組では原子爆弾の仕組みは放送されなかったのでネットでから基礎知識を得る。改めてとてつもない殺りく兵器をアメリカが製造し広島と長崎に使用した。まさに戦争犯罪だと思う。
歴史探偵
「消えた原爆ニュース」
・コミック的な構成の番組ながら、今回の「消えた原爆ニュース」は的を射た内容だった。
広島、長崎の原爆報道をGHQが禁止、検閲、統制まで。報道の扉を開いたのは京都大学生と
ノーベル賞の湯川博士だったとは知らなかった。
戦後78年、第2次安倍政権下で当時の高市総務大臣が「行政指導に従わない放送局は電波停止に
する」との国会発言とNHK(元)籾井勝人会長が「政府が右と言うことを左とは言えない」発言
は記憶に新しい。このような動きから放送局側は「政権へ批判的なコメンテーターを降板させるこ
とに・・・」と推察する。 報道の統制や自主規制は形を変えて「新しい戦前」とも思える動きが
見え隠れする。 マスコミ人の更なるジャーナリスト精神に期待するものである。
吉永さんは、今年もNHKが戦争特番を組んでいて、「制作現場の良心がまだ残っていることがうれしい」とも述べている。また、「戦争回避が理想と言うと笑われるようになったのが、2023年8月なのである」と結んでいる。
NHKスペシャル「
NHK総合 2023年8月14日(月)午後22時か ら
太平洋戦争では、日本軍の戦いをもう一つの戦いが支えていた。ラジオ放送による「電波戦」。
ナチスのプロパガンダ戦に倣い「声の力」で戦意高揚・国威発揚を図り、偽情報で敵を混乱させた。
行ったのは日本放送協会とそのアナウンサーたち。
戦時中の彼らの活動を、事実を元にドラマ化して放送と戦争の知られざる関わりを描く。
(NHKホームページより)
渋沢理絵(放送を語る会)
当時の国民にとって太平洋戦争はラジオニュースから始まった。12月8日大本営からの第一報を和田信賢アナが書き取り、その原稿を館野守男アナが読み上げ国民は熱狂した。この和田信賢アナ
新人アナウンサーの研修の様子が描かれる。正しい情報で一人でも
和田アナウンサーの仕事を勉強したいと実枝子アナウンサーが言い
戦場へ向かうアナウンサーの仲間たちを祝うシーンがあるのだが、
和田アナウンサーのやるせない思いはよくわかる。確信のもてない
戦争はかけがえのな
山村恵一(放送を語る会・大阪)
太平洋戦争の戦意高揚の旗振りとなったラジオ。携わったアナウンサーの群像ドラマだった。番組は当時の新人女性アナの独白から始まる
「言葉には力がある」 「言葉で世界を変える魔法。それはラジオだった」しかし、ラジオの魔法は幸福ではなく、国民を戦争に駆り立てる兵器となった。
1941年12月8日 連合艦隊の真珠湾電撃作戦で太平洋戦争は始まった。日本国民がそれを知ったのはラジオの臨時ニュースだった。
「臨時ニュースを申し上げます」「 大本営陸海軍部 12月8日 午前6時発表」「 帝国陸海軍は 本8日未明 西太平洋において アメリカ イギリス軍と戦闘状態に入れり」 「大本営海軍部 午後1時発表」 帝国海軍は ハワイ方面のアメリカ艦隊 ならびに航空兵力に対する決死的大空襲を敢行せり。シンガポールを爆撃し 大なる戦果を収めたり」
大本営からの第1報を書きとったのが和田信賢アナ、その原稿を高揚して読み上げたのは館野守男アナだった。バックには軍艦マーチが流され否が応でも戦意発揚と放送なった。長期にわたる日中戦争のなか、ラジオから流されるニュースに国民は熱狂し沸き立った。戦争に反対する声はこの大波に押し潰されて、悲惨な道を歩むこととなった。
ドラマは、テレビ実験放送に集まるアナウンサーたちのエピソードが紹介された。「カラスが1羽2羽」(松内)、二・二六事件の「兵に告ぐ」(中村)「双葉山70連勝ならず」(志村)関東大震災で家族を亡くした今福アナは「正しい情報がないために10万人が犠牲になった」「正しい情報の伝達で一人でも多くのひとを助ける」そのために我々の仕事はある」と語ったが、そうはならなかった過酷な現実を見ることになった。
ドラマの主人公の和田信賢アナは「虫眼鏡で調べて 望遠鏡でしゃべる」と語る。
日中戦争の慰霊・鎮魂放送で、和田アナの戦死者が憑依したような語りに、「これでは国民は戦意喪失だ!」との強い叱咤がされた。日独伊3国同盟が締結され、国は内閣情報部や陸海軍などの情報事務を一元化する情報局を設立。 新聞雑誌やラジオへの情報統制を強化した。
情報局はアナの読み方まで「なまぬるい・勢いがない」などと指示、女の声など無用だまで言わしめるようになる。ただ、アナウンサーは指示に従っただけだろうか。むしろ、自ら進んで戦勝に向けて高揚発揚の放送をしたのではないのだろうか?
開戦ニュースを読んだ館野アナに、一同が「米英の思い通りにさせるか」「日本人の心意気を感じた」につづけて、「万歳「万歳」をくりかえしている。あとは、挙国一致、家庭も先陣、国運を賭しての闘いなど敵への憎しみを煽る国威発揚放送の一本道をたどったのである。
この状況に疑問を呈したアナもいたが、「アナウンサーはいまや国家の宣伝者 アジテーターである」「マイクが運ぶのは国家の意思だ」にかき消されるのである。戦線が拡大するに伴い、南アジア各地に国策放送局が建てられアナウンサーも赴任し、現地での日本化やアメリカの戦意を挫く放送、いわゆる電波戦の戦士とされ、多くのアナウンサーや職員が還ることが無かった。
アッツ島の戦況で和田アナは「全力を挙げて壮烈なる攻撃~全員玉砕と認む」と。それまで使われていなかった「玉砕」に「玉のように砕け散る美しい言葉」と、続けて「あなたの言葉には力がある、その力が国民を歓喜させ安堵させ背に意を発揚させる」と評される。
その後、確かめようのない「大本営発表」を繰り返し放送し、大人だけでなく子供たちまでもその戦果に狂気する事態に誘ってしまうのである。
無条件降伏の受諾に際し、行音放送の前に「あまりにも多くの国民が死んでいった。それは・・・私たちのせいだ。」「ラジオが現れた時、夢の機械と喜びんだ。知らない国の知らない人の様子が聞ける」「しかし私はそれを使って死ねと呼びかけた。我々は夢の機械を悪魔の拡声器にしてしまった」
戦後、巷で子供から「大本営発表」と声をかけられ、和田アナは大きな罪に絶句する。
名前になじみのあるアナウンサーが多く出てくる。彼らが戦争にどうかかわったのだろうか、抵抗はあったのか弾圧は?に興味があったが、アナ個々の群像劇に終始していてリアルさが足りない印象を受けた。戦争遂行に進んで関わっていったアナ集団の責任は重大と考える。個別の懺悔や反省が見られるが、日本放送協会の責任があいまいに終わっている弱さがあると感じた。
南方の放送局には、多数の技術職員も赴任、職場で先輩にその話を聞いた覚えがあります。
戦後のNHKの発展は平和の下でこそと思います。戦争に参加していれば願うべきこともなかったことでしょう。ゆえにNHKは平和を希求し国民に隠さず正確な情報提供をと思う。
小滝一志(放送を語る会)
ラジオを「悪魔の拡声器」に変えた放送人の責任
番組の冒頭、タイトルの下に小さく「これは事実に基づくドラマで
「言葉には力がある。言葉で世界を変える魔法、それはラジオだっ
番組は、型破りの名物アナウンサー和田信賢を主人公にストーリー
時は、日中戦争から太平洋戦争へラジオが国民を戦争に駆り立て総
「情報局」が設置され、新聞・雑誌・ラジオへの情報統制が強化さ
新人アナウンサーに「虫メガネで調べて望遠鏡でしゃべる」と意味
開戦とともにアナウンサー仲間では、「歴史的決戦の時に俺たちは
日々、戦況放送に携わる主人公和田だが、初めて使われる「玉砕」
1943(昭和18)年10月21日神宮外苑の出陣学徒壮行会。実況放送を任された和田アナは事前に、「戦争は殺し合いをすると
壮行会当日、学生のホンネを実況放送に盛り込むことのできない和
スタジアム通路に逃げ込んだ和田の内心の絶叫が映像化される。「
1945(昭和20)年8月、終戦を知らせる臨時ニュースを和田
下村「おそらく軍や民間人が決起して反発が起きる。まさに一億玉
和田「それは私たちのせいだ」
下村「ラジオが表れた時、私は『夢の機械』だと喜んだ」
和田「しかし私はそれを使って『死ね』と呼びかけた」
下村「そうだ。我々は『夢の機械』を『悪魔の拡声器』してしまっ
ラストシーン、ナレーションでアナウンサー仲間の戦後が短く伝え
ラストカットは、戦後和田夫妻が街で出会った少年の「大本営発表
それはどんなに悔いて改めても消すことのできない戦前の放送人の
私には、このラストカットは、戦前の放送人の犯した過ちを忘れず
NHKの政治報道が政権寄りと批判され、一時「アベチャンネル」
ドラマの中では、「放送は国の監督下に置かれていた」「情報局が
特集ドラマ「軍港の子 よこすかクリーニング1946」
NHK総合 8月10日 22:00~
2023.08. 13 五十嵐吉美(放送を語る会)
以前から私は日本という国が戦争責任を果たそうとしないこと、戦
米軍の巨大軍艦が停泊している横須賀港。
小川今日一(13歳)は、横浜大空襲で母親を失い、引き取られ
主人公を演じた小林優仁が「“僕たちはこう生きた”と言ってい
以前NHKのドキュメントで、東京大空襲で焼け出され、上野地下
子どもたちに責任はない。当時の子どもだった被害者たちが空襲
「軍港の子」のラスト――海岸で、施設から逃げ生きられたが妹は
[歴史探偵] 消えた原爆ニュース NHK総合 8月9日 午後10:00~10:45
レギュラー出演者 佐藤二郎(探偵所長)、渡邉佐和子アナ(副所長)、近田雄一アナ(歴史探偵)
( 同タイトルの番組に複数の投稿がありました。到着順に掲載しています )
2023.8.10 五十嵐吉美(放送を語る会)
「なぜ被爆の真相が明らかにされなかったのか」
敗戦後NHKは内幸町の放送会館をGHQから明け渡し命令。3階
それを打ち破った事件――ノーベル賞受賞の湯川秀樹博士も「立派
1951年7月京都大学の「原爆展」で1センチも盛り上がったや
ではなぜ、学生たちが立ち上がったのか…。学生たちは当時、何ら
スタジオで佐藤「探偵」は「ありのままを知る大切さ」を強調。「
2023.8.11 アーチャン(放送を語る会・大阪)
「NHKスペシャル」でも連日、終戦特集番組の続く中、この歴史番組も終戦に視点を移し新聞記念館や、当該者を訪ね探偵。
1945年8月、広島と長崎に原爆投下され被害者は20万人を超えた。今ではその実態をいつでも確認することが出来るが終戦後6年、その凄惨さをとらえた写真はGHQの検閲など巧妙な情報統制や、様々な自主規制によって真実の報道が大きく制約されていた。
終戦を迎えた当初は残虐な被爆実態を報道していたが、朝日新聞の有力政治家・鳩山一郎(後の総理大臣)の「原爆投下は戦争犯罪だ」とした記事の掲載を機にGHQは2日間の発刊停止を命令、更に「プレスコード」をはじめ報道の規則を通達し事前検閲を徹底した。
その後、核兵器の開発を進めていたアメリカは反対世論を抑える方向だったが、GHQは日本で民主化政策をも進めていたため軌道修正ともいえる事前検閲を僅か3年で終わらせた。こうした状況下、広島の作家が『屍の街』と題する被爆体験を綴ったルポルタージュを中央公論社から発刊したが、初版にあった被爆者の数や後遺症の惨状を表現した部分は編集者により削除され、また新聞社では共産党の支持報道や原爆に関する報道は差し止めされる事態が常態化。GHQによる検閲は終わったが占領は続いたため、発行停止処分を恐れた出版業界やメディア上層部では自己規制が蔓延、報道統制が続いた。
終戦から6年、核廃絶を訴えていた湯川秀樹博士が高く評価していた出来事があった。京都大学の病理学部の講師が被爆の残酷さを研究し原子爆弾症と名付け講義、それに呼応した学生が「原爆展」を企画。大学側の資料提供などの支援拒否を受けるが、生徒自ら現地調査-被爆者のトラウマなど様々な困難に遭遇するが、生徒の趣旨に賛同した被爆者が現れ、凄惨な放射線被害の写真展開催に成功―3万人を超える見学者を迎えた。これが被爆の実態を伝える第一歩となり、「アサヒグラフ」に掲載されるなど原爆報道が進展した。
こうした使命感を伴った献身的な学生運動の背景を、隣国の朝鮮戦争や日本再軍備の警察予備隊の発足などに対する危機感からの反戦運動としてとらえようとしたコメントに共感。
題名からはGHQ占領下での報道規制問題と思われたが、視聴してみると反戦、体制からの表現の自由獲得闘争という今も続くテーマだった。
【 管理者の感想です】
探偵所長である佐藤さんのリアクションコメントが、視聴者の共感を呼びいいですね。佐藤さんはおそらくは進行表だけ目にしていて、リポートビデオは初見でないかと思います。 用意されたコメントならば、ばれますもの。
「ブラタモリ」で「武器を持つと戦争したがる」とのタモリさんのコメントもそうでしょうね。
2023.8.12 平林光明(放送を語る会・大阪)
1945年8月の終戦直前、広島と長崎に落とされた忌まわしい2発の原爆。いまだ被害は続いているが、何故か詳しい状況が伝えられない6年間の空白の時期がある。特に原爆の残虐さが伝わる写真、放射線の影響を伝える記事は全く姿を消していた。
番組はこの謎を日本新聞博物館から調査を始めた。その結果9月半ばまでは「時が経っても影響が残る」記事などが掲載されていたが、GHQの体制が整う10月には見当たらなくなった。きっかけは9月5日に朝日新聞が報じた鳩山一郎氏のインタビューだった。
この中で鳩山氏は「原爆投下によるの国民殺傷は毒ガス以上の国際法違反、戦争犯罪」と糾弾していた。この記事に対してGHQは強硬に反応。朝日には2日間の発行停止処分、全メディアにプレスコードを出し事前検閲を通告した。NHKが入っているビルは3階と5階にNHKを押し込め、挟み込むように4階と6階にGHQが入居した。その検閲ぶりは「箸の上げ下ろしにまで」と当時の職員が回顧するほど徹底していた。
この検閲は日本の民主化と矛盾するという批判から48年に終了するが、「原爆症は完全に消滅」など、記事の内容には全く変化が無かった。メディアによる自主検閲が続けられたのである。この現象について山本武利早大名誉教授は「江戸時代以前からお上に弱い日本人の国民性」と分析していたが、今にも続くメディアと権力の関係だけに、この一言で済ませていいのか釈然としなった。
この閉塞状況を打破したのは京大の学生たちだった。講義で残存放射能の怖さを学び、「知った以上は伝えなければ同罪」と原爆展を企画する。大学からの協力を得られず、自ら現地に赴いて取材や聞き取りを重ねる。原爆展では原爆の実態を絵や写真を使って伝え、放射能の怖さをパネルを使って科学的に伝えることに徹した。この原爆展が多くの人に感銘を与え各地で同様の展覧会が開かれようになった。メディアの自主規制もこの中で溶けて行った。
真実はどんな権力をも打ち破る力を持つことを教えてくれた番組だった。
夏になると毎年戦争に関する特集が組まれる。大事なことだが特番やスペシャルでなくとも、レギュラー番組でも工夫すれば戦争に迫れることを証明した良い企画だった。欲を言えばせっかくNHKに対する検閲にも触れていたのに、「箸の上げ下げ」とも言われたGHQの検閲の実態を1例でもいいから紹介してほしかった。
余談になるが、私も小学6年生の時夏休みで和歌山の親戚を訪れた際、近くの小学校で開かれていた原爆展を観に行った。展覧会といってもわずか十数枚の写真が展示されていただけだったが、初めて見る写真に大きなショックを受けた。中でもコートを引きずって歩いているように見えた人が、実はコートでなくただれた皮膚を引きずっていた1枚が、今でも脳裏から離れない。私を“軍国少年”から反核運動に向かわせたきっかけの1つであった。私も新聞記事から「原爆は普通の爆弾」と信じ込まされていただけに、真実を伝えることの重要性を実感している。
◎「終戦特集番組・2023年」の投稿 をお願いします。
徳川幕府の下270年の間対外的な戦争をしなかった国が、明治維新後いつしか10年ごとに戦争をする国になっていました。
そして、太平洋戦争に突き進みアジアと日本国民に悲惨な戦渦を
もたらしました。その痛切な反省から平和憲法と国民の運動が78年間にわたり「平和」を守ってきました。
しかし、いま、その「平和」の思いは崖っぷちに立たされていることを感じます。「新しい戦前」と言ったタモリさんは別の番組で「武器を持てば戦争をしたがる」とも感想を述べましたが、岸田政権の軍事費の大幅増強、武器輸出の緩和など戦争がすぐそこにとも思います。声高に叫ぶことはしないがタモリさんの鋭い感性に敬服しています。戦争の実体験をもつ人が少なくなるなか、その継承が「平和」に向けた課題であり、マスメディアの責務であるといえます。終戦特集番組を視聴すること、意見交換・発言をすることが、
メディアにその役割を果たさせ「平和」にむけて私たちができる行動の一つと言えます。以下のフォームからの投稿をお待ちします。
◆ドキュメント’23(日本テレビ系)
8月 6日 深夜0:55~「伝承の期限消えゆく被爆者の声」
8月13日 深夜0:55 「でくのぼう~戦争とPTSD」
8月20日 深夜0:55~「あの日は消えない ヒロシマ被爆者は今」
8月27日 深夜0:55~「変わりゆく自衛隊の実像」
◆テレメンタリー2023 (テレビ朝日系)
8月 5日 前4:50~ 「彷徨い続ける同胞」
(地域により放送日時が異なります)
8月13日 後1:55~ 「僕たちは戦争を知らない 戦禍を生きた女性たち」
(ABÇテレビ 15日放送(時間未定)
◆BSテレ東
8月15日 後5:58~「池上彰の戦争を考える SP2023」 続報
以下は2022年分です
終戦77年を迎えます。
身をもって戦争を体験された世代も少なくなってきています。
ロシアのウクライナ侵攻で、世界が戦争に巻き込まれる恐れが現実味を帯びてきています。
「戦争」を伝え続けることで、平和を希求するのはマスメディアの責任でもあります。
昨年は「被曝・終戦76年関連番組」(旧ホームページ)には、NHK スペシャル、ETV特集、NNNドキュメントなど24件の投稿をいただきました。中でも、終戦ドラマ(総合テレビ)には多くの方から感想が寄せられました。昨年の投稿の閲覧はこちら
今年も「終戦特集番組」を開設します。投稿をお待ちいたします。
注:みなさまからの投稿は「夏の特集番組一覧」の下段に表示!
注:「2022年・夏の特集番組」一覧は最下段に移動しました。【HP管理者】
2022.09.15 平林光明(放送を語る会・大阪)
24時間テレビ スペシャルドラマ『無言館』 読売テレビ(日テレ系列)8月27日放送
長野県上田市に1997年に開館した「無言館」(戦没学生慰霊美術館)は、先の戦争で亡くなった美術学校生の遺作を展示しようと作られた美術館で、当初は37人80点余だったが、2010年には108人1000点を超える作品が展示されている。
ドラマは開設に至る実話を描いたもので、劇団ひとりさんが脚本を書き、初めて監督したドラマとしても話題になった。
上田市で美術館を経営している画商の窪島(浅野忠信さん)は、懇意にしている画家の野見山(寺尾聰さん)から、画学生の出征前の絵を紹介する展示館の設立を提案されるが、素人の絵を集めてもと、今一つ気乗りがしない。ある日、野見山に同期だった学生の最後の絵を見せてもらおうと、無理やり実家に同行させられる。ところが家族から出征前の慌ただしい時間を縫って描いた1枚の絵を見せられ愕然とする。実家近くの何の変哲もない田舎のあぜ道を描いた風景画に、出征前の荒ぶった感情の戦争画か何かを想像していた窪島には、故郷を心に刻み込んだような余りにも普通な絵に彼らの真情を知りたくなる。
そしてこの日から、幾多のエピソードを織り込みながら2人の収集旅行が始まる。
2人の訪問に感激したある家では、心づくしの夕食でもてなし一泊してもらうことになる。ところが夕食に箸をつけようとすると、兄(でんでんさん)が弟の思い出をとうとうと話し出し箸が進まない。家人の注意で止めるまで同じことの繰り返しに、兄のはけ口の無い弟への思いに引き込まれる。朝まで兄と飲み明かした窪島に、彼は「自慢の弟でいじめや親のびんたには必死で守ったが、戦争からは守ってやれなかった」と悔やんでいた言葉は胸を打たれた。
絵を預かって欲しいという女性(由紀さおりさん)の依頼を受けた窪島は、ひとしきり夫の思い出話を聞いた後、ベッド脇の壁に飾られている2枚の絵をいざ外す段になって必死の拒否にあう。「50年一緒に生きてきたのに明日からどうすればいいの。やっぱり棺桶に入れてもらう」という訴えに手が止まる。同じ呼び出しを何度か繰りかえした後「私が持っているより、いつまでも生きていられる」と涙ながらに提供に同意する。
亡くなった人間の絵を巻き上げて商売するのかといった誹謗にも耐えなが ら開館式にこぎつけた窪島は、喜ぶ遺族を見ながら「結局俺は彼らから絵を奪ってしまったのかな」と弱音を吐く。それに対して「絵を奪ったのは戦争だよ」と励ます野見山の言葉に「無言館」の意義が集約されていた。
私としてはここでドラマが終わっても十分良い作品になったと思う。
必然的に多くなるベテラン陣の好演で引き締まった画面になったし、無言館の持つ意義も伝わった。
しかしひとりさんは、無言館の構想から完成まで幾多の苦労を乗り越えて目標を達成するという、“予定調和的”なドラマになるのを嫌ったのか、この後にもう一つのエピソードをやや長めに付け加える。それは提供した遺族もモデルが誰か分からない一幅の「裸婦像」である。
その記事を偶然新聞で目にし、鹿児島から上田を訪れ50年ぶりに自分を描いた絵に対面する女性の物語である。
出征を予感した恋人の頼みでモデルを引き受けるが、結婚も出来ないまま召集され、ひたすら待ち続ける女性の人生を描き、戦争に壊された青春群像を表したのだと思う。ドラマの評価は人さまざまであり、このエピソード自体も戦争の犠牲を描いたものであるが、既に戦争の理不尽さは十分描かれており、”屋上屋”を重ねた感がしないでもなかった。
2022.08.16 渋沢理絵(放送を語る会)
関口宏のもう一度!近現代史SP 本土復帰50年沖縄の過
番組の出演者は関口宏氏と近現代史研究家の保阪正康氏だ。
沖縄の戦前
私は捨て石として沖縄のみなさんには犠牲になってい
ガマの中での惨劇に嫌気がさす。沖縄の言葉を話す者はスパイだと
よく知られている「白旗の少女」の写真、降参する意志を示す白旗
番組ではマッカーサー、吉田茂氏、サンフランシスコ平和条約、佐
非核三原則に
困難かもしれないがよくなる方向へ考える
2022.08.15 アーチャン(放送を語る会・大阪)
『報道特集』特集番組2本 TBS 8月13日(土) 17時30分~
特集① 「ウクライナ侵攻とメディア」
まだ爆撃音が聞こえるキーウの公共放送局「ススピーリネ」に金平氏が入る。戦時下の異例の放送体制で5つの公共と民間の放送局が統一、「団結ニュースマラソン」と名付け、全放送局の電波は同じものを放送している。
放送開始前、スタジオを施錠し部外者の侵入を防止。編集長は「出来る限り中立性を守るよう努め、両者の立場を伝えるという原則に基づき活動。このような状況ではロシア側の取材は、発言をそのまま放送できないので国際機関や各専門家の考えを伝えている」と放送の基本姿勢を語った。
メディアセンターでの国防省の会見では「ウクライナに栄光あれ」と国民を鼓舞する言葉が続くが、会見で被害の詳細の負傷者数の発表はされず。金平氏がその数の公開を要求したところ、「戦時中は情報公開のルールがあり、このルールは防衛や安全のために必要なもの、死者の数は公開しない。言えるとすればウクライナ側の死者数はロシアよりかなり少ない。その数は数千人単位と述べておく」と応えた。この見解に金平氏がウクライナの記者に会見は開かれたものと信じているか尋ねると、「戦時中は公開しても良い情報と、そうでないものを区別するために自己検閲が必要になることがある。国防省や兵士にしてはいけない質問がある。外国のメディアが情報を深く知ろうとすることも理解するが、兵士や民間人の命が何よりも大事だ。そのため特定の内容に関して質問しないことがある」と回答。さらに金平氏はメディアの自己規制の是非を上層部に問い質していた。
ススピーリネの会長にインタビュー。
戦時下の放送局と政府の関係について聞く、政府は特定の情報発信を強要することがあるかの問いに「いい質問ですね」と前置きし「政府は常に圧力をかけようとする、私にはニュースの制作・編集の権限はない、それは現場の編集長が持っている。民主主義国家でも政府が圧力をかけるが、編集長やキャスターがNOと突き返すものと判断している」と回答、一方で【記者個人の忖度】を懸念し、「将来的な課題は自己検閲だろう。それをはねのけ自分たちを守る唯一の方法は【ジャーナリズムの規範を厳守】する事だ」の金言。---日本のどこかの放送局上層部にも聞かせてやりたい答えが返っていた。
特集② 「戦後77年 戦争とメディア」
メディアは情報統制の犠牲者なのか、あるいは戦争を煽った共犯者なのかの前置き。
空母4隻を喪失したミッドウエー海戦から逃れた帰還者は、軍上層部が1隻喪失の虚偽報道をしていたと訴える。陸海軍を統括する天皇直属の最高軍事機関・大本営は戦況が悪化していたことを隠し、天皇まで騙していた。
陸軍が戦意高揚のために作らせた【戦う兵隊】という公開されなかったドキュメンタリー映画。敗戦状況の中の兵隊の映像を見た検閲官は、これは【疲れた兵隊】だと激怒。映画製作者の亀井文夫は「戦争に協力するつもりはない。戦況を素直に表現する姿勢だった」と。---これぞジャーナリストの鑑!! しかしその後、監督は治安維持法違反で逮捕された。
映画研究科は「当時の映画は戦意高揚の作品が好まれ、民衆もそれを見て感激した」軍の言論統制により国民が駆り立てられ、戦況が悪化するにつれメディアがその一端を担うようになった。活字メディアまでが軍の意向に沿うようになった。
朝日新聞の書庫に残された紙面には戦意高揚のパレードなどの勇ましい写真を全面にしたものがみられる反面、戦況悪化を知らす写真などは、検閲部より【掲載不可】の印が打たれていた。また記事差し止め事項一覧表というハンドブックも示され、こうした文書は部外流出禁止の通達文書も残っていた。一部の記者は外国の短波放送を聞き戦況悪化の真実を知りながら虚偽報道を続けた。
映画監督の伊丹万作氏(十三の父)はエッセイの中で多くの人がこの戦争で騙されていたと記していた。「いくら何でもわずか一人や二人の知恵で一億の人間を騙せるわけがない。つまり日本人全体が夢中になって互いに騙したり、騙されたりしていたのだろうと思う」と。映画評論家・吉村英夫氏は「騙す側と騙される側を結合させたのがマスメディアだった」---メディアへの限りなく重~い苦言。
終戦の日を迎えるにあたって、新しい貴重な資料や証言が戦後77年の今も続々と公開され続けることに感謝。さらに非戦へ向けてのメディアの役割の重要さを再確認―さすがの報道特集だった。
最後に金平氏が取材を通じての箴言「真実を戦争においても犠牲にしてはならない」
管理者より TBS、NO WAR プロジェクト つなぐ、つながるは、8月6日(土)から15日(月)まで、報道の各番組が戦争の現実を伝え、今、そして未来に教訓をつないでいく企画を放送しました。 報道特集では「戦争とメディア」をシリーズで放送。
TBSfree で配信中です。以下のリンクで視聴できます。
2022.08.18 山村惠一(放送を語る会・大阪)
アーチャンさんの「報道特集」への投稿に同感です。77年前とウクライナ侵攻のいま、戦時下のメディア状況が似ていることに危惧しています。先の大戦がはじまったころ、大衆は戦争情報を求めて新聞購読数が急増したそうだが、大衆の側も「勝った勝ったまた勝った」などの気持ちのいい情報に熱狂し、メディアもそれに呼応するような報道をつづけ大本営発表にいたったのではとも思う。
報道特集でもウクライナの国防省が会見冒頭「ウクライナに栄光あれ」に続けて情報に制限が伴うのは当然であるとし、テレビ局ではニュースの間にも放送を鼓舞するキャンぺーンが流され、記者も「戦時中は情報を区別するため自主検閲が必要」と自らの判断で取材制限することもあると回答している。
西日本新聞社は戦争中アメリカの短波放送(VOA?)を傍受して太平洋の戦況悪化を把握していたが、それでも大本営発表の「戦果」を掲載し続けていた。西日本新聞社屋には戦争報道の反省から編集綱領が掲げられている。その最初に「言論の自由と独立を守り 報道の公正、真実を貫く」と記されている。戦時中の報道は勝つための報道という向きがあり、いまロシアの報道に繋がっているとしている。騙す側と騙される側を結合させてしまったのはマスメディアであり、取材した日下部キャスターは、ひとたび戦時下に置かれた時、全体状況に抗うことができるのか「正直自信が持てない」とつきつめたコメントを残している。 あたりまえのことだが、調査報道と自らの役割と責任を突き詰める「報道特集」は今のメディア状況のなかで出色と言える。
2022.08.15 平林光明(放送を語る会・大阪)
『仲間由紀恵・黒島結菜 沖縄戦 “記憶”の旅路』 NHK総合 8月1日 22時~22時45分
今放送されている朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』の主要キャストである仲間さんと黒島さんが、ドラマ収録前に、島を離れて久しいふるさとを訪ね「沖縄戦」を学ぶ姿を描く。他の番組に比して決して重いテーマではないが、沖縄でも戦後77年を迎え、あの悲惨な地上戦を知らない世代が圧倒的になっている。そんな中でシンボル的な役割を果たしている「ひめゆりの塔」を訪れたことのない人が増えていると聞いたことがあり、若い人たちの感覚を
知りたいと思い視聴した。
40代の仲間さんは、本土疎開のために乗船した輸送船が撃沈され、子供やその家族1,400人以上が亡くなった「対馬丸記念館」と、父や弟の遺骨を探す高齢の女性をガマ(洞穴)に訪ね話を聞いた。女性は「尊い命を捨て石にされた戦争は2度とあってはならない」と繰り返しながら、いまだに遺品さえ見つからない作業を続ける気持ちを話した。
ドラマでも仲間さん演じる4人のきょうだいの母が、ボランティアとして遺骨収集作業に通うシーンがある。
お盆で皆が集まった夜、それまで頑なに話さなかった沖縄戦の悲惨さを伝え、自らも抱きかかえた弟を亡くした思いをボランティアの動機として明かす。この設定と演技を超えて子供たちに話す姿に、ガマの経験が活かされていたと感じた。
一方、故郷を離れて沖縄戦の記憶が薄れていくのが怖いという20代の黒島さんは、年齢も近い「ひめゆり学徒隊」を追った。
南部の糸満市にある「糸数アブラチガマ」に入り学徒隊の手記を朗読した。
アブラチガマは学徒隊の最後の従軍地になった所で、解散を受けてバラバラに戦地をさまよう中で犠牲者が急増した悲劇の場所である。
普通に楽しい時を過ごしていた少女たちが、訳も分からず戦争に巻き込まれる怖さを自分の身に置き換え、他人ごとではないと痛感する。
その後「ひめゆり平和祈念館」を訪ね、元学徒で初代館長の島袋淑子さん(94)に直接学徒時代の毎日を聞いた。
島袋さんの話では、自決しようと手榴弾の栓を抜きながら、”シュー”という音を聞いた瞬間手がちぎれると驚いて投げ捨て、結果的に助かったという潜在的な生への気持ちが非常に印象的だった。
黒島さんもガマでは手記を朗読する女優の顔だったが、島袋さんの話を聞くうちに表情が変わって行き「私に何ができるのでしょうか」と尋ねていた経過に、若者世代の戸惑いと何かしなければという気持ちの変化が感じられた。
黒島さんの女優としての変化を期待したい。
私事になるが、私も沖縄には度々お邪魔している。オスプレイが普天間に配備された10年前、民主的ツーリストの企画で「沖縄平和の旅」に参加した際、初めてガマを体験した。それが「糸数アブラチガマ」で、ヘルメットをかぶっていても頭を何度も岩にぶつける狭い急坂を下りると奥は意外に広かった。全長270メートルで住民200人が避難していた。そこに閉鎖された南風原(はえばる)陸軍病院の傷病兵600人が移ってからは、地獄絵図になったという。画面では案内標識なども整備されているようだが、沖縄にはまだまだ知られていない戦跡が沢山あることを思い知った次第である。
2022.08.14. 今井 潤(放送を語る会)
NHKスペシャル「原爆が奪った”未来”~中学生8000人
1945年8月6日広島の中心部には8000人の中学生が集まっ
CGで中学生たちが集まってくる様子をあらわす、39校8000
なぜ中学生は集まってきたのか。
建物疎開のために動員されていた。
90歳2名の方の証言
石崎睦子さんの日記で詳細にその日の行動を見る。
原爆による急性障害が起きた。
親も子供を探して市内にはいった。2992人
放射性物質が大量に存在していた。
なぜこれほど多くの生徒が命を落としたか。
軍の生徒動員に学校側は反対したが、中将は軍刀で床をたたき、学
こうして、8月6日これまでで一番多い8000人という膨大な犠
米国イエール大学精神科医(95)投下のあと17年後、あの日の
「被爆者らが経験したトラウマ
広島大学鎌田医師は24人の女性を40年以上調査したが、24人
ラストコメント
77年前を生きた中学生たちの記録はその重い教訓を今の時代に突
この番組は決して我々が忘れてはいけない歴史的事実を示してくれ
2022.08.14. 今井 潤(放送を語る会)
NHKスペシャル「イサム‣ノグチ 幻の原爆慰霊碑」 BS1 8月5日 21時10分~
米国人と日本人の間に生まれたイサム・ノグチは彫刻の道に踏み出
1950年広島を訪れ、建築家の丹下健三と会う。原爆慰霊碑の設
ノグチは自伝の中で「広島に行きたかった。罪の意識を感じていた
イサム・ノグチは日米で多くの勲章を与えられた芸術家だったのだ
2022.08.12 渋沢理絵(放送を語る会)
NHKスペシャル「戦火の放送局〜ウクライナ記者たちの
NHKスペシャル「戦火の放送局〜ウクライナ記者たちの闘い
戦時下のウクライナの5ヶ月間を記録した番組で
ロシア軍の砲撃は軍人だけではなく民間人も殺していることを番組
ウクライナの公共放送である「ススピーリネ」について、中立の立
ロシアとウクライナは道端で亡くなられている兵士の映像を互いに
真実
番組内ではシングルマザーの女性の苦労されたことも伝える。ウク
私は復活されてすごいなと思うとともに、あ
アナスタシアさんはウクライナに残り戦場の様子を伝える。ドネ
そんな姿は娘さんから見て
少なくとも私は大変でも記者
2022.08.10 諸川麻衣
『ETV特集 侍従長が見た 昭和天皇と戦争』 8月6日
2021年12月に2回シリーズで放送された『ETV特集 昭和天皇が語る 開戦への道』の続編にあたる番組。海軍大将から侍従長となった百
開戦当初、戦勝に「天機麗し」かった天皇だが、ミッドウェー海戦
今回の取材で、天皇が、国内では受信が禁じられていた短波放送や
百武三郎日記には、従来知られる内大臣・木戸幸一の記述とは異な
番組は
その点で、この後、
また、731部隊の細菌戦、軍慰安
2022.08.08. K.O.(放送を語る会・大阪)
NHKスペシャル「戦火の放送局〜ウクライナ 記者たちの闘い〜」 放送日: 2022年8月7日 21時~21時50分
<番宣情報>
母国が戦場となったときジャーナリストたちは「戦争」をどう伝えるのか…。鳴り響く防空警報の下、臨時拠点からの放送・配信を続けるウクライナ公共放送。ロシア軍の侵攻から5か月あまり、長期取材から見えてきたのは、ロシア側が仕掛けるプロパガンダの実態や、ウクライナ政府から課される戒厳令下の報道規制、そして家族や友人たちの命が危険にさらされる中で、何をどう報じていくのか苦悩する職員たちの姿だった。
NHKプラス配信中 8月11日(木)午前2:30 ほか 放送予定へ
<モニター評>
・ウクライナ公共放送「ススピーリネ」をネット検索すると、ウクライナ公共放送PBC(Public Broadcasting Company of Ukraine)は、2017年1月、キーウの国営放送局の傘下に、全国20余りの国営の地方放送局が入る形でスタートした。現地では、ウクライナ語で「公共」の意味のSuspilne(ススピーリネ)とも呼ばれている。今回のドキュメンタリーはNHK独自の取材、カメラも入っての合同制作か。→ 戦時下の映像、記者コメント、市民インタビューから改めて残酷、悲惨さに胸が痛い。同時にロシア(プーチン)への怒りが高まる。
・番組の核「女性記者アナスタシヤさん」が戦時下で冷静な現場リポートがよくできるなーと敬服。しかし、子どもの死について取材した時、自らも母としての感情から涙声での「亡くなった子どもたちの映像をもう撮影したくない」の発言は戦場カメラマンなら誰しも思うことではないか。日本の各TV局も現場リポートで女性記者が多く登場するが、ススピーリネTV局の女性職員の多さに驚いた。 CNNの戦場記者も女性だった。
・ススピーリネ公共放送のミコラ会長に戦時下でのメディア報道「公平、公正」であるのは難しいか?の問いに → 戦争が終わってからの応えですねと。どれくらい公平公正でいられたかは、後で評価されるべきと。 この件に関し私思考は、これだけロシアの卑劣蛮行を目の当たりにすると報道ジャーナリスト精神は消える。公平公正な行動はできない。ロシア悪を憎む行動に出るだろう。 それが更なる戦争行為をあおることになる。歴史が証明している。ゆえに、報道は常に国民目線で政権批判も視野に入れてこそ公共放送NHKだ。
2022.08.06 山村惠一(放送を語る会・大阪)
所さん事件ですよ「78年前のフィルム 映っていたのは…」総合テレビ 7月28日 23:00~
不安を掻き立てるBGMに沸きあがる黒煙、堅苦しい「要地遮蔽」の文字がスーパーされたモノクロ映像のオープニング。ワイプ画面の所ジョージは「ナニコレ?」とつぶやき、「要地遮蔽???」と木村佳乃の二人の司会者は一様に驚いた表情である。
NHK総合テレビで放送された 所さん事件ですよ「78年前のフィルム 映っていたのは…」の冒頭シーンです。ホームページによるとこのフィルムは78年前、第8陸軍研究所が製作したもので、太平洋戦争中に重要拠点をB29の空爆から煙幕で守ろうとした実験映像で、50万人近くが命を落とした本土空襲の裏で何が起きていたのか?日米それぞれで行われた「実験」を通じて考えると示されている。
自衛隊の資料によると、このフィルムが製作されたのは、マリアナ諸島が占領されてB29が進出してくる時期と一致していて、その状況下で「軍需工場が爆撃を受ける可能性も高くなってきた」ための実験であった。しかしB29の本土爆撃は無差別爆撃なので効果がなく実際には使用されることはなかった。「煙幕」は原始的な手法ともナレーションされている。この映像を初見であろう所さんは「爆撃から煙で隠した…もう勝ち目はない」とか木村さんは「まさか煙で…風向きによっては効果ゼロ」と率直なコメントをしている。
同時期にアメリカでの空襲に関する研究は、実験場に実際の日本の木造家屋を建てて「どうやったら都市に大火を発生させるか」「消火がむつかしいものにできるか」と焼き尽くすための新しい焼夷弾の研究をしていたものである。
一方、日本では空襲時には逃げずに火を消す、逃げたものは懲役刑または罰金刑の「防空法」があり、爆撃の犠牲を甚大化させている。その手引書の「火たたき」や「手袋で焼夷弾も熱くない」などを目にして木村さんは「ちょっとこれなんて…」と呆れた表情である。 所さんは「みんなが同じ方向を向いちゃうのがいちばん怖い」「今のネット時代もちょっとしたことで同じ方向をむく…これも暮らしにくいこと」と。
ゲストのリュウチェルさんは、沖縄での平和教育を紹介し若い人にも考えてほしいこと、今のままではまた戦争が起きてしまう危機感を持っているとし、本郷和人氏(東京大学史料編纂所教授)は、太平洋戦争の戦史研究は戦争の残酷さを明らかにすることとが平和のために重要と述べている。
所さんは「太平洋戦争って今からちょっと前じゃないか」「80年位前の話をもうないものだと思っちゃっている」木村さんは「勝つために手段を択ばない、戦争はそうなってしまう」とし、本郷は「戦争は力と力のぶつかりあいだが、そこに行くまでに政治が外交が経済があり、どこかで止めるチャンスがある」冷静に一人一人が判断していくことだとした。
「煙幕」は兵器工場を守るため、「新焼夷弾」は無差別に焼き尽くす爆撃のため、日米ともに「軍事研究・実験」は市民の命を守る思いは全くないことが示された番組であった。エンディングで所さんは「戦争を始める人は甘いものが食べたりないのでは、けんかになりそうになれば、周りがまあまあ羊羹でも食べてれば」と笑いにしていたが、戦争に対して大上段に構えずとも、平易なことばで、平和をかたるこの番組に「やったね」と拍手を送りたい。
当時2歳だった姉(山村カヨ子)は1945年3月14日の大阪大空襲でこの焼夷弾の直撃を受けて犠牲となったが、彼我の圧倒的な力の差にもかかわらず、戦争を始めその継続に国民をかりたてて、絶望的な犠牲を強いた人間の愚かさに改めて怒りを覚えた。
2022.08.02 渋沢理絵(放送を語る会)
NHK特集「そして、トンキーもしんだ」を視聴【改訂版】 8月2日 (火) 午後18時10分からBSプレミアムで放送
歌手のさとう宗幸さんと2人の娘さんに「そして、トンキーもしん
上野動物園の園長の根本さんとさとうさんとの
上野動物園の象の”トンキー”と”ワンリー”、当初2匹の象を殺処分せず
上野動物園の職員は激しく抗議したが、当時の日本政府のプロ
トンキーがもっとえさが欲しくて職員
戦争で良い思いをする人は一握りの人たちで、多くの人は悲しい思いをす
いいことは一つもない戦争をなぜ人はするのか、
仕方がないことではない。やむを得
しかし、こんな悲しい思いをしな
当たり前に動物が動物園にいること、私たちが楽しく観賞できるこ
「そして、トンキーもしんだ」の絵本を知っていたので、話は知っ
特集ドラマ「軍港の子 よこすかクリーニング1946」
NHK総合 8月10日22:00~
2023.8.13. 五十嵐吉美(放送を語る会)
以前から私は日本という国が戦争責任を果たそうとしないこと、戦
米軍の巨大軍艦が停泊している横須賀港。
小川今日一(13歳)は、横浜大空襲で母親を失い、引き取られ
主人公を演じた小林優仁が「“僕たちはこう生きた”と言ってい
以前NHKのドキュメントで、東京大空襲で焼け出され、上野地下
子どもたちに責任はない。当時の子どもだった被害者たちが空襲
「軍港の子」のラスト――海岸で、施設から逃げ生きられたが妹は
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